第65話 お犬様の去就(後編)

「じゃあ、帰りますね」


 黒犬の寝床亭。俺とオルさんの部屋で、転移門を開き、後ろを振り返ると、バヨネッタさん、オルさん、アンリさんがニコニコと笑って送り出してくれている。


「さっさと帰りなさい」


 バヨネッタさんはいつにも増して辛辣だ。その腕にはがっちりとミデンが抱き締められ、「ク〜ン」と小さく鳴いていた。


 その鳴き声が抱き締められている苦しさからなのか、俺との別れを惜しんでなのか分からないが、なんとも切なくなる鳴き声だ。


 でもごめんな。連れていけないんだよ。俺はその惜別を断ち切るように転移門を潜り抜けた。日本は雨だった。降り始めのようだ。俺は『空間庫』からビニール傘を取り出すと、パッと開く。


「ワンッ」


 すると足元から元気な犬の鳴き声が聞こえてきたので、ハッとして見遣ると、ミデンが嬉しそうに尻尾を振っていた。


 はっ!? 何でいるんだよ!?


 俺は慌ててミデンを連れて転移門を潜り直し、バヨネッタさんに渡そうとしたら、部屋から出ようとするバヨネッタさんの腕には、がっちりとミデンが抱きしめられている。


 え? どう言う事? 首を傾げる俺の腕の中にもミデンがいる。……ああ、分身か。と納得するが、たとえ分身であっても連れて行く事は出来ない。


 俺は驚いている三人に、無理矢理ミデンを預けると、とんぼ返りで転移門を潜った。


「ワンッ」


 だから何でいるんだよ? 俺は、もう一度返しに行かないとなあ。とミデンを抱き上げる。


「お兄ちゃん?」


 と突然声を掛けられてビクッとした。見ればそこには妹のカナがいたからだ。振り返ると転移門は消してあった。セーフ。だよな?


「カナ、どうしたんだ?」


 俺は戦闘時よりも心臓をバクバクさせながらカナに尋ねる。


「お母さんとの買い物帰りだけど……、お兄ちゃんこそ……」


 くっ、やっぱり転移門を見られていたか。どう言い訳しよう。


「その犬どうしたの?」


「え? 犬? 気になったのこっち?」


「こっちって、どっち?」


 カナは犬の鳴き声がしたから、公園の外れにある公衆便所まで来たのだそうだ。俺は転移門を見られなかった事にホッと嘆息するが、カナの追及は止まらない。


「ねえ、その犬どうしたの? 迷子犬? 捨て犬?」


 グイグイくるな。さて、どう説明したものか。


「いやあ、知り合いが急に引っ越す事になってさあ、で、引っ越し先のマンションがペット禁止みたいで、一時的に預かってくれないか? みたいな?」


「…………」


 苦しかったか?


「一時的?」


「そう! 明日にでも別の飼い主探し出して渡すから」


「その、新しい飼い主って、うちじゃ駄目かな?」


「は?」


 何を言い出すんだ我が妹は。などと思っていると、カナの行動は早かった。公園の外で待っていた母を呼び出し、父に電話して車で迎えに来て貰い、そのままペットショップへ直行。室内犬を飼うのに必要な物を買い込み、四人と一匹で我が家に帰宅したのだった。



「わっはっは。でかしたぞ春秋! この半年くらい、何かペットが飼いたいなあ。と三人で話していたんだ」


 と、父に思いっきり肩を叩かれた。リビングの一画には、既に小型犬用のゲージが作られている。


「ペット飼うだなんて、俺、聞いてないんだけど?」


 ペットを飼うのは了承するが、俺抜きで話が進められていたのが腹が立つ。


「だってお兄ちゃん、この一年くらいゲームとコスプレで引き籠もってたじゃん」


 成程。家族とのコミニュケーションを怠っていた俺にも責任の一端がある訳だな。だとしても、


「せめて一言欲しかった」


 がっくり肩を落とす俺に、夕飯の支度をしている母が慰めるように声を掛けてきた。


「まあまあ、いいじゃない。決め手になったのは実際ミニピンを連れてきた春秋なんだし」


 これは慰められているのか? と俺は母を手伝う為に台所に向かった。


「でもかわいいミニピンだよね?」


 カナはさっきからミデンを抱き締めてずっと頬ずりしている。


「ああ。良いミニピンだ。小型犬のかわいさの中にも、賢さが窺えるな」


 父もミデンを撫でながら、その利発そうな顔立ちを褒めていた。が気になる事が一つ。


「そのミニピンって、もしかしてそいつの名前? 悪いんだけどそいつにはもう名前が決まっていて……」


 と俺がここまで言ったところで、三人に大笑いされてしまった。


「違うよお兄ちゃん。ミニピンは犬種。ミニチュア・ピンシャーの事だよ」


 ミニチュア・ピンシャー?


「え? ドーベルマンじゃないの?」


「近種だけど違うよ。ドーベルマンはドーベルマン・ピンシャー。こっちはミニチュア・ピンシャー。レー・ピンシャーとも言うけど。明らかにドーベルマンよりも小さいじゃない」


「犬種としてはドーベルマンよりもミニピンの方が古いんだぞ」


 へえ、そうなのか。ドーベルマンじゃなかったのか。と言うか、そもそも、そのミニピンでもドーベルマンでもなく、ミデンは魔犬だけどな。


「それで?」


 とカナが何かを催促するような顔をする。見れば父と母もしていた。


「それで、って?」


「名前、決まってるんでしょ?」


 ああ、そうだった。名前をまだ言っていなかった。


「ミデンだ」


「ミデン?」


 三人ともに首を傾げられてしまった。ピンとこないのだろう。それはそうだろう。異世界の言葉なのだから。


「何語? どう言う意味なの?」


 異世界語だよ。意味なんて知らない。


「ちょっと待って」


 と俺はスマホを取り出して調べるフリをする。どうせ載ってないだろうから、前の飼い主が適当に付けたんだろう。とでも説明すれば良いだろう。


「え? あった!」


「え? 何なに? どう言う意味なの?」


「ギリシア語でゼロだって」


 まさかあるとは思わなかった。調べてみれば他の言葉も出てくるのかな? 意味は違うだろうけど。


「へえ。中々洒落た名前付けられていたのね。ねえ、ミーちゃん」


 とまたミデンに頬ずりカナ。もういきなり崩してるじゃないかよ。


「本当に、良い名前ねえ、ミーちゃん」


 そこに母がやって来てカナからミデンを取り上げて頬ずりをする。カナも父も文句を言いたそうだが、母に夕飯の支度を押し付けていたので、文句も言えずにいた。


「明日私、仕事休みだから、ミーちゃん連れて、動物病院と役所に行ってくるわね」


「どう言う事?」


 いきなりの母の話に、俺は首を傾げた。動物病院は分からんではないが、役所?


「犬を飼うには役所に届け出が必要なのよ。それと年一回の狂犬病の予防注射も」


 へえ、そうなんだ。犬飼おうなんて思った事なかったから、知らなかったな。


「だから先に動物病院で狂犬病の予防注射受けてから、役所で手続きしてくるわね」


 なんかお手数お掛けします。俺や父、カナは母にお礼を言って頭を下げ、その後四人と一匹で夕飯を食べたのだった。

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