02.悪夢から目が醒めて

 お見舞いを終えた金山田克妃は病院から立ち去り、霧山美里も自分の病室へと戻った。栄花リオンだけは、忘れ物をしたと言って、鬼ヶ島刹華の病室へと付き添っていた。

「美里は……きっと、納得してませんわね」

「……だろうな」

 廊下を歩きながら、刹華は美里の不満そうな顔を思い出す。きっと、自分も似たような顔をしているのだろうと思いながら。

「貴方は、どうしてあんなに金山田先輩を庇いましたの? わたくしは信じられなかったからですが、貴方は実際に罵られて襲われたのでしょう?」

 別に馬鹿にしている訳ではないように見えるリオンに、刹華は面倒臭そうに口を開いた。

「……なんか、あの時と違ったんだよ。危害を加えてくる感じに見えなかった」

「それだけ、ですか?」

 シンプルな答えは、更にリオンを不思議がらせる。

「そう思ったのが一昨日。昨日はもっとそう感じて、それがどういうことなのか、ずっと考えた。それを今日喋った。そうしとけば、それを足掛かりにして、聞いてた誰かが本当の正解に辿り着けるかもしれないだろ」

 ポケットの中のメモをリオンに渡すと、彼女はそれを精査するように眺めていた。

「へえ……まあ、貴方にしては上出来ではなくて? 以前は貴方のことを落ちこぼれの不良だと思っていましたが、その印象もここ最近でかなり変わってしまいましたわ。決闘のおかげでしょうか」

「は? なんで決闘で変わるんだよ」

「正面から拳で語り合えば、どんな人とでもある程度分かり合えるようになるものですのよ。貴方が意外なほど正直者と知ったのは、ごく最近ですけれど」

「……お前は蛮族か」

 刹華は、リオンのスタンスに呆れてしまった。

 しかし、会話はそこで終わらない。

「当然、貴方が別のことを一生懸命考えていることだって、分かっているつもりですわ」

 リオンの言葉に、刹華の肩が歩く動作とは別に小さく動いた。

「良い落とし所を探しているのかもしれませんが……あのグズを早々に警察に引き渡してしまうことを、わたくしはお勧めしますわ。最愛の敵」

「出来る訳ないだろ」

「それこそ何故? あれはわたくし達を騙し続け、その上貴方を殺そうとしたのに。法に裁かれて然るべきですわ」

 リオンが間違っているとは思えなかった。むしろ、間違っているのは自分自身だと、刹華も感じていた。

 しばらく黙っていた刹華に、リオンが返した表情は、まるで『馬鹿につける薬はない』とでも言いたげだった。

「……言っても聞かないのでしょうが、大火傷せぬようお気をつけなさい。手合が手合ですから」

「大丈夫だ。あたしは……あいつを信じてる」

「信じる、ですか。大変聞こえの良い言葉ですが、それは所詮『疑うことの放棄』でしかありませんのよ」

 刹華の病室の前に辿り着いたリオンは、病室の引き戸を静かに開ける。刹華は何も言い返すことなく、軽く会釈だけして病室へと入っていく。

 刹華がベッドの前辺りに辿り着いた頃、彼女はリオンが入り口付近で立ち止まっていることに気がついた。

「どうした?」

「……気がついてしまいましたの。ほんの少し、彼女を信用出来るようになるかもしれない方法を。わたくしは、なんでこういうことに限って閃いてしまうのでしょうか……」

 己を嫌悪する様子で、深い溜息を吐き出すリオン。

「……なんで嫌そうなんだよ」

「だって、貴方の都合の良い方向に動く方が、わたくしにとっても都合が良さそうだと思ってしまったんですもの。勿論、あのグズにとっても……不本意ですわ」

 額を押さえながら、リオンはツカツカと刹華のベッドの近くに辿り着く。正確には、床頭台の前。その上に一つ置かれていた個包装の飴玉を、隣の老人に一礼しながら拾い上げた。

