第6話 ドラゴン、空を飛ぶ

「ドラゴンさーん、もう朝ですよー。起きましょうよー」


「…」


 ドラゴンは拗ねていた。昨日のあれそれでめちゃくちゃ腹が立っていた。


 なんだあのおぞましい誤解は。ほんとのほんとに勘弁してほしい。寒気が走る。


 だから今日はもうこいつを徹底的に無視することにした。


 相変わらずあの人間から呼びかけられる言葉をガン無視しながら、ドラゴンはひたすらふてくされていた。


「ドラゴンさんどうしました?もしかして体調悪いんですか?…あっ、もしや虫歯ですか?!だから歯磨きしなきゃダメだって言ったじゃないですかーっ!」


「違わい!!!」


 無視は数秒と持たなかった。ドラゴンは秒でキレ散らかした。


「ドラゴンが虫歯になるわけないだろ馬鹿!世界最強だぞ!!!強いんだぞ!!!」


「ええ!?羨ましい!ドラゴンさん一生虫歯にならないとか世界一幸せですよ!あの痛みマジでちびりますからね!」


「え、お前がちびるぐらいやばいの…?」


「ドラゴンさんもしかして私のこと相当鈍感な何かだと思ってます?」


「全身燃やされといて平然としてる人間が苦しむ痛みとなればそりゃ警戒するだろ」


 人間は相変わらずぴんと来ていなさそうだった。ドラゴンは深い溜息を吐いた。


「ドラゴンさん、虫歯じゃないならほら早く行きましょうよ~。今日も皆さんお待ちですよ?」


「もう行かない。もともと最初に貰った食料の分ぐらいはきっちり精算しようと思ってただけだ。昨日働いたからこれでチャラだ!あんっだけ舐められて誰がもう一回顔出すかーっ!」


