第10話 ドラゴン、ドラゴンチェイスする
例の村の出来事からしばらくして。ドラゴンと竹子はまたも配達に赴いていた。
交易と村と村を繋ぐ荷物の伝送便…シュゴドラ村からの荷物を持ち寄りまた近隣の村へ届け、金品を受け取る。二、三の村でそれを繰り返し今日の仕事が終わったため、ドラゴンと竹子はシュゴドラ村に向かって飛び立った。
相変わらずどこの村でも話題は王立軍のことばかりだ。近隣の村々の情報を突き合わせてみたところ、どうも彼らはこちらの村群へと近づいているらしい。
「山向こうの村に移住した息子から連絡があったとかで。やつら異常なぐらいの重武装で何かを探している様子だとか。面倒ごとが送らなければいいんですが…」
荷物の受け渡しを終えた村長は物憂げにため息をついていた。
彼らに礼を言って竹子とドラゴンは飛び去り、一路シュゴドラ村へと帰っていった。
「王立軍、こっちに近づいてきてるみたいですね…なんだか妙な雰囲気です」
「そーだなー」
「ドラゴンさん最近上の空すぎますよね。前なら私の言うことに逐一言い返してたのにそれもないですしー」
「そーだなー」
「んもー!なんなんですかドラゴンさん!私との漫才は遊びだったんですかー!」
「お前に漫才の自覚があったことが驚きなんだが?」
ごうごうと風を切る音を耳で感じながら、竹子は腕を組んで未だ何やら文句を言っている。
ドラゴンは竹子の言う通りかなりおざなりな返事をしていたものの、その間にも翼は止まらず、順調に飛行を続けている。
シュゴドラ村まではあと空の旅で十分もかからないというところだった。が。
「ん?なんだあれ」
ドラゴンはその場で静止した。ドラゴンの声にひかれて竹子もひょっこりと首を伸ばして眼下を見た。
ドラゴンたちが静止しているのはちょうどシュゴドラ村や近隣の村々を取り囲む森林の上空。
いつも通りの何の変哲もない風景だが…今日はそこに差し掛かる人間の一団があった。
「軍隊…ですかね?鎧着てますね」
随分と物々しい装備の一団だった。ほぼ全員が分厚い鋼鉄の鎧を身に着け剣を持ち、がしゃがしゃと音を立てながら行進している。
鎧を着ていない人物もいるようだが、物騒な見た目の大きな杖を装備しているから、威圧感はそう大差なかった。
列の先頭には馬に騎乗した一層いかめしい鎧を装着した人間が一人。見た目からしてこの集団を率いる首領なのだろう。
列の先頭とは言ったが、その人物は真に列の先頭にいるわけではなかった。その人物の前で歩く者がもう一人いる。
身なり自体は首領の背後に続く人たちと同じくただの鎧姿だが…その手には剣ではなく巨大な旗印が握られていた。
風を受け、旗が大きく翻る。
赤と青のツートンカラーに色分けされた布の中央に何かが浮いている。
複雑な意匠を金糸で刺繍しているらしいそれは、一目見てその旗を作ったものの権力と富を知らしめた。
「なんかすごい豪華な集団ですねぇ。人数もシュゴドラ村の皆さんを合わせたよりずっと多い!」
「あの旗…」
「ん?ドラゴンさん何かご存じですか?」
「見覚えがあるような…」
ドラゴンがそう呟いた直後だった。
眼下を行進していたその集団は俄かにざわつき始めた。
先頭のひときわ目立つ男が何かを見ている。
何かをと言うよりも…顔が明らかにこちらを向いていた。
そう。ドラゴンたちの浮かぶ上空を。
「へ?」
「ッ!」
竹子の間の抜けた声と、ドラゴンの緊張で息を飲む音。
それとほぼ同時と言っていいほどにそれが起こった。
集団の一部…彼らの構えた物々しい形状の杖から、火球が飛び出しまっすぐにこちらに突っ込んできた。
「おわー!?」
竹子の悲鳴が上空に尾を引いて消えていく。
ドラゴンは素早く身を翻して火球を避けた。
火球はドラゴンの体の脇を通り抜け進行方向にまっすぐ進んだ…かに思えたが、ものすごい角度をつけて急旋回し、再びドラゴンの体に迫った。
「追尾弾!?くそっ!」