「では、わたくしはこれで。わたくしに早く借りを返せるよう、さっさと退院なさってくださいな」

 リオンが扉に手をかけるまで、刹華はリオンが何の話をしているのか分からなかった。

「……おい、結局金は借りてねえだろ」

 荒っぽい制止の声を気にすることもなく、リオンは病室の外へと消えてしまった。

「……ったく。なんなんだよ」

 刹華はアクの強い友人に対して悪態をくが、その姿を見ている二人の存在に程なく気がつく。向かいのベッドの上にいる二人が、刹華の方へと視線を向けている。一人は気味悪そうにちらちらと、一人は興味津々に。

「あの、鬼ヶ島さんって、レッダーなんですか?」

 興味津々の少女は、恐る恐る尋ねる。自分の事については、もう誰が知っていても不思議ではない段階になってしまったのかもしれないと、刹華は諦めの気持ちになってしまった。

「まあ、そうだけど」

「この前の薄明学園のアレですよね。えっと、犯罪者集団に襲われたとか……」

「ちょっと、迷惑だからやめなって」

 根掘り葉掘り聞こうとする少女に、隣の少女が止めに入る。気を遣われた刹華としては、なんとも言えない気分だった。

「……人の目を気にするような奴らだ。ここにいる間は、多分何も起きねえよ」

 警察の受け売りを半信半疑のまま伝えると、刹華はベッドの上に横になった。外で滲ませた汗はじわじわと気化し、空調と相まって涼をもたらしている。肌のベタつきを感じながらも、刹華は悪くないと思っていた。

 相変わらず、考えることが纏まりはしないのだが。

「……ゆうり」

 誰にも聞こえないように呟いた名前は、意外にも言い慣れない響きだった。

 あいつは、あんなに傍にいてくれたのに。あたしは、名前すら殆ど呼んだことがなかった訳だ。あいつの抱えていたものに、抱えていたことにすら、気が付きもしなかったんだ。裏切られたなんて、あたしは思っていない。そういうのは、もっと……

 もっと、どうすれば良かったのか。どう出来たのか。こんなことになる前に、あたしは……




 突然首筋に冷たいものが触れ、慌てて閉じていた瞼を開いた。刹華が飛び起きると、見慣れた顔の人物がスチール缶のジュースを持って立っていた。驚きが過ぎ、飛び起きた弾みで刹華の腹部には痛みが走り、それは彼女の顔を歪める。