「ドラゴンさーんそんなこと言わないで!ほら皆さんもドラゴンさんのことかっこいいーと思ってますから~!大丈夫ですよ~!」


「うそだよ~!みんな僕のことお前のせいで威厳の無い小間使いドラゴンだと思ってんだよ~!お前のせいだよ~!」


「ええ?むしろ私の方がドラゴンさんの小間使いだと思われてますよ。だって実際私は粉骨砕身!ドラゴンさんのために働いていますし!」


「お前ほんと現状認識能力どうなってんの?なんで僕とお前で見えてるものがこんなに違うの?こわいよ?」


 鼻高々な人間はドラゴンのしらーっとした目が見えていないらしい。


 あくまで自分はドラゴンの補助をして働いているだけ、と言いたげな表情だ。むしろ誇らしげですらある。


 もはや諦観の域になってドラゴンは人間を見上げた。


「ようドラ坊!元気してるか!」


「ほらもう僕の住処に平然と立ち入ってくる!恐怖とか威厳とかクソもない!」


「そんなことないですーってほらアレクさん!ドラゴンさん怖くて恐ろしくて強くてかっこいいですよね~?」


「そうだな~怖いな~怖くて怖くてしょうがねえよ~今も膝から倒れこみそうだ~」


「棒読み!!!」


 びりびりと空気を鳴動させながらドラゴンが吠えあがる。


 突如として現れた人間―昨日紹介された、シュゴドラ村の村長・アレク―は、無遠慮に洞窟の中に踏み入ってきた。


 朝っぱらからわざわざ山を登って来たらしい。何やら包みを抱えて、随分と気安い調子である。


 ドラゴンは警戒する気持ちでアレクをきっと睨んだが、アレクは意にも介していなかった。

 いかにも気のいい親父という明るい笑顔を隠しもしないまま、ドラゴンの方を見ている。


 胡散臭い。

 なんだか嫌な予感がしてドラゴンは思わず顔をしかめた。


「今日はなあ、ちょっくらドラ坊に頼みたいことがあんだよ」


「誰がドラ坊だ!大体僕に頼み事とかできると思うなよ!食料分は働いたからもうお前たちの手伝いなんかしないからな!」


「ええ?定期的に働く代わりに食料をあげる約束だったろう?俺たちゃその話を聞いてお前さんたちにこんだけ食料を持ってきたんだぜ」


「そんなものこいつが勝手に言ってただけだ!僕は知らないからな!」


 ふん、と大きく鼻を鳴らしてドラゴンがそっぽを向く。


 ドラゴンは鼻息一つとってもとにかく大きくとにかく威力があって、洞窟の中は結構グラグラ揺れて天井から破片が落ちてきたりもした。


 が、アレクとやらはこりゃまたすげぇななんてのんきなことを言いながら手でひさしを作って上を見上げるだけ、例の人間に至っては最早見上げることすらしない。


 自分の威厳、死んでどこかに埋められちゃったんだろうか。ドラゴンはどんどん悲しくなってきた。


「そんじゃお前さんはもう食料もいらないし今後は一切俺たちの村を手伝ってもくれねぇってわけかい?」


「だからさっきからそう言ってるだろ!しつこいぞ!わかったらさっさと出ていけ!僕は寝る!」


「そうかあ…せっかく持ってきたアップルパイ、無駄になっちまったな~」


「…む」


 アレクがさっと手の包みを破った。途端にバターの香ばしい香りが辺りに広がった。それの後を追うように広がるシナモン、リンゴ、生地の何とも言えないふくよかな香り。


 わあと例の人間が喜びの声をあげる。


「ドロテアさんのアップルパイだ!今朝もさっそく焼いてくださったんですか!?」


「おうとも。朝早くからこんな重労働させるんじゃないよなんてかあちゃんには怒られちまったよ。そんなかあちゃんが丹精込めて苦労して作ったアップルパイ、いらないのかあ、そうかあ…」