ドラゴンの体が燐光を放ち、瞬間、その場で爆発的な暴風が吹き荒れた。ドラゴンの魔法だ。
風の流れに従って、ドラゴンは進行方向とは逆方向に吹き飛んだ。
そのまま体制を整えると、一度深く沈み…弾みをつけて急加速する。
「しっかり捕まってろ!」
ドラゴンの怒号が空中に響くが、竹子は返事ができなかった。どころか口を開くことすら難しかった。
何せドラゴンのスピードはいつもとは比べ物にならないほどで、いくら固定のベルトがあるとはいえ振り落とされそうだったからだ。
不用意に口を開けば舌を噛む。こんな状況に陥ったことなんか一度もないのに、どうしてかその予感は正しいと確信できた。
ドラゴンの体が弾丸のように空を駆けていく。
ごうごうと風の切る音、体に当たる空気が最早痛い。
ぎゅっと目をつむって竹子はドラゴンの背中にしがみつく。
「くそ、まだ追ってくるのかよ…!こんなに離れたのに!標識もつけてないのに何で…!」
悔し気なドラゴンの声。追尾弾は未だ背後に迫っているらしい。
竹子は閉じた目を必死でこじ開けた。
伏せた体制から目いっぱい首だけ動かして辺りを確認する。
びしびしと風が打ち付ける速さの中で、しかし竹子の目が何とかそれを捕らえた。
短く、的確に。とてもじゃないけど多くはしゃべっていられない。
「ドラゴンさん!前!浮いてます!」
「は?前って…あ」
ドラゴンは即座に魔力を練り上げた。
見慣れた緑の燐光が淡く体を包み込み、魔素がドラゴンの口元に集って炎へと変換されていく。
吐き出された火球は随分と小さく威力もお粗末。だが、標的を打ち滅ぼすには十分だったようだ。
ドラゴンの前方、ふわふわと浮かぶ小さな球体…ぎょろぎょろとうごめく虹彩と瞳孔を備えた目玉。
後方に着いた羽を虫のように高速で動かし、飛行している。
それが爆ぜた。
黒炎に巻かれ一瞬にして溶け落ちたその目玉は、水気が急速に失われるような音を発しながら落下していった。
途端、ドラゴンの背後から迫っていた火球が勢いを失した。
最後の最後、やけっぱちのように急加速をつけて一直線に飛び込んできたが、ドラゴンが直上に上昇したことであっさりと避けられてしまった。
火球はそのまま真っすぐに地面へと落ちた。一度強く輝いた後、爆ぜ、消える。残りの火球も全く同じ末路をたどってすぐに燃え尽きた。
突然火球が飛び込んできた箇所の周囲から、驚いて動物たちが逃げ惑う。
何匹かの魔物も興奮した様子で走り去り、それが過ぎ去ってようやく、辺りには静寂が訪れた。
「標識を付ける時間なんかなかったくせに何で追尾できるのかと思ったら…あの目玉で手動操作してたのか。まさか人間にそこまでの精度で魔法が扱えるやつがいるとはな…」
ドラゴンはぶつぶつ何やら呟いている。
風魔法で静止しながら、ちらりと背後を振り返った。
今逃げ出してきたところ…最初に例の集団と遭遇した場所。
今はもうその姿を確認もできないが、それでもドラゴンはそこを見ていた。
「あの旗の模様、確かにどこかで…でもどこだ…?僕はどこであれを…」
ぐっとドラゴンが目頭の方に皺を寄せる。遠い何かを見ようとするように、というよりも自分の記憶の底をさらうように。
風の音とともにざわめく木々、光をすかす木立。
そうだ。この村の近くの光景を見ていた。あの旗の模様も同じような景色の中で…。
「うぷ…」
「…」
ドラゴンはそっと背後を振り向いた。首の長いドラゴンは悠々と楽々に自分の背中を伺える。
いつも通りの自分の背中。日の光を受けてきらめく鱗、そこから生えている立派な皮膜付きの翼、自然と垂らされた両手足、足の間から伸びる尻尾。そして。
その中央で口元を抑えているなんか人間。
竹子である。
いつもこちらが何も言わなくても勝手にやかましく回るその口は、今や手のひらの向こうに隠されて何も見えなくなっていた。
顔の下半分が覆い隠されて表情が良くうかがえない…だがそれだけで十分だ。
