第542話 試合前
「顔が真っ青だな!」
夜、町役場での仕事を終えて、宿屋で一眠りして闘技場にやって来た俺は、闘士控え室で椅子に座り、今夜の対戦相手を確認して、今すぐにでも逃げ出したい気持ちになっていた。しかし一つしかない出入り口の前にはリットーさんが張り付いていて、敵前逃亡を許してくれるような雰囲気ではない。
「今日の目的は、夢幻香を使わずとも『有頂天』になれるかと言う部分だ! それさえ叶えば、すぐに降参して良いのだぞ!」
俺の気分をリラックスさせるつもりなのだろう。そんな事を口にするリットーさんだったが、降参したところで、今日の相手はその手を止めてはくれないだろう。しかもよりにもよって今日の相手はあいつなのだ。『有頂天』に入る前に決着がつく可能性もあり得る。
「はあ……」
何度目かの溜息が口からこぼれる。いっそ事情をリットーさんに話すべきだろうか? 闘士用の出入り口は闘技場の衛士によって封鎖されているが、俺は転移が使えるから、逃げ出す事は可能だ。が、そうなると今回の試合に賭けていた観客たちが暴動を起こし、今後二度と俺はこの安全地帯の町にいられなくなり、俺の命が詰む。
更にそうなるとボッサムの案が通る事になり、この町はボッサムのものになってしまうのだ。そこに人間の居場所があるとは思えない。バヨネッタさんたちも窮する事になると考えると、逃げは得策ではない。だから闘わなければならないんだけど……、
「はあ……」
「ハルアキ!!」
溜息に溜息を重ねる俺に、リットーさんの檄が飛んできた。その大声にピシッと背筋が伸びる。
「ハルアキが今、何に悩んでいるのかは知らないが、それは闘いの前では雑念だ! そんな事では本当の『超集中』にも、『有頂天』にもたどり着けないぞ!」
リットーさんの言葉にハッとする。そうだな。ここまで来てウジウジしていてもどうしようもない。コレダの人形との特訓で何を学んだんだ。常在戦場。気持ちをいつも戦場に置いているつもりで、集中力のアベレージを高めておかなければ。
とそこで控え室の戸がノックされた。
「ハルアキ選手、時間です。舞台にお越しください」
はあ。今度こそ、本当に覚悟を決める時が来た。自然と自分の中の集中力が高まっていくのを感じながら、立ち上がると、スッとリットーさんが横に退いた戸を開けて、舞台へ続く通路を歩いていく。相手が相手だ。一瞬でも気を抜けば、俺の命はない。しくじらないようにしなければ。
暗い通路を抜けた先、闘技場の舞台は、夜だと言うのに煌々と魔法のライトに照らされ、眩しかった。その眩しさに手を翳しながら舞台に出ると、観客席から歓声が上がる。それは観客たちからの冥い期待に満ちたもので、誰一人として、俺が勝つとは思っていないのが、罵声と言う形になって表れていた。
こんな中で精神を集中させて闘わなければならないのか。と今にも心が折れそうになるが、VIP席から俺を醜い豚面で見下すボッサムを目にすれば、自然と心に火が灯り、観客たちの罵声も気にならないくらいに、集中力が増していくのが分かる。
そんなボッサムの横で、こちらを見下ろしている者がいる。ジオだ。ジオは俺が視線を向けている事に気付くと、口角を上げて皮肉めいた一瞥をこちらへ寄越すと、隣りのボッサムとわざとらしく楽しそうに談笑を始める。こっちは命懸けだと言うのに、どんな腹積もりであそこに座っているのやら。
しかし両者をしてお互いを本気で信頼している訳でもないらしく、二人の後ろには護衛が立っていた。ボッサムの後ろには四人、俺の『鑑定(低)』では鑑定出来ないので、俺よりレベルが高いのが分かる。ボッサムもボッサムで鑑定出来ないくらいレベル高いけど。ジオの後ろにはエルデタータ一人だ。まあ、彼女なら分身したりレベルを相手に合わせたり出来るから、護衛としては適任か。
そんな事に思考を割いていると、観客たちの歓声が、俺の時とは比べ物にならない一層の盛り上がりをみせ、闘技場が揺れる。アルティニン廟で怨霊王と称されるジオと、ブーギーラグナの支配地で一国を任されるボッサムが、わざわざ観戦に来る対戦カードだ。相手がそんじょそこらの二流三流じゃない事は確定だ。俺も今回の対戦は相当キツいものになると覚悟していたが、まさかこんな大物を用意してくるとは思わなかった。
俺の向こう正面から舞台に姿を現したのは、右手に柄しかない剣を持ち、全身を包帯でぐるぐる巻きにした長身痩躯のミイラ男。アルティニン廟に五体いる大ボスの一体、シンヒラーだった。
「まさか対戦相手があんただとは思わなかったよ」
「闘わないと戦闘の勘が鈍るからなあ」
肩を竦めながらそんな事を口にするシンヒラー。何だよそれ。
「だったら、同レベル帯の相手でも良かったんじゃないか? 例えばあそこでふんぞり返っている豚面とか」
「おいおい、俺は牧童じゃあないんだぜ? 家畜の世話なんてしてられるかよ」
「そいつは失礼した」
常在戦場の心持ちを持った今なら、へらへらとジョークを交えていても分かる。シンヒラーの集中力がとても高い状態で維持されているのが。こいつは、こんなリラックスした状態でも、心は常に戦闘状態にある。いや、いつでも戦いを欲しているんだ。戦闘狂め。
「この闘いも、この町の発展の為らしいからよう。手は抜かないぜ。俺を楽しませろよな?」
つまり、一発で死ぬなよ。って事だろう。口角を上げ、シンヒラーが極悪な笑みを浮かべたところで、闘いの開始を告げる鐘が鳴らされた。
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