「ぐ、ぐぐ」


「まあでもドラ坊が要らねえって言うからには無理強いはできないよな!」


 アレクは大げさに悲しそうな顔を作った後、ちらりと片目だけ開けてドラゴンを見た。


 ドラゴンはそんなことにも気づかないぐらい必死にアップルパイを見つめていた。


「でもこのアップルパイをこのまま持って帰るなんてもったいなくてとてもとても…というわけで嬢ちゃん!俺と二人で山分けしようぜ!」


「えーっいいんですかー!?やったドロテアさんのアップルパーイ!しかもホール半分!?この世にこんな幸せあります!?」


「ほんとだよな!俺のかみさんのアップルパイは世界一…いやきっと嬢ちゃんの世界とやらを含めても一番だぜ!さ、早く食べようぜ嬢ちゃん。焼きたてが冷めちまう!」


「うぐぐぐぅ!ちょ、ちょっと待てぇ!」


 さっそく一切れ分けてもらっていた例の人間と、アレクが同時に振り向く。

 例の人間はあくまで不思議そうにきょとんとして、そしてアレクはどうしてか少しにやにやしていた。


 かっとドラゴンは視界が赤くなるような心地を感じた。


「どうしたどうしたぁ?お前さんはもう食料なんか要らねえんだろ?だったら俺たちがアップルパイを食べたって問題はないじゃないか!」


「う、鬱陶しいんだよ!僕の目の前で食べるんじゃな…」


「おっとそうか。そうとなりゃちょっくら洞窟の外でピクニックとするかね!行こうぜ嬢ちゃん」


「ぬあ!?ま、待てぇ…!」


 なんだよ、と笑いながらアレクが振り返る。例の人間は相変わらずきょとんとした顔のままだ。


 ドラゴンはもごもごといやあのえっとを繰り返したが上手く口になることはなく。

 例の人間もアレクもしばらくそれを見つめていたが…やがてアレクが何やら柔らかい笑みを見せた。


 何事かとドラゴンが面食らっている間にその表情は掻き消えて、アレクはさっきと同じにやにや笑いを浮かべてこう言った。


「そーいえばそもそもなんだが、昨日の労働が一昨日の食料分だってなら、昨日渡した食料分はまだ働いてないことになるよなあ?」


「…は?」


 アレクがびしりと人差し指を指す。


 ドラゴンの懐の近く、無造作に投げ出されたそこには…昨日追加で村の人々からもらった食料やお菓子の類が積み上げられていた。


 そのうちいくつかは蓋が開いていたり中身がなくなっていて、ドラゴンと例の人間の胃袋の中に納まっているのだった。


 アレクが得意げに口角を釣り上げる。


「ってことは、お前さんは未だ俺たちに借りがある状態ってこったな!そうなればお前さんとしても働かないわけにはいくまい?」


「お、お前ら!最初からこれを狙って昨日食料を押し付けてきたのか!?」


「おいおいひどいこと言うな!俺たちの村の救世主に向かってそんな詐欺まがいの真似するわけないだろ!下心はちょっとしかない!」


「あるじゃん!」


「うるせぇあるよ!ありまくるよ!こちとらここ最近の荒天の挙句に川を渡るための橋が落ちて食料はあるのに配送に行けずに腐らせるばかりの日々だったんだ!保存加工にも限度があるしこのままだと冬支度のための金貨が集められなくて村一同で凍死確定コースなんだよー!形振り構ってらんねぇんだー!」


