痛みの裏
増田朋美
痛みの裏
痛みの裏
雨が降っていて寒い日であった。こんな日は外になんか出る気にもならないので、みんな部屋の中にいるのが常であるが、意外にも、こんな日は大活躍する職種の人もいる。雨になると、需要が多くなる職業と言えば色いろあるが、中にはこんな人もいるのかもしれない。
杉ちゃんが、用事があって、富士駅を訪れた時の事。白い杖をもって、点字ブロックの上を歩いていた、古川涼さんの姿を見かけたので、杉ちゃんは思わず声をかけてしまった。
「おーい、涼さん。」
杉ちゃんがそういうと、涼さんは、点字ブロックの上で止まった。
「こんな雨の日に、どこへ行くんですか?」
涼さんは、点字ブロックの上から離れず、視点も変えないで杉ちゃんに、
「クライエントさんのお宅ですよ。クライエントさんから依頼があれば、どこへでも行きます。」
といった。
「そうですか。こんな雨の中でも仕事はするんですか。」
「ええ、晴れだろうが雨だろうが、クライエント様から依頼があれば、どこへでも行きます。」
涼さんは、表情すら変えないで、そういうことを答える。
「今回も、精神的に問題があるクライエントさんか?」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ、たぶんそういうことになるでしょう。体には何も問題はないのに、体が痛いので来てくれというんですよ。そういう方はね、聞いてあげた方が楽になるというものです。」
と、涼さんは答える。
「へえ、一体どんな人?」
「ええ、なんでも、普段は舞台女優として活動されていたそうですが。」
「は?涼さんが、有名な女優さんにお願いされたの?」
杉ちゃんがびっくりしてそう聞くと、
「まあそうかもしれませんが、有名人なのか、一般の人なのかということは関係ありません。其れより、クライエントさんの苦痛を和らげてやる事の方が大事ですよ。」
涼さんの言葉に、杉ちゃんは何か思い当たる節が在った。
「もしかしてさ、その女性、一寸変わった名前をしてるんじゃないか?もしかして、えーと、鬼頭なんとかという。」
「よくわかりましたね。」
涼さんはあっさりといった。
「僕知っているよ。と言っても蘭から聞いた話しだけど、ご主人を介助することによって、有名になった人でしょ。蘭の話しでは、テレビに出ていたんだってね。ご主人を介助した時のインタビュー。今は、こんな事でも売り物になるのかって、蘭のやつ、感心してたぜ。僕はもちろん、家にテレビがないので、何も知らないけどね。」
「はい、そうなんです。今日はその鬼頭久美さんのご依頼があって、彼女のお話を聞くことになりました。彼女のご自宅にこれから向かいます。そろそろ、バスの時間もありますので、杉ちゃんもういいですか?それではまた。」
涼さんは点字ブロックの上を歩きだした。急いで杉ちゃんは涼さんの体の向きを変えて、
「バス乗り場はこっちだよ。まっすぐ行ったら北口出口へ出ちゃうから、そうじゃなくて、右に曲がっていくんだ。」
と、教えてあげた。
「ありがとうございます。北口からバス乗り場まで、一歩、二歩、三歩。」
勘定しながら歩く涼さんを杉ちゃんは大変だなと思いながら見送った。
其れからしばらくたったある日のことである。杉ちゃんと蘭が、近隣の書店兼文房具屋に出かけた時の事であった。いつも通り、タクシーから下ろしてもらったところ、まだ開店していない書店の前で長蛇の列が出来ている。
「一体、何の列だ。何かイベントでもあったのか。」
と、杉ちゃんがぼそっと言うと、
「鬼頭久美さんの手記の出版記念サイン会です。よろしければ、お客さんもいかがですか?」
と、店員が言った。
「はあ、あのご主人を介護したことで有名になった女優か。そんな奴の何処がいいんだろう。まあ僕はテレビを見てないから、どういう人物かよくわからないけれどね。」
杉ちゃんが言うと、
「じゃあ彼女のためにも、サイン会に参加してやって頂戴よ。彼女は、ご主人の事、自分の事、正直にまとめて、それを手記に書いたのよ。」
と、最後尾に並んでいた中年のおばさんが言った。
「はあ、それを書いた本なんですか。」
と、杉ちゃんが答えると、
「ええ、なんでも、ご主人が脳梗塞で倒れてそれを一生懸命介護して、そして、自分も心因性疼痛みたいなものになったのに、ちゃんとご主人を面倒見て、ちゃんとやったんだから。其れってすごいと思うわ。素晴らしいじゃない。」