「よう、元気してっか?」

 篝坂安曇。そして、烏丸羽月。師として敬う目上の人物と、同じ部屋に住むクラスメイト。二人でのお見舞いだった。

「ぷっ……刹華、すごい顔してたよ。いつもあんまり感情豊かじゃないから、ちょっと……ふふっ」

 どうやら笑いのツボに入ったらしく、羽月は出来るだけ静かに笑いをこらえようとしている。

「ほら、最近は馬鹿みたいに暑いからな。水分補給は大事だぜ」

「……ありがとう、ございます」

 安曇から缶を受け取り、封を切る。口をつけると、みかんの酸味や甘味が口の中に流れ込んできた。その刺激は、刹華にとって久しぶりのもののように感じられた。

「ったく、ここ数ヶ月で入院二回って、面白過ぎるだろ。ヤンチャか」

「……すいません。いろいろと事情があって」

「羽月ちゃんから少し聞いたよ。ってか、前回の入院費用は羽月ちゃんが払ってたんじゃねえか。必要な分は言えっつったろう、バカタレが」

 手刀を振り下ろす安曇。刹華は額でそれなりの衝撃を受け止めると、もう一度すいませんと謝った。

「……まあいいけどな。それよっか、色々と面白いことになってるみたいだな。サビ助もご機嫌だぜ」

 サビ助。その名前を耳にすることで、刹華は確かめるべきことを思い出した。

「先生、あいつは……ゆうりは、大丈夫でしたか?」

 ひとしきり笑い終えた羽月は、間を埋めるように答える。

「目覚めたよ。錯乱してて誰かと話せる状態じゃないらしいから、まだ会ってないけど」

「一先ずってところか……悪いな、苦労かけて」

 刹華は静かに安堵した。

「それより、あの子どうするの? 私も慌ててパニクってたけど、めちゃくちゃマズいでしょ。警察にはなんて伝えたの?」

 美里とリオンに色々と言われたことの焼き直しになると、刹華は予知する。

「……霧山達と口裏合わせて、相手は二人組だったって伝えた」

「……前に言わなかったかな。刹華、君は嘘をつくのが滅茶苦茶下手なんだよ。それなのに、なんで嘘つこうとするかなぁ」

「うっせぇ、これしか無かったんだよ」

「無い訳無いでしょ……安曇さんも、なんとか言ってくださいよ」

 お灸でも据えてもらおうと羽月が安曇を見ると、意外にも安曇は笑っていた。

「いいんじゃね? 極端な話、あたしはお前らが銀行強盗したって人殺したって、別にいいと思うぜ」

「は? 何言ってるんですか安曇さん……」

「ただ、全部自分の責任だ。事故が起きても、誰に恨まれても、罪を背負っても、全部受け入れる覚悟を持ってやればいい。自分に嘘つくよりよっぽどマシだろ」

 安曇のスタンスに、羽月は絶句する。隣にいた知人が自身の常識から大幅に逸脱していた時、羽月はこんな顔をするのかと刹華は学んだ。

「ま、覚悟くらいはしてるよな。ちゃんとしろよ?」

 安曇は刹華の頭をやや乱暴に触る。刹華は、これが撫でられているのか軽く叩かれているのか分からない。小さい頃から、いつも。

「他人の教育方針には、口出しする気はありませんけれど……それで刹華、君の怪我の方はどうなの?」

 精神衛生を保つ為、羽月は安曇の強烈な思想から目を逸らすことにした。

「ああ、一ヶ月って言われた。もう傷口塞がってんだけどな」

「狂ってるんじゃないの……前の時はタイミングがタイミングだから言わなかったけど、レッダーだからっておかしいでしょ。銃で撃たれたんでしょ? 流石に早すぎない? ……私も脚の怪我は治ったけど、そこまで深くなかったからだし」

「霧山は明日に退院って言ってたぞ」

「君達、絶対おかしいよ……霧山さんは骨折なんでしょ?」

「あいつは既にピンピンしてるからな」

「君もそう変わらないみたいだけどね……まあいっか。いくつか報告があってね。葛森さんのことなんだけど」

 羽月はポケットからピルケースを取り出す。

「それは、ゆうりの……」

「そ。錆島さんに何の薬なのか聞いてきたんだよ。あの人、錠剤の形とか感触とか欠片の味で判別してたんだけど、大丈夫なの?」

「……サビさんは頭大丈夫じゃねぇけど、害も無ければ腕も確かだよ」

 羽月は納得してない様子だったが、それ以上は言わなかった。そして、他の薬よりも明らかに数の多い、白い錠剤を指差しながら、嫌そうに顔をしかめた。

「これ、心を落ち着かせる薬らしいよ。しかも、かなり強いやつみたい。クセになるし、反動もきついんだって」

「なんで、そんなもの……」

「精神的にきつかったんだろうね。あと、こっちの赤いのが鎮痛剤。こっちのは日本では認められていない強い薬らしくて……錆島さんは『処方箋を出したヤブ医者を連れてきて欲しい』って言ってたよ。『こんなの、おかしくなってもしょうがない』とも言ってた」