「思ったよりヘビーな事情だった…」


 げんなりするドラゴン、拳を握りしめていきり立つアレク、なんか楽しそうだなみたいなボケた目でそれを見ている例の人間。


 アレクは勢いそのままにドラゴンを強く見据えた。


「てなわけで俺はなんとしてでもドラゴンに協力してもらう!そのためなら悪魔にでも魂売ってやるし汚い手もつかってやろうってんだ!」


「ふん!人間らしい下種の思考回路だな!この世界最強のドラゴンたる僕を顎で使おうなど笑止千万!やすやすとお前らのたくらみになんぞ乗るわけには」


「昨日の食料のお代」


「うっ」


「そして何より…ほれ!俺のかみさんの!アップルパイ!ワンホール一括お買い得!こんなチャンスは二度とない!」


「うっ、うう…!いやいやそんなものじゃ釣られな」


「ちなみにこちらは前金で成功報酬として追加もうワンホールご用意いたします」


「乗った」


 ドラゴンは完全に胃袋を掌握されていた。威厳は美食に勝てなかった。



「イヤだ」


「んもう~ドラちゃんったらいつからそんなワガママっこに育っちゃったの!ママはそんな風に生んだ覚えはありませんよっ!」


「気色悪いんだよオマエ!一気に距離を詰めてくるなァ!」


 ドラゴンは怒り狂って若干炎を吐いた。最終的には怒ってそっぽを向いてしまった。


 アレクは後頭部をがりがりと掻いて溜息を吐いた。


「しっかりアップルパイ食べといてなんともまー…」


「ううううるさい!ていうか仕事自体はやるって言ってるだろ!僕が嫌なのはそいつを背に乗せるってことだよ!」


 ドラゴンの首が例の人間の方に向けられる。


 話題の中心らしい例の人間はしかしそんなこと意にも介さず、ただへらへら笑ってドラゴンに手を振った。なんでだ。


「別にそんな嫌がることかあ?一緒に嬢ちゃんも背中に乗せて連れてけって言ってるだけだろ」


 アレクの依頼は隣村への食料の運搬だった。


 麓の村は元々食料生産に最適な立地をしている。村の人口を賄う以上の食料を大量に生産できるのだ。

 そのためこの村は食料生産拠点として、各地の村落に余剰食糧を売って生活していた。


 食料以外の生活に必要な物資やそのほか村で手に入らない資材などは、売り上げを使って入手している。


 季節は今や夏の終わりと秋の初めの見えてきたころ。そろそろ隙間風の入り込む家屋を修繕し、暖かい毛皮や火の魔法石などを仕入れて、冬ごもりの支度をしなければならない。


 そのためには金貨が必要なため、この村では秋の余剰食糧を近隣の村へと売りにいかなければならない。のだが。


 ここ最近の荒天続きに近隣の村へ向かう橋の破損。村はどこへも食料を売り出しに行けなくなってしまった。


 有り余る食料をどうすることもできずに文字通り腐らせておくしかできない日々。手塩にかけて育てた食料が朽ちていく口惜しさは言葉にしがたい。


 しかし、そこに降って沸いたのがドラゴンである。


 突然現れたドラゴンは、火を吐き爪で割き大地を振るわせて、農作業をした。

 ついでに空を飛んで上から水を撒いたりもした。

 重い水の入った樽を易々と抱え悠然と空を飛び、そして自由自在に浮遊と着地を繰り返した。


 これを見た瞬間の村人たちの思いは一致した。

 なんとかしてこいつに食料を運んでもらおう。そうしなければ未来はない。


 というわけで村人たちは本気の囲い込み作戦を実行し、ドラゴンは囲い込む間でもなくアップルパイに負け、食料を隣村まで運搬することに同意した、と言う次第である。


 運んでほしい食料一式はすでに荷馬車に積んであると言う。ドラゴンの膂力であれば馬車ごと運んで持ち運ぶのも容易であるためこれ自体は問題なかった。


 問題はその先。アレクが例の人間を一緒に連れて行けと言ったことにあった。

 その話が出た瞬間、ドラゴンは猛然と反発し、それこそ怒りで火を噴きそうな勢いで反対し始めたのだ。


「なーにがだけだ!なんでそいつまで同行しなきゃいけない!僕一人で充分だろ!」


「お前さん、その手で荷物の積み下ろしや荷解きはどうする気だい?さすがにその爪で引っかいたらうちのリンゴはつぶれちまうぞ」


「う」


「それに向こうの村人と交渉するにも人間がいたほうが都合がいいだろ。向こうさんもいきなりお前さんだけが来たら流石にびっくりしちまうよ!」


「…」


 ドラゴンが途端に押し黙る。


 もちろん納得したわけではなく、むしろその逆で反骨心に満ち溢れた表情をしていた。


 荷馬車の中に例の人間も乗り込む方法も考えたが、食料でパンパンな上に運搬の途中で馬車が揺れることを考えると荷物に押しつぶされてしまう可能性が高い。


 そうなるとやはりドラゴンの背に例の人間がまたがって同行する方法が一番なのだが…。


「ぼ、僕は世界最強にして魔物の王、ドラゴンだぞ。人間なんか背に乗せられるか!」