と、別のおばさんがそういうことを言った。確かにこの人たち、明日は我が身と考えてもいい年代なのかと思うけど、それにしてはちょっと、軽率すぎる気がする。何だかただ、世の中の情勢に合わせて動いているだけのような、それだけのような気がするのである。
「まあ、人生何でも商売にしちゃうというのはよくある事だけど、一寸苦労を商品にしてしまうのはどうかと思うな。」
と、杉ちゃんが言うと、蘭も、
「そうだねえ。なんかそれを利用して有名になるより、感謝することの方が大事なような気がするけどなあ。」
と、杉ちゃんに賛同した。其れと同時に、
「それでは、サイン会を始めますので、希望される方は、一列にお並びください。」
と、店長と思われる男性が、声高らかに言った。其れと同時に長蛇の列は、店長の男性が指示した方向へ動いていく。やがて、ワンピースに身を包んだ女性が、その列の頂点にある、机と椅子に座った。
「何だ。ただの中年女性じゃないか。有名人って感じの顔じゃなさそうだな。まあ、さほど長続きしないと思うよ。」
と、杉ちゃんが彼女を眺めながらそういう事を言った。確かに舞台女優というと、花のような美女という表現が多く用いられる容姿をしているが、そういうところからは遠い容姿をしていた。
「女優というより、文筆家として商売変えた方が良いかもね。」
と、杉ちゃんは慣れた手つきで本にサインを続けるその女性を眺めてそういった。長蛇の列は切れることなく、彼女のサインを求めている。
「でも、なんか興味あるな。彼女、どうやって、心因性疼痛から立ち直ったんだろう。僕のお客さんにもそういう病気に罹患したことがある人が居てね。彫っていいもんだか困ってしまったことが在るよ。でも、針の痛さより体の痛みのほうが多いと言われて、仕方なく彫ったけどね。」
と、蘭は興味深そうに言った。
「で、その人は、どうして刺青を入れようと思ったの?」
杉ちゃんが聞くと、
「まあ、痛みが取れることはないから、ライフスタイルの見直しの象徴として、入れたいって言ってたな。もう痛みを感じているというのは、自分の今の生き方がいけないってことだと割り切って、新しい自分になるために、彫ってくださいということだった。そういう心の病気というのかな。それに罹患した人が、僕のところに来た例はよくあるが、具体的に痛いという人は初めてだった。彫り終わってから彼女は、ひどい時の痛み方のほうがもっといたかったと言っていたよ。」
と、蘭は、一寸意味深そうにいった。
「なるほど。そういう心の症状もあるってことか。まあ、人間ってよくわからないもんだぜ。僕は思うんだが、いまここに並んでいる人たちの中で、鬼頭久美さんと同じような病気の人が居ないというのが問題のような気がするが。」
杉ちゃんは腕組みをした。
「そうだねえ。でも、誰かに代理で買ってもらっているのかもしれないじゃないか。痛みがある人っていうのは、動けないことのほうが多いからな。まあいい、興味のある本だから、一寸買って読んでみることにするよ。そういう本は人の人生観が出て、面白い事が多いから。」
蘭は、車いすを動かして、書店の中に入った。杉ちゃんもおい、待ってくれとそれを追いかける。本はまだ在庫があり、蘭もすぐに入手することができた。書店の店員がサイン、まだ間に合いますよといってくれたが、蘭は其れには参加しなかった。車いすの人が、長蛇の列に入るのは、一寸危険があると思ったので。蘭と杉ちゃんがお金を払って、書店を出ていこうとしたとき、
「こんにちは。本を買ってくださりありがとうございました。こういう障害のある方に買っていただけるなんて、とてもうれしいです。」
と、いきなり声がしたので振り向くと、鬼頭久美という女性が、杉ちゃんと蘭のほうを見ているのだった。
「ああ、どうも。」
と、蘭は軽く頭を下げて、彼女に挨拶する。
「ありがとうございます。読んでいただいて光栄です。」
「良かったら、お客さんもサインをもらっていきませんか。」
と、店長に言われて蘭はどうしようかと思った。
「いいじゃないですか。せっかく来てくださったんですから、サインもらっていってください。」
店長にそういわれて、蘭は彼女に本を渡した。彼女は丁寧に本の背表紙にサインする。そのしぐさとか、動きとかは、明らかに芸能人というのがわかる感じで、容姿こそ優れていないものの、女優らしい感じだった。
「はい、あなたのお名前は?」
鬼頭久美はにこやかに笑った。
「ええ。僕の名前は、伊能蘭です。」
と、蘭が答えると、彼女はわかりましたと言って、背表紙に伊能蘭様と書き込んだ。そして、はい、どうぞと本を彼に渡す。