顔の下半分が見えなかったところで、今竹子が何を考えているのかはすぐに分かった。
「きぼちわるい…」
そう。突然のワイルドスピードと火球とのドラゴンチェイスにより、竹子の三半規管は限界を迎えていた。
ちょうど以前、ドラゴンの背中から落ちて風の腕の中で洗濯物になった時と同じように。
「あー待て待て待て待てごめんって僕が悪かった!すぐにシュゴドラ村に戻ってやる!だから吐くな!もうちょっとだけ我慢してぇー!!!」
今回は間に合わなかった。
〇
「なんだって?赤と青のツートンの旗、って言ったのか?」
ごしごしとドラゴンの背中を濡らした布で拭きながら、アレクが竹子に問いかけた。
近くの木の根元に腰掛けていた竹子はアレクの問いにこっくり頷く。
アレクの顔が険しく歪んだ。
「あの人たちってもしかして…」
「…王立軍だ。本当にこんな辺境まで来たってのか?」
ドラゴンは片目を大きく開いた。
竹子は少しだけ驚いた様子で声を上げ、そしてアレクは険しい顔のままだった。
「やっぱりあの人たちが王立軍だったんですね。道理であんなに立派な装備をしてると。でもどうしてその人たちが私たちを襲ってきたんですか?」
「…嬢ちゃん。ドラ坊。しばらく定期便は中止だ」
「はあ、定期便は中止…へ?えっ!?」
竹子が木陰から立ち上がる。しかし勢いよく立ち上がったせいかくらりと傾いた。
そもそも上空で酔いに酔って休んでいたのだから当たり前である。
アレクが駆け寄ってその体を支え、もう一度木陰に座らせる。
竹子はしかし顔をあげた。
「定期便中止!?どうしてですか、明日も明後日も配送の予約が」
「俺が依頼主にも受取人にも詫びを入れとくよ。とにかく定期便は中止だ。新規受付も停止。しばらくドラぼ…いや。お前さんらは洞窟にいてくれ」
「そんな。なんで…」
「…嫌な予感がするんだ。王立軍の奴ら、何かろくでもないことをしでかす気がする」
アレクの顔はいつになく険しく、そして何より真剣だった。
ドラゴンにもう一度近寄ると、何事か呟く。
竹子には最初のつぶやきは聞き取れなかったが、続く言葉は聞こえてきた。
アレクが悔し気に歯噛みする音も。
「すまねぇな。窮屈な思いをさせちまって」
「別に。数百年引きこもってたんだ。今更どうってことないさ」
ドラゴンはふんと鼻を鳴らした。あくまで元気そうなその様子を見て、アレクはにかりと笑った。
「流石プロの引きこもりは言うことが違うねえ!」
「だーれがプロの引きこもりだ!って痛い痛い!もっと優しく!鱗は繊細なんだぞ!」
嬉しそうにドラゴンと話すアレク、嫌がりつつも明るい様子のドラゴン。
竹子としても二人はそんな様子なのであれば文句はない、ないの、だが。
なんだろう。アレクの言う通り、嫌な予感がする。
ざわつく胸の内を抱えて、竹子はどうしてか胸の内の不安を抑えることができなかった。
〇
背中を吹き終わったドラゴンと竹子はすぐに村を出発した。
竹子の分の水や食料は適時村人が洞窟まで運んでくれると言う。
とりあえず今持てる分の保存のきく食料と水だけは備えて、竹子とドラゴンは村を出た。
いつも通い慣れた村からの帰り路をたどりながら竹子はドラゴンの背中に乗っていた。
「なんだよオマエ。いつもこっちが何も言わなくてもぎゃーぎゃーうるさいくせに、今日は随分と静かなんだな」
「私だって物思いに沈む時ぐらいありますぅー。悩み多き麗しの美少女なんですー」
「悩み多き…麗しの…?」
「この世の終わりのような顔をされると流石に傷つくんですが!?」
ドラゴンの言葉についいつもの通り返してしまい、竹子ははっとした。
ドラゴンの様子は変わらない。
いや、いつも竹子が振り回しがちなことを考えればむしろいつもより落ち着いていたかもしれない。
それぐらい普通に上機嫌なドラゴンに、竹子はぎゅっと眉をしかめる。
ドラゴンは一度ちらりと首を巡らせて竹子のことを伺った。
