第85話 治水の事を考えてみる

「ベフメ伯爵? がどうしてここに?」


 言ってから何か不敬な事を口にしたのではないかと想い、両手で口を塞いだが、ベフメ伯爵の方はキョトンとして首を傾げるだけだった。ほっ。


「私は視察よ」


「ああ、視察ですか」


 とりあえず話を合わせてみる。何の視察か全く分からないのだが。


「もうすぐ雨季だから、堤防の出来具合を視察して、壊れそうな箇所がないか見て回っているのよ」


「へえ」


 もうすぐ雨季だったのか。それは増水するだろうなあ。川の氾濫は毎年の事らしいし、堤防の決壊を防ぐのも領主の務めなのだろう。


「特にここは川の曲がり角に当たりますから、毎年氾濫を防ぐのに必死で」


 確かにピルスナー川はここベフメルでくの字に近いかなりの急角度で弧を描き流れている。


「確かに、川が氾濫すれば街が水浸しになりそうですね」


 俺は振り返って街を見遣る。日が暮れかかる街は家や街灯に明りが灯り、とても賑わっていた。


「ええ。この街の人たちを、私が災害から守らなければならないわ」


 俺と同じように街を見下ろすベフメ伯爵の横顔は真剣なものだった。


「しっかし、何でこんな危なっかしいところに街を作ったんですかね? もっと流れの真っ直ぐな場所に作れば良かったものを」


「どこもそう変わらないわ。ビール川流域の街は、どこも吸血神殿の近くに作られているのだけど、大概が川が氾濫する場所なの。それにオルドランドは土地が低く草原の多い土地柄だから、一度川が氾濫を起こすと、どこまでも川の水が流れていき、辺り一帯を泥地に変えてしまうの」


 へえ、それは大変だな。


「まあ、その恩恵もあるのだけれどね」


「恩恵? ですか?」


 そんなの足下がドロドロになって生活がし難くなる害悪しか思い当たらないが。


「ビール川はこう言ってはあれだけど濁っているの」


 ちらりとピルスナー川を見ると、確かに薄茶色に濁っている。


「でもそれは肥沃な栄養を内包している証拠でもあるわ」


 綺麗な水には魚も住まない。って言うしな。どこかの企業が企業努力で海に流す工業排水を綺麗にしたら、綺麗にし過ぎたせいで栄養がなくなり、海の魚が少なくなって漁師が困った。なんて話も聞いた事がある。


「ビール川沿いは水麦すいばくの一大生産地でね、水田がずうっと続いているの」


 水麦って何だ? 水稲なら聞いた事があるが、それの麦バージョンだろうか? つまり水田で作る麦って事?


「ビール川が氾濫する事で、その肥沃な川の水が水田に流れ込み、水田は栄養豊富となって美味しい水麦が出来るのよ」


 生活の知恵と言えば良いのか、ここまで連綿とこの地で生活してきた人々の出した答えなのだろう。


「そうは言っても水田のある土地以上に川が氾濫してしまって、この時期はどこもかしこもベチャベチャになってしまうんだけど」


 そういえばオルさんも言ってたな。雨季だからこそ陸路ではなく川路で行くって。そう言う事か。でもビール川の氾濫も凄そうだし、しばらく、雨季の間はベフメルに足止めかも知れないなあ。


「都市部の被害が一番酷くて、場合によっては私の身長よりも高い水に街が埋もれてしまう時もあったわ」


 それは凄いな。街だろうとその他の土地だろうと、オルドランドで暮らしている限り、ビール川やその支流の氾濫とは、上手く付き合って生きていかなきゃいけないのか。


「そうだわ!」


 色々あるんだなあ。と思い耽っていると、ベフメ伯爵の大きな声にびっくりして、そちらに振り返った。俺の見たベフメ伯爵の顔は、妙案を思い付いたと言うものだった。


「学生さんは学生さんなのよね?」


「はあ、学生ですが?」


 小学生を児童、中学生を生徒、高校生を生徒や学生、大学生を学生と言うので、確かに俺は学生だが、恐らくそんな事を聞かれているのではない。


「ブークサレで学生さんと会った時、かなり博識だとお見受けしたわ」


 そんな事あったっけな?


