第10話 婚約破棄は私のエンジェル 4,000文字ほど
- 1話 おはよう -
この世界は、普通の世界ではない。魔法もあるし、魔物だっている。科学では説明のつかないことばかりだ。けれどこの世界の人にとってはこれが当たり前で。どうして私がこの世界をおかしいと思うのか。それは、私には一つの誰にも話していない秘密があるからだ。
いつものように扉のノックされる音に起こされる。まだ眠いけれど、起きないわけにはいかない。私はまだ寝ていたいという体を叩き起こしてベッドから降りた。
「おはようございます、お嬢様」
扉の向こうから聞こえてくる執事の声に、私はやっと目を覚ます。
「おはよう、ノア」
彼の名前はノア・モンステラ。私と対して変わらない歳なのに私専属の従者として幼いことから支えてくれている執事だ。毎朝私より早く起き、私を起こしにくる彼がどうやって起きているのか、よく寝坊してしまう私にはよくわからない。目覚まし時計で起きられるなんて、そんなに眠りが浅くて大丈夫なのだろうか。……いや、私がおかしいだけか。二度寝しちゃうんだよね、どうしても。
「入っても構いませんか」
いつもの平坦なその声に私は明るい声で返事をする。
「もちろんよ」
その声を合図に扉が開く。そこには平常運転のノアが立っていた。
ノアはいつも笑わない。別に、感情がないとか、そういうわけではない。ただ、表情が薄いと言えばいいのだろうか。私が覚えている限りでは、彼が笑ったのも、泣いているのも見たことがない。その分口で伝えてくれる、というわけでもなく、ノアが何を思っているのか、私にはいつも謎だった。
「本日はヘンリー様とお会いする日ですが、ドレスは私が選んだ物でよろしいですか」
ヘンリー様。それは私の婚約者の名前。この国の王子様、ヘンリー・スイセン様は、煌びやかな生活の似合う人だ。それなりに位のある貴族に生まれた以上、そういうものはつきものだ。仕事だと割り切れればいいのだが、あれと結婚する未来なんて、とてもじゃないが了承できない。
「ええ、構わないわ」
だから、私がヘンリー様とお会いするのは多くても月に2、3回。別に、ヘンリー様が悪いわけではない。普通の貴族だと思う。けれど、前世の記憶のある私とはどう頑張っても価値観が違いすぎる。はっきり言って、合わないのだ。
「では、メイドを呼んで参りますので、お召し替えの準備をお願いします」
私がうなずくと、ノアは美しい歩きで部屋を出て行った。準備といっても、心の準備くらいしか私にはすることがないのだが。
「はあ」
私は誰にも聞こえないよう、小さくため息をついた。
- 2話 信じていたのにね -
メイド達に着替えを手伝ってもらい、部屋を出る。豪華なドレスはその分重く、一人で着るどころか、歩くのも一苦労だ。もう少しシンプルなものはないのだろうか。いつもそう思うのだが、残念ながらこの世界ではあまり取り入れられていないようだ。
家族のいない、私一人の朝食を軽く済ませると、もう行かなければならない時間だ。いつも通り、お城行きの馬車へとノアと共に乗り込む。今日は珍しく、手紙での招待状ではなく、言伝で呼びつけられた。呼ばれたのではない。一方的に、呼びつけられたのだ。
「大丈夫ですか、お嬢様」
いつもの変わらない無表情だが、私にはその声がやさしく感じられる。ノアの感情はわかりにくいが、ある程度はわかってあげられているつもりだ。ノアの好きな食べ物とか、ノアの服のセンスとか、ノアの私に対する思い、とか。
「ええ。ありがとう」
にっこり笑いかけると、ノアは目線だけを少し下に向ける。それはあなたが安心した時にする癖。
私はよくあなたを見ている。その分あなたも、私を見てくれている。私はそんなあなたが好き。私だけでなく、周りの人に気を使い、誰かの無事を心から安心できる人。そんなあなたが、私は好き。
けれど、許されるわけがないから。身分の差が重くのしかかる。ヘンリー様はもっと重い。身分よりも何倍も重い。ほんと、どこかに捨ててしまいたいくらい重く、必要性も微塵と感じられない。ヘンリー様は、なにも悪くないのだけれど。ああ、でもそう言えば、一つ気になることはあったかなあ。
私は頭の中に一人の女性の姿を思い浮かべた。彼女は若くして夫に旅立たれた未亡人で、最近ヘンリー様とかなり仲良くしていると聞いている。そのせいで、貴族達の間では私が捨てられるなんて噂も流れているのだとか。
けれど、そんなわけない。私が一方的に仲良くなれないなと感じているだけで、ヘンリー様は浮気をするような人じゃないはずだ。
そう、思っていたのになあ。
「エミリー・パキラ。君との婚約を破棄させてもらう」
ヘンリー様は大きな声で私たちに言い放った。ノアは私を庇うように、私の前に腕を広げて立っている。
落ち着いた様子で話すヘンリー様。その横には、嬉しそうにニタニタ笑う、例の女性がいた。