「ほんとにお前どうしたよ。さっきからずっともの言いたげじゃないか」
「いや、なんか…納得いかないというか、もやもやすると言うか…」
「何がぁ?最近不穏だから大人しくしてろって、それだけの話だろ」
「だって何も悪いことしてないのに。なのにドラゴンさんが隠れてなきゃいけないって、おかしくないですか?」
ドラゴンは無言だった。前を向いているから表情は見えない。
竹子はそれに気づかず、腕を組んで不満そうに鼻を鳴らした。
「そもそもあの王立軍とやらなんで突然攻撃してきたんです?私たち何もしてなかったじゃないですかー!ただドラゴンさんと一緒に飛んでただけで、話しかけてすらいなかった!だっていうのに問答無用で火の玉って!熱烈な歓迎にしても字面通りすぎ…」
竹子がそうやって朗々と話をしていた時だった。
ドラゴンの体に俄かに緊張が走った。
「掴まれ!」
え、と竹子の口は半開きで止まった。
確認をする前に竹子の体は思いっきり前に向かって倒れた。
ドラゴンが翼を大きくはためかせ、背中側に向けて大きく後退したのだ。
「うぐえ!」
竹子の体は二つ折りの財布のように折りたたまれて、口からがつぶれたカエルのような汚い悲鳴が漏れた。
目の前で何かが爆ぜた。
広がる熱気と爆風、ドラゴンの体に突っ伏したままの竹子の首元が焼ける。
ドラゴンの体は止まらない。そのままひときわ大きく上昇すると、一度滞空し…そして矢のように飛び出した。
「うわうわうわうわ!?なに!?なにー!」
「しゃべるなっての!舌噛むぞ!」
突っ伏した体勢からでもわかる。背後で何度も小刻みに爆発音がする。ドラゴンを追って何度も攻撃が放たれているのだ。
ここまで来たらいくら竹子でも何が起こっているのかを理解した。攻撃されている。昼間の時と同じ…魔法による火球が自分たちを襲っている。
「クソ!」
ドラゴンの悪態。竹子はひたすら体にしがみついているしかできない。
あの時みたいに何か助言を、と思ったが、顔をあげても何も見つけられなかった。
前回のような目玉はどこにも見当たらない。ただただ襲い来る無数の火球の存在だけが…。
ちらりと下に視線を移した竹子はぎょっとした。思わず驚きが口をつく。
「王立軍…!?」
ドラゴンの視線が竹子と同じように眼下に向けられた。
そこにいたのは森の中に潜むあまたの兵士たち。
例のひときわ目立つ鎧の将軍らしき人物を筆頭に、そこかしこに兵士たちが陣取っている。
そして彼らが護衛しているのは例の杖を持つ一団だった。
杖を構えたその集団は代わる代わる呪文を唱えてはこちらに火球を放り、ひたすらドラゴンと竹子を狙い撃っている。
「こんな早く…!しつこいなあ、もう!」
ドラゴンが苛立たし気に身を震わせた。
かと思えば体がうすぼんやりと光り輝き、燐光を発し始めた。
ドラゴンが魔法を使う前に観られるあの光景。
魔素が凝集し口元に集まったかと思えば、ドラゴンの口元からはお馴染みの黒炎が現れていた。
「ハァっ!」
ドラゴンが真下に向けて黒炎を放った。
人間たちが黒炎に焼かれてその場は阿鼻叫喚の地獄になる…ことはなく、透明な障壁のようなものが一瞬で展開され、ドラゴンの黒炎を弾いた。
またもあの術士たちの作り出した防壁らしい。
ドラゴンの黒炎は防壁に弾かれて少しも王立軍に届くことはなく、瞬く間に霧散した。
そして、ドラゴンはその隙に逃げ出していた。
まるで防壁の存在を最初から分かっていたかのようだった。自分が放った黒炎がどういう結果を迎えるかを確認もせず、猛スピードで突き進んでいく。
だが。
「ぐあっ!」
「ドラゴンさん!」
竹子は思わず顔をあげた…あげようとしたが、叶わなかった。
背後で鳴り響く爆発音、轟音、訪れる衝撃、揺れる視界、しっちゃかめっちゃかにかき回される感覚…。
これはあの時の。ドラゴンの背中から振り落とされた時と同じ感覚。だが違う。今度はドラゴンごと落ちている!