「どうもありがとうございます。何だかサインをいただいて嬉しいです。」
蘭が正直にいうと、
「ええ、私も障碍のある方に買っていただいて、なんだか本当に役に立てたような気がしました。私もうれしいです。ありがとうございます。」
と鬼頭久美は答えるのであった。
「じゃあ、これで失礼しますから。」
「ええ、これからも、頑張って活動していきますので、よろしくお願いします。」
鬼頭久美は、杉ちゃんと蘭に頭を下げる。
「はあ、こうやってみると、女優さんらしいなあ。まあ、サインもらえてよかったな。今日はラッキーな日だったねえ。」
「そうだねえ。確かに礼儀と礼節はわきまえてるな。」
と、杉ちゃんと蘭は、そういうことを言いあいながら、書店を後にした。
その翌日。杉ちゃんと蘭は、いつも通り買い物に行くためショッピングモールに行くことにした。その日は雨が降っていたので、又タクシーを使うことにした。タクシーが、それでは行きますよと、エンジンをかけたその時。
「昨日、あの本、読んでみたんだけどさ。」
と、蘭はちょっと不満そうな顔をしていった。
「なんだ、面白くなかったの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「まあ、面白くないっていうか、一寸彼女に感謝の気持ちというかそういうものが感じられないんだよ。」
と、蘭は言った。
「感謝って誰に?」
と杉ちゃんが言うと、
「あの本では、なんでも彼女が一人で全部やったように書かれているけどさ。もちろん、彼女はそれなりに努力したと思う。援助者も、そういうところで彼女に手を出してあげていると思う。でも、彼女が一人で全部それを掴んだとはいいがたい気がするんだ。彼女の家族とか、友人とか、そういうひとが、手を出したと思う。そういうところも、ちゃんと書いてくれればいいのに。でも、それがまったくなくて、彼女が自分で全部やったような文体で書かれていたので、一寸、つまらないなという気持ちがするんだ。」
と蘭はちょっといやそうな顔をした。
「はあ、つまり具体的にどういうことなんだよ。自分で見つけたって何をさ?」
杉ちゃんが聞くと、
「うんだからね、たとえばさ、彼女はご主人を介助して、自分も体の痛みと戦いながら生きていたということを書いてくれてあるんだけどね。痛みというのはね、僕のお客さんでもわかるんだけど、ああいう風に善良な判断ができるかどうか。できないと思うよ。彼女はよく、自分の痛みを我慢して旦那さんに尽くしたものだ。その愚痴を吐き出したりしていなかったのかな。そういう人物はいたんじゃないかな。でも、それに関する記述が何もないんだ。」
と、蘭はそういった。
「鬼頭久美の手記なら、読んだことありますよ。いわれてみるとそういう事もあるなと思いますね。確かに痛いということで、自分でなんでもかんでもできるか、と考えると、そうではないと思うなあ。」
運転手がそういうことを言っている。
「ああ、やっぱりお前さんもそう思うのか。そうだよなあ。僕は援助者を一人知っているよ。あの
、古川涼さん。彼が、彼女の家に行くところを見たんだよ。其れも書いてなかったの?」
杉ちゃんがそういうと、
「やっぱりいたのか。そういうところも、ちゃんと書いてくれればいいのにな。人間、ひとりでなんでもできるというわけじゃないんだから。弱みというのかもしれないけど、其れも表現してくれればと思うんだけどね。」
蘭は、一寸ため息をついた。とりあえず、ショッピングモールに到着したので、そのお話は終わりになった。それ以上二人が彼女の事を言及することはしなかったのであるが。
又翌日。杉ちゃんが用事があって駅に行くと、点字ブロックの上を、涼さんが歩いているのがみえた。
「涼さん。」
杉ちゃんが声をかけると涼さんは、点字ブロックの上で止まった。
「また、クライエントさんのお宅ですか?」
「ええ。そうです。」
涼さんは即答した。
「其れってもしかして、最近本書いて、ブレイクしたあの平凡女優の家?」
杉ちゃんがからかい半分でいうと、
「杉ちゃん、そんな言い方はしてはいけませんよ。一応クライエントさんなんですから、ちゃんと名前を言わないとね。」
と、涼さんは言った。
「相変わらず、彼女は、お前さんに旦那さんの愚痴とかそういうことをいってくるのか。」
と、杉ちゃんが言うと、
「まあそういうことですが、お答えはできませんね。一応守秘義務がありますので。」
と涼さんは言った。