- 3話 嘲笑え -
私達は状況が掴めず、ただただ固まっていた。城についていきなり婚約破棄を言い渡されるなど、思っても見なかったのだ。けれど、これはチャンスだ。身分差は無くならないが、婚約者だけでもいなくなれば。
ヘンリー様があの女と結婚してこの国を継げば、国が荒れることは目に見えている。だけど、私にはそんなことどうだっていい。貴族という身分を捨てて、ノアと二人で逃げてもいい。私のことを気にもとめない両親なんて、今はどうでもよかった。
「エミリー、君は私の友人であるライアーさんに対して酷い仕打ちをしたそうじゃないか」
落ち着いている風を装ってはいるが、内心では怒りにあふれているのだろう。幼少期から、たまにではあるが、ともに過ごしてきたのだ。そのくらいはわかる。
「っ。ヘンリー様、あなたは」
「ノア」
暴走しそうになるノアを言葉だけで止める。ノアが誰かに声をあげているのは、初めて見た。ノアがそんな姿を見せてくれたことも、私のために怒ってくれていることも、そんなノアが私の言葉一つで止まってくれたことも、全てが愛おしく、嬉しい。
「躾がなっていないようだな、エミリー。全く、貴族から除名したいくらいだ。こんな醜態」
ヘンリー様がこんな人だったとは、思っても見なかった。ヘンリー様は、私の王子様ではなかったが、確かに理想の王子様だった。この世に完璧など求めてはいけないのは分かっている。けれど、そんなに騙されやすい人だったなんて。この先、王様になって、やっていけるのかしら。
「では、そうしてくださいませ」
私はついつい溢れ出るご機嫌をなんとか押し殺そうと、自分と戦いながら、それでも笑顔で言い放った。そうなれば、そうなれば。
「な、なにを……」
「ねえ、ノア」
黙っていろとでも言わん限りに王子様から目を逸らし、私はノアの目をしっかりと見つめる。
「私、昔からパン屋になりたかったの。貴族なんて、私には似合わないわ。あんな大きなお屋敷でなくていいから、優雅な日常でなくていいから、私に見合った暮らしがしたいの」
目を向けられないほど美しく、恐怖を感じるほど妖しく。
「ついてきてくれるわよね、ノア」
私は、笑った。笑ってやった。私の、私たちの幸せのための踏み台になってくれた、あいつらを。
- 4話 手に入れた夢 -
怖くなんてなかった。たとえ断られようが、一人で出ていくくらいの覚悟はあったから。ノアは見たことのない、ぽかんとした顔で口を小さく開けて私を見ていた。それまるで、美しい模様に釣られて蜘蛛の巣に引っかかった蝶のように。
ノアは笑わない。こんな時でも微笑んでくれないあなた。けれども、それでも。ノアは口を閉じ、しっかりとした目で私を見た。その中に恋という文字がつく愛情が含まれているのを、私は知っている。
「もちろんです、お嬢様」
ぐっと手を握られたかと思うと、引っ張られる。
「行きましょう、お嬢様」
こんなに生き生きしているノアは初めて見た。私は声を出して笑った。もう声を押し殺し、お淑やかに笑う必要はないのだ。私には似合わなかったこの貴族社会。さようなら。私たちの踏み台になってくれて、ありがとう。
私達は走り出していた。幸せな未来に向かって。この先にあるのは、きっと幸せな天国。
今日も早起きしてパンを焼く。ここまで来るのはあっという間だった。ノアの知り合いを通じて店を手に入れ、働いてお金を返して行った。彼は私は働かなくてもいいといってくれたが、私は普通に働けることが幸せで仕方なかった。私に、あの貴族社会は狭すぎだのだ。広すぎだのだ。
覚えなければいけないことがたくさんなのは変わりないが、それでもやっぱり前世の馴染みのある生活に近い今は、とても楽しい。
「お嬢様。朝食の用意が済みました」
もう執事服を身に纏わなくなった私の彼。いつまでもお嬢様、なんて呼ぶのはやめてほしいのだが、それが彼の生きがいだというのだから仕方がない。けれど、たまには。
「ねえ、名前を呼んで、ノア」
彼の頬に手を触れる。彼はずいぶん表情豊かになった。今まで表情が固かった理由を聞けば、私に対する恋情を誰にも悟られたくなかったのだというから可愛らしい。
「愛してるって言って、ノア」
顔を真っ赤にして。腕で顔を隠して。目線を逸らして。そうやって恥ずかしがるあなたを見るために、揶揄う私はどこかおかしいのかしら。
「……愛しています、エミリー」
優しい目をしてふわりと笑って。ああ、だめだ。私までほおが赤くなる。
「エミリーは……」
愛していると言って欲しい。それさえも恥ずかしくて言えないのね。
「もちろん、愛しているに決まっているじゃない」
これだから、あなたを揶揄うのは楽しいのよ。
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