すさまじい破砕音が辺りに鳴り響いた。
地面が割れる音、なぎ倒される木々の悲鳴、巨体が地を擦り滑り落ちていくさま。
魔術部隊の追撃を受け平衡感覚を失ったドラゴンは、そのまま重力魔法に引き寄せられて撃墜した。
あの洞窟まではあとほんの少しもかからなかったはずなのに、たどり着けなかった。
王立軍たちが木陰から続々と姿を現した。
巨体が倒れた際の衝撃を障壁魔法で弾き、危険域にいた兵士を転送魔法で移しかえ…次々と繰り出される高等魔法の数々はさしものドラゴンでさえも対応できないものであったらしい。
ドラゴンはただ地に付したまま動かない。
倒れ伏す巨体を前に、兵士たちは号令と共にその体を包囲していった。
ドラゴンの体の傍ら。王立軍の兵士の一人が何かを発見した。
見ればそこにいるのは一人の人間…先ほど、ドラゴンの背中に騎乗していたと思しき人物である。
墜落の衝撃を受けてドラゴンの背中から振り落とされたらしい。
その人間の体は傷だらけだった。体中のあちこちに擦過傷が目立ち、ところどころ切り傷から血が噴き出していた。
一番大きな傷が肩にぱっくりと開いており、どくどくと真っ赤な血が流れ落ちては地面に染みを作っていた。
脅威ではない。王立軍はそう判断した。
倒れ伏した貧弱な小娘一人、おまけに気を失っている様子。
そもそもこの娘自身からは微塵の魔力も感じない…王立軍はその人間を無視してドラゴンの包囲を再開した。
しようとした。
辺りは一瞬で火の海に包まれた。
術士の魔法防御が間に合わず、何人かが炎に巻かれて絶叫をあげた。
その程度でも恐慌のあまり逃げ惑うものがいない部隊の練度は流石王立軍と言ったところだったが…確かに進軍の足が怯んだ。
そして、その間に彼らは脅威を見た。
〇
「う…」
頭がくらくらする。
竹子は頭を抑えながら顔をあげた。
焦点の定まらないぼんやりした視界。そこに景色が飛び込んでくる。
草と、土と、人の足。
どうも自分は倒れているようだ、ということに今更ながら気づいた。
なんだか体の各所がズキズキと痛い。ゆっくりと、呻きながら竹子は顔をあげた。
「…え?」
燃えていた。地面を舐めるように黒炎が辺り一帯を縦横無尽に走っている。
どうして気づかなかったのだろう。
熱い。赤い。明るい。
光を飲み込むような漆黒なのに、炎らしく周囲を照らす黒炎…それが辺り一帯を燃やしていた。
「起きたか」
頭上から降り注いだ声に竹子は過剰に反応してしまった。
ここ最近ずっと聞きなれていたはずの、最早すっかり慣れ親しんだ声。
この世界に来てから恐らく一番多く耳に馴染んだだろう声。
なのにどうしてこんなに胸がざわつくのか。
竹子は視線だけ上に向けた。体が上手く持ち上がらない。
竜がいた。
鎌首をもたげ、大きく天を突くように、巌のようにそこに存在している。
夕暮れの薄闇の中、一目でそれと判別できる巨影。
かつてこの世界の人々が恐れ敬い崇めた伝説の魔物。
「ドラゴンさん…?」
間違えようはずもなかった。あれは確かにドラゴンだ。
出っ張った額の角も、伸びた首も、光に照らされて照り映える鱗も、金色に輝く瞳も、何もかもが記憶の中のドラゴンと一致する。
だけど竹子の記憶の中のドラゴンはこんな風じゃなかった。もっと軽快で、親しみやすく、少し抜けたところが可愛くて…。