「……そうか」

 その言葉を発した時の錆島女医の表情が、刹華には容易く想像出来た。

 最初は、笑いながら。その次は、諦めたような、哀れむ表情。

「刹華。君が庇おうとしている相手は、こんな相手なんだよ。何をしでかすか分からないし、いつ君の善意が踏みにじられたって全く不思議ではないよ」

「……そうだな」

 羽月の主張も気持ちも、刹華は理解しているつもりであった。

「……どうしてそんな顔するかなぁ。私は、君に『危険だから手を引け』って言ってるのに」

「……悪い」

 そして、刹華は自分の気持ちに納得して貰うつもりはなかった。それでも、意思表示はすべきだと思っていた。

「多分、あいつは今……一人なんだよ。手を伸ばせる奴なんて、あたしくらいしか残ってねえんだ」

「理屈になってないよ。私は、君にわざわざ危険な目に……」

 少しだけ、羽月は話を止める。そして、刹華の瞳を見つめ、溜息をついた。

「もう少しだけ様子を見る。それでいい?」

「……ありがとう」

「お礼言うなら、さっさと良くなって退院してよ。私も、限界って思ったら勝手にするからね」

「ああ……いつも迷惑かけて、悪いな」

「本当だよ。全く……」

 諦観、感謝、許容、罪悪感、嘆願……二人の中の感情はそれぞれ様々なものだったが、双方、話をする前より少しだけ穏やかな気持ちになっていた。

 ふと、二人は同じことに意識を向ける。篝坂安曇が、さっき立っていた位置から消滅していたのだ。二人は確認するように周囲を見回すと、安曇は、向かいの少女達と楽しそうに話していた。

「んでさ、刹華がその日の夜にめっちゃ怖がるわけよ。強がって『便所についてきて欲しい』って言えねえもんだからさあ、寝てるあたしの腕を無言で引っ張るのよ。それが可愛くって可愛くって……」

「先生ストップ! その話は他所でしないで欲しいです!」

 刹華にとって、かなりフェイタルな話題になっていた。主に、尊厳の面で。

「なんだよー。そっちが二人で盛り上がってるから邪魔しないようにしてたのに……我儘な教え子だぜ」

「幼少の恥ずかしいエピソードを軽々しくバラさないでください。一応、あたしも女の子ですよ」

「一応とか言うなよ。ま、そっちの話が終わるのを待ってたんだよ」

 安曇は話していた二人に軽く手を振りながら、元の位置へと戻ってくる。

「聞いたぜ? 羽月ちゃんからプリペイドの電話を買って貰ってたんだってな。要るならあたしにちゃんと言えっての」

「それは……電話なんて普通使いませんし。あっ、悪い羽月。あの時、電話壊されちまった」

「分かってるよ。だから安曇さんと選んできたんだよ」

 持っていた紙袋を、羽月は刹華の膝の上に置いた。紙袋には有名な通信会社のロゴが描かれている。

「おニューのスマホだ。どうせ乱暴に扱うだろうから、保護フィルムとケースもつけといたぞ」

 安曇の言葉に促されるように、羽月は袋から箱を拾い上げ、その中から真新しいスマートフォンを取り出して、刹華に差し出した。

「今度から何か要る時は、ちゃんと安曇さんに相談しようね」

「あ、ありがとう、ございます。でも先生、あたしは全然こういうの分かんないですし……」

「バカタレ。こんなもん、最初は誰も分かんねえっての。分かんなきゃ調べたり聞いたりしろ。みんなそうやって進歩すんだよ」

 軽く叱られながら、刹華は端末を羽月から受け取った。改めて、安曇に礼を言いながら。

「それで、こっちが着替え。ここに置いとくからね」

 羽月は、もう一つの紙袋を丸椅子の上に置いた。そちらは、特に飾り気のないものだった。

「ありがとう、羽月。それと、時間がある時でいいから、ゆうりの着替えも頼めないか?」

「やるつもりだよ。心の底から不本意だけどね」

「……ありがとう」

 胸が、締め付けられるような気がしていた。




 錆島小児科の裏手の路地で、葛森ゆうりだった、ゼロファイブだった、名前のない女は黄昏れていた。無地のTシャツにジャージに病院から借りたサンダルと、相当ラフな格好。胸のむかつき、吐気、手の震え、胃痛、落ち着かない心。直接的な身体の不調というより、心的不具合が身体に影響を及ぼしているような状況。

 そして、精神安定剤がない。

『……さあ? 私は薬のことなど全く聞いてはいないよ。お薬手帳を持っているか、又は薬の名前が分かれば都合できなくもないかもしれないが……とりあえず胃薬でも呑んで、空でも眺めながら散歩でもしてきたらどうかな? 今日は空が青いから、少しは気持ちが晴れるかもしれないよ』