「まあ確かにそうかもしれないけどさ。涼さんさ、本でも一冊だしてみたらどうだ?彼女に話を持ち掛けてさ。彼女が、本を出版できたのは、お前さんのおかげでもあるんだぜ。そこらへんを描くんだよ。そうすればお前さんだって、もっと苦労しない生活ができるんじゃないの?」
杉ちゃんがいきなり滅相もないことを言いだした。涼さんは、そうですね、と見えない目を変な方向に向けた。
「そうですねじゃないよ。お前さんは、間違いなく、あの女性が本を出してブレイクするきっかけを
つくったんだからさ。もうちょっと、そこを売り出してもいいんじゃないのかな。お前さんだって、こっちに来るのは大変だろ?ただでさえ、目が見えないのに、こっちに来て色いろやらされるんだから。だったら、そこを使ってさ、彼女に言ってみたらどうだ?彼女が、有名になれたのは自分のおかげだって、ちゃんと話をしてさ。僕は悪気があって言うわけじゃないよ。お前さんのことを有名にしたいとか、そういう下心があるわけでもない。ただ不公平だって言ってるんだ。あの女性の愚痴を聞いてやって、支えてやったのはお前さんなのに、あの女性ばかりが有名になって、お前さんはいつまでたっても下働きのままでいるのがおかしいって言ってるわけ。なあ、どうだ?わかるだろ?」
「杉ちゃん、長らくお話ししてくれるのはありがたいんですが、僕はそういう話は出来ませんね。第一有名に何かなりたくありません。其れよりも、聞いてほしい人たちがいるということに重点を持っておきたいです。それ以上の地位は望みません。」
杉ちゃんがそういうと涼さんは、杉ちゃんの話を途中で切ってそういうことを言った。
「そうなんだけどね。何か善良すぎるというか、善良も度が過ぎるとよくないぞ。誰かに利用されたり、踏み台にされたり、そんなことだってあるかもしれないじゃないか。事実、それが今ここで起きてるんじゃないかという気もするんだよ。そう思わないか?あの女性があそこまで有名になるんだったら、お前さんだって何かお礼をもらってもいいんじゃないの?違う?」
と、杉ちゃんは、涼さんに言ったが、涼さんは、
「それはいけませんよ。杉ちゃんもわかると思いますが、僕たちは欠陥者と日ごろから思われているんですから、そういうひとが、日の当たるところへ出ると、碌な目に会わないのは、ご存じないんですか?」
といっただけだった。
「そうだけど、目が見えないということを武器にしてもいいと思うけど?」
と、杉ちゃんがもう一回言うと、
「それはいけませんよ。障害というのは武器にしてはいけません。其れを利用してお金を儲けようとか、何かしてもらおうとか、そういうことを思っては絶対にいけないんです。其れを勘違いしてはいけないんですよ。僕たちは、ただでさえ他人から何かしてもらわなければ生きていけないんですから、恩をあだで返すようなことはしてはいけません。それは、どんな人でもそうなんですけど、ただ、それがはっきりわかるか、わからないかの違いだけなんです。欠点とか欠陥を売りにするということは、本来なら自然の摂理じゃないんです。逆らってはいけませんよ。」
と、涼さんは、そういうことを述べた。杉ちゃんは、
「確かにそうかもしれないけれどね、蘭の話によると、彼女、鬼頭久美の手記には、お前さんのことは少しも書かれていなかったそうだ。お前さん、彼女のことを一生懸命支えたはずなのに、それが何も書かれないで自分の手で立ち直った、そういうことを書いてあるらしいぜ。お前さんそれ聞いて、悔しくないのかい?いくら、目がみえなくても、ちゃんとお前さんの愚痴を聞いてやったじゃないかって思う気にならない?どうなんだ?」
ともう一回言ったが、涼さんは表情一つ変えず、
「いえ、そんなこと一度も思ったことありません。鬼頭久美さんが、もし悩みを聞いてほしいと言って来たら、それを全力で聞いてやるだけです。それに彼女が幾ら有名になったとして、新たな悩みが発生しないでもない。だから僕はこれからも彼女の話を聞き続けますよ。杉ちゃん、バス乗り場は、ここを右に曲がるんでしたよね。ここから右に曲がって、13歩。そうですね。」
と、いって、点字ブロックの上を歩き始めてしまった。
「なるほど。欲がないというか、潔いというか。でも、障害があるからって、変な奴を演じる必要もないと思うんだがな。其れができるのは、まだ遠い先かな。」
杉ちゃんは、涼さんの背中を眺めながら、そういうことを言った。
痛みの裏 増田朋美 @masubuchi4996
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