今のドラゴンは違う。ただただ大きい。体もそうだがそれ以上に存在感が…威圧が、何もかもが。
魔力など感知できない竹子ですらわかるほどの威容。
魔物の王、災禍の化身、大自然が生み出した災厄…その名に恥じぬ脅威がそこにいた。
「ど、らごんさん、これは一体…うっ!」
竹子は地面に手をついて体勢を直そうとしていた。だが、動きが途中で止まってしまった。
肩に走る激痛。いったいこれは何事か―。
竹子はぎょっとして小さく悲鳴を漏らした。
穴が開いている。いや違う。何も貫通なんかしていない。だけどそれぐらい深い傷だった。
生まれて初めて、自分の肉がこれほど深くえぐれている様を見た。
ぱっくりと開いたその傷口から、だくだくと無造作に血液が流れ落ちていく。
「い、痛…なにこれ、痛い…!え、あ、あれ…?」
肩が突如として発光した。
見慣れた緑色の燐光。
それが傷口の周囲を覆い、少しずつ組織を回復させていく。
垂れ流されるがままだった血液もいつの間にか止まっていて、しばらくしないうちにすっかりと元通りになってしまった。
「これ、ドラゴンさんの魔法…?あ、ありがとうございます!やっぱりドラゴンさんは頼りになりますね!」
ドラゴンは竹子を静かに見下ろしていた。何か言いかけて口を開いたが…結局閉じた。
そして瞼をそっと閉じた後、もう一度開いた時には、先ほどと同じ冴え冴えとした冷徹な光を宿していた。
「ドラゴンさんに散々お世話になっておいて、恩知らずな奴らだ。あんなこと許されるわけがない」
「えっ?急にどうしたんですか、ドラゴンさん」
「覚えてるか?お前の台詞。ほら、少し前。随分な歓待を受けた村で、お前そんなことを言っていただろう」
「え、ええ。確かにそんな感じのことを…」
「今でもその気持ちに変わりはないか」
「当り前じゃないですか!あの村での仕打ちを思い出すと今でもはらわたが煮えくり返ります。あの人たち、ドラゴンさんにあんなに助けてもらったのに、どうしてあんなこと…!」
「そうだよな。じゃあさ…僕があいつらの役に立ってなかったとしても、同じこと言えるか?」
「…え?」
竹子は茫然としてドラゴンを見つめた。
ドラゴンは答えなかった。
相変わらず、感情の動きのない冷たい瞳が、竹子のことを見下ろしていた。
薄ぼけた暗闇の中でらんらんと輝くその二つの目は、まるで月が二つ空に浮いているように見えた。
「今のお前も言っただろ。本当に僕は頼りになるって。お前たちにとって有用な能力があるから僕を受け入れてる…そうだよな?」
「ど、ドラゴンさん?なにを言って…」
「役に立つから僕は存在を許されるってか。お前らのお慈悲でこの世界で生きることを許してもらってるって?はは、そうだよな。結局お前らもあいつらと変わりないよな」
ドラゴンの高笑いは止まらない。静かなその場にこだまして…いや、違う、全然静かじゃない。
黒炎のはぜる音、燃え広がった樹木が豪快な音を立てて燃えていく音、辺りに響く金属音…多分鎧兵士たちの軍靴の音。
ざわめき、葉擦れ、逃げ惑う獣たち。
その中でドラゴンの言葉が朗々と響いている。
突然、何の脈絡もなく、わけのわからない言葉ばかりが。