 錆島山茶花に渡された胃薬の瓶から、彼女は適当な数の錠剤を口に流し込んだ。すっとぼけた山茶花はその姿を笑いながらも、ウォーターサーバーから一杯の水を寄越した。それを一気に飲み干して、裏口から外に出て、今の彼女がそこにいる。

「……空」

 彼女は倒れ込むように壁に凭れ掛かり、路地の隙間から覗く青空を眺める。当然、見たことない訳ではないのだが、こんなに美しいものだっただろうかと、不思議な気持ちになっていた。

 初めて見た訳ではないけれど、きちんと見ているのは、本当に久しぶりな気がする。こんなに、何も考えずにいられる時間は、それこそ……

 不意に触れた記憶は、心を抉る。失ってしまった、失いたくなかったものの記憶。呼吸が乱れ、何かが発露しそうになる。殆ど空の胃が逆流しかけるが、なんとか苦味を感じるまでに留めた。肩で息をしながら、また空を眺める。

 ――こんなに無様に、全てを失って、届きもしない青を見上げて、ただの一つも希望がないのに、どうして、私は……

「貴方、こんな病院にかかっていたんですの?」

 不意に聞こえた声に、彼女は反応する気も起こさない。

「……錆島小児科。まあ、子供っぽい貴方にはお似合いかもしれませんが。それで、お身体の調子はいかがですか?」

 声の主が隣まで歩いてきて、そこでようやく栄花リオンだと認識できた。トレーニングウェアのリオンの問いかけに、名も無き彼女は応えない。

「……青空というものは、本当に良い物ですわ。青というのが本当に良い。どんなに辛いことがあっても、どんなに投げ出したくなっても、まだ進めると激励してくれる……そんな気がしませんか?」

 二人がクラスメイトだった頃、リオンが彼女にここまで穏やかに話しかけたことはなかっただろう。

「……何をしに来たんですか」

 半分困惑、半分敵意。そんな気持ちを込めて、彼女はリオンに向けて言い放つ。

「貴方の様子を見に、といった感じですわね。思ったよりも元気そうで安心しましたわ。メンタルの方は、私には分かりませんが」

「分からないなら、今すぐ私の前から消えてくれませんか。私は今……貴方を壊したくて仕方ない」

 敵意を隠さない彼女に対し、リオンはどこか嬉しそうだった。

「好都合。わたくしは寛大ですの。貴方の敵意を好意的に受け止めてさし上げましょう」

 リオンは手に持っていた紙袋を、名も無き彼女の前に置いた。中からは、赤いグローブが覗いている。

「最低限のマナーとして、サポーターくらいはつけてください。それと、獣化は禁止。わたくしは貴方を攻撃する意思はありませんから、何もつけませんが」

「貴方、一体何を……」

 彼女は、リオンの意図が掴めない。

「殴られ屋、というものをご存知ですか? わたくしは聞いたことがあるだけですが、そのような商売があるそうです。顧客が繰り出す暴力をひたすら受け続け、ストレスを解消させることで時間単位の報酬を貰うというお仕事。かなりリスキーな商売だと、わたくしは思いますが……」

 リオンは気合を入れるように、長い髪をかき上げる。

「無償で、殴られ屋をしましょう。貴方の攻撃など、まともに入る気はしませんが」

  突然の提案に、名も無き彼女は困惑する。困惑しながらも、震える手に力が入る。

「挑発のつもりですか」

「とんでもない。貴方と戦うことで、わたくしは貴方を理解しようとしていますの。先日は一方的に攻めてしまったので、今回はきちんと受け止めてみようかと……そういった意図の元での提案ですわ」

「……貴方、おかしいです」

「それはお互い様でしょう。わたくしは、貴方のステージに合わせているつもりですが。それとも、刃物や銃火器がなければ物足りないと?」

 彼女は震える手で紙袋から赤いグローブを取り出し、その中にゆっくりと自分の手を収める。

「準備が出来たら、始めてくださいな」

 リオンが距離を取り、ゆっくり構えてから数秒後、名も無き彼女は誰にも見せたことがない形相で、リオンめがけて踏み込んだ。

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