「学生さんなら、この川の氾濫どのように解決する?」


 なんかいきなり難問を投げ掛けられてしまった。こんな水害なんて一高校生の扱う案件じゃないだろう。しかしベフメ伯爵は何かを期待するような目でこちらを見ている。はあ。


「堤防は各地にあるんですよね?」


「ええ」


「となると、あとはダムかな?」


「ダム、ですか?」


 あまりピンときていないようだ。


「川を途中で堰き止めて、巨大な貯水池を造るんです」


「川を堰き止めるだって? ふざけているのか!?」


 これに怒ったのは今まで俺とベフメ伯爵の会話を静観していたジェイリスくんだった。


「まあ確かに驚くだろうけど、別に完全に塞いでしまって、ここに水が流れてこないようにしようって言うんじゃないんです」


「そうなのね」


 とベフメ伯爵もホッとしたような表情を見せる。


「要は川の水量の調節をしたい訳です。ダムがあれば、そこで一度大量の川の水を貯めておけるので、その先に流れる水量が安定します」


「おお、成程」


「また、貯水池ですから水を貯めておけて、日照り続きで川の水が少なくなったりしても、このダムがあれば水の確保も安定します」


「それは良いわね」


「良いわけないでしょう」


 ジェイリスくんに全否定されてしまった。


「そのダムとやらを造って川を堰き止めれば、ビール川を航行している船はどうなる。川路でどれだけの物量が行き来していると思っているんだ?」


 真面目だなあジェイリスくん。が、その問題はパナマ運河で解決されているのだよ。


「それは解決可能です。まずダムの上から下までの水路をいくつかの水門で仕切ります。そして仕切られた水門内に水を入れていけば、船は水で低い水位から高い水位へ浮き上がり上昇し次の水門に、次の水門でも同じ事を、と繰り返していく事で、船は低地から高地に上がる事が可能なんです」


 ジェイリスくんが歯噛みしながら俺を睨んでいる。


「しかし、もしそのダムとやらで雨季の水量を受け止めきれず、ダムから水が溢れたらどうなるんだ」


「堤防の決壊と同じで、川が氾濫する事になりますね」


「ふん! そら見た事か!」


「まあ、その前にダムの水を放流するでしょうし、ダムが水を貯めている間に、水辺から逃げる時間は確保出来ると思います」


 だから俺を睨まないで欲しい。


「まあでも確かに、ダムを造るとなると、それなりの土地の確保が必須になりますからね。大きなものなら尚更。ここベフメ領だけで問題解決が出来るとは俺も思っていません」


 俺のこの言葉にフンッと鼻で笑うジェイリスくん。俺、ジェイリスくんにこんなに嫌われる事したっけ? あ、今絶賛嫌われ中なのか。


「まあ、そこら辺の話し合いは、私の領分ね」


 とベフメ伯爵。


「な!? ベフメ伯爵! まさかそこの得体の知れない男の話を鵜呑みにして、他領との話し合いまで持っていくつもりですか?」


「ええ。他領との話し合いがまとまれば、評議会にも持っていくつもりです」


「馬鹿げてる!」


 声を荒げてベフメ伯爵の愚行を止めようとするジェイリスくん。


「ではあなたに、毎年氾濫するビール川を治めるアイデアがあるのですか? これは、我が領だけの問題ではなく、ビール川に水源を頼るオルドランド全域の問題なのですよ? 更に言えば、この案には雨の少ない冬でもダムによって水源を確保出来ると言う優れた面もあるのです」


 ぐっと歯を食いしばるジェイリスくん。確かに代案がなければ、これ以上は何も言えないだろうな。とは言え、こちらとしても俺の一案で国に巨大なダムが出来るとなるとゾッとする。


「まあまあ、それぐらいで。俺としても、まさかそんなに食い付かれるとは思っていなかったので」


「いえ、結構な妙案であると私には思えます」


 それはありがとうございます。まあ、ダムは俺が考え出した仕組みじゃないですけど。


「ダムを評議会に出すとしても、それは何年単位の話になるでしょうから、そこのジェイリス様とドイさんと良く話し合って決めてください」


「そうですね」


 とは言え、治水や灌漑は大事な問題だ。ベフメ領だけで出来るものはないだろうか?


「う〜ん、あとは外郭放水路とかか?」


「外郭放水路? それはどのようなものでしょう?」


 キラキラ眼でベフメ伯爵が尋ねてくる。ダム話で期待を持たせてしまったか。


「ええと、地下に水を引き込む巨大な施設を建設するんです。川が氾濫しそうになったら、その放水路に水を流し、川の水位が落ち着いたところで放水路の水を川に戻す。そんな施設です」


「そうですか……」


 うん。明らかにがっかりしているな。なんでだ?


「妙案ではあるかも知れませんが、ベフメでは、いえ、どのビール川流域の街でも難しいかと思われます」


 とドイさんにまで否定されてしまった。


「ここベフメルを含むビール川流域には、吸血神殿が地下に広がっていますから。地下に空洞を造るスペースがないのです」


 成程なあ。


「そう言えば、俺んところの外郭放水路も、『地下神殿』なんて呼ばれてたっけ」


 …………! 俺とベフメ伯爵は同時に顔を見合わせていた。

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