「満足したか?優越感を感じたか?僕に居場所を作ってやったって、自分は善人だって浸ってたのか?馬鹿馬鹿しい…お前もあいつらと同じだ。役に立つから受け入れて、そうじゃなければ怖がって。都合のいいように利用してそれを善行だと思い込む!ああそうだ、思い出した!あの村の奴らも、昔の奴らも!人間はいつまでたっても変わらない!」
ごう、と巻き起こる風。
竹子は思わず顔を手で覆う。
激しい突風にあおられて吹き飛んでしまいそうだ。
やっとやんだ風の中、竹子はすぐに空を見た。
悠然とその場にたたずむドラゴン。
翼を大きくはためかせて、空中に静止している。
ひときわ大きな金属の擦れ合う音が響いた。
気が付けば黒炎は消え失せて、竹子の周囲は王立軍に取り囲まれていた。
皆一様に竹子を見ては困惑した顔をしている。
先ほどドラゴンと一緒に居た人間のはずだが。なぜ、今、ドラゴンから攻撃を受けているのか?
仲間割れか?それとも実は単なる人質だったのか?
兵士たちは困惑の中、それでも臨戦態勢を整えていたが。
「危ない!」
兵士の一人がそう叫んで、竹子を抱えてその場を転がった。
瞬間、その場に降り注ぐ黒炎。
あのままあそこにいたら確実に黒焦げの焼死体になっていた。
竹子はぞっとして上を見上げた。
誰が、なんて聞くまでもない。
そんなことができるのはこの場に一人…いや、ひとりしかいない。
ドラゴンが、先ほど以上に冷淡な目でこちらを見下ろしていた。
竹子の喉から心からの悲鳴が漏れた。
初めてドラゴンを怖いと思った。
ガタガタと歯の根が合わず、全身が震えだす。
竹子を抱えた兵士が不思議そうにつぶやく。やはりドラゴンの仲間じゃないのか?どうして向こうから攻撃が。
兵士の言葉が終わらないうちに、その声は訪れた。
「不快なことを言うな人間。我こそは自然が創造せし破壊の化身。魔物の中の魔物、王の中の王、生まれついての支配者。魔物の王ドラゴンなるぞ」
竹子の口がぽかんと開いた。
兵士の腕の中から這い出て、ドラゴンに向かって必死に首を伸ばす。
少しでもドラゴンに近づきたいとでもいうかのように…。
兵士が必死で止めようとするが、竹子は止まらなかった。
「何、言ってんですか、ドラゴンさん。私に最初会った時みたいな無理しちゃって。五秒と持たなかったじゃないですか。今更そんなムーブしたって面白いだけ」
竹子の言葉は最後まで続かなかった。
竹子のつま先すれすれの地面が深くえぐれた。
ひゅ、と喉が鳴る。
振り下ろされたドラゴンの爪が、薄闇の中でぼんやり光る。
先ほどの肩なんて比じゃない。こんなもの、かすっただけで腕ごと持っていかれる…。
「二度と言わせるな。不愉快だ。疾くその口を閉じよ、人間。ああ、本当にうじゃうじゃと…不愉快でならん」
ドラゴンの体が緑色の魔素を纏い始めた。
また黒炎を吐く気だ。それも今回は先ほどの比ではないほど大きく巨大な規模の炎を。
兵士たちは一目散に避難した。
魔術部隊が魔法障壁を詠唱し始める。
手負いの者は仲間に背負われて、皆一斉にドラゴンの足下から去っていく。
竹子は動けなかった。
兵士の一人が竹子を運んでくれた。
最後の最後までドラゴンを見ていた。
ドラゴンは竹子を見ていなかった。
竹子が覚えているのは、自分もろとも王立軍に向かって炎を吐くドラゴンの姿だった。
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