 ドラゴンがふんぞり返ってそう宣った。不思議とどこか歯切れの悪い口調だったが意思はかたくなで、それなら荷物を運ばないとまで言っている。


「アップルパイに負けた世界最強が守れる矜持なんかあるか?」


「お前―っお前お前お前ぇこの野郎!あーあ傷ついた~今のでやる気がなくなりましたぁ~もうぜったいやりませ~ん」


「ドラ坊お前…うちの九歳より露骨な拗ね方はどうかと思う…」


「こんな時だけドン引きするな馬鹿ァ!突然ママムーブする奴に言われたくねー!」


 ドラゴンはばふんと鼻息を鳴らすと、ぷいと強くそっぽを向く。


「とにかく!僕は人間なんか背中に乗せないぞ!ドラゴンのコケンにかかわる問題だからな!」


「大丈夫かドラ坊。沽券の意味わかってるか?鶏の一種とかじゃないんだぞ?」


「お前本当にいい加減にしろよ!コケンの意味ぐらい分かって…え?鳥じゃないの?相手の強さを判別してくれるって言う…」


「ドラ坊…」


「哀れみの目をやめろーっ!」


 なんだかひどく平和な言い争いをしているアレクとドラゴンを、例の人間がじっと見ていた。

 この話が始まってからずっと静観してばかりだった例の人間。

 ドラゴンの方を見て、こてんと首をかしげる。


「でもドラゴンさん、夜はいっつも私に背中貸してくれますよね?」


 ドラゴンがびしりと固まった。

 そのままゆっくりと例の人間の方に顔を向ける。


 例の人間は相変わらずきょとんとした顔のまま、不思議そうにドラゴンを見上げていた。


「な、なんで今そういうこと言うんだよ!それとこれとは話が違うだろ!」


「えーそうですか?夜も昼も全然違いない…というか沽券の問題だったらまだ昼の方が対面保ててません?空を駆るドラゴンライダー!とかちょーかっこいいです!ベッドより断然!」


「だから僕を寝具扱いするなとあれほど!お前の乗り物と寝具なら確かにまだ乗り物のほうがマシだけど!…さっきからなんで黙ってるんだよ、おっさん」


 奇妙に沈黙したままのアレクの方へ、ドラゴンがまた視線を向ける。

 アレクは何故か口元を抑えてプルプル震えていた。瞳が衝撃の事実を前にした時のように見開かれている。


 訳が分からなくてドラゴンは首を傾げ、例の人間も不思議そうに瞬いた。

 一人と一匹の視線を受ける中、アレクはそっと口を開いた。


「お前さんたち、やっぱりそういう…」


 ぞわわわ、とドラゴンの全身に怖気が走った。勢い余って洞窟を破壊したくなった。耐えた。偉い。


「ほんttttttっとにそのおぞましい誤解やめてくんない!?どっからどういう宙がえりを決めてそんな結論に至ったんだよ!!!」


「い、いやすまん。つまりは人を背中に乗せるってのもドラゴンなりの…?なるほどな、いやこれはとんだ野暮なことを…」


「すみません本当にお願いしますやめてくださいその誤解だけはどうかやめてください後生です」


「あー駄目だ駄目だ!人前で背中に乗せろなんてとんだ破廉恥なことだったんだな!悪いドラゴン文化に造詣が深くなくて…!何も聞かなかったことにするから後は二人仲良く見えてないところで乗ったり乗られたりしてくれ!!!」


「ほんとにやめて!!!」


 そんなこんなの大騒動があり。


 ドラゴンはいつの間にか人間を背中に乗せて隣村まで行くことを了承していた。


 人間を背中に乗せると言う行為はなんてことはないただの行為であり、決して愛情や親愛やましてや求愛行為や恋人同士の睦言の類などではない。それこそドラゴンのコケンにかけて汚名をそそがねばならない。


 そうこれは自分の名誉を守るための戦いで必要な犠牲…ではあった。あったが。


「…」


「いやー助かるぜドラ坊!嬢ちゃんも隣村の奴との交渉よろしくたのむわぁ!」


「おまかせください!通常の三倍の値段で売りつけてやります!」


「頼もしいぜ!じゃあよろしくなドラ坊!」


 なんだろうこの釈然としない気持ち…。

 ドラゴンはなんだか勝手に目が死んでいくのを感じた。



「ドラゴンさーん、それじゃ行きましょう!」


 ドラゴンは一息に飛び上がった。風に煽られてアレクの前髪が巻き上がる。


 ドラゴンの巨体は見る見る間に上昇していき、ついにはアレクの頭上遥か上へと舞い上がった。


 ドラゴンの手で掴まれた荷馬車も随分と小さくなってしまっている。


「嬢ちゃん、ドラ坊!頼んだぜー!」


 アレクは大きく声を張り上げて、空の二人へとエールを送った。


 一方その頃。上空にて。


「…」


 ドラゴンは沈黙していた。


 上空で滞空したまま、どうしてか目をぐるぐると泳がせている。


 抱えた荷馬車を掴む手に力をこめたせいか、少しだけみしりと軋んだ音がした。ドラゴンはそれにすら気づいていないらしい。


「ドラゴンさん?どうしたんですか?あっもしかして虫歯ですか?もーだから歯磨きしましょうって言ったじゃないですか−!…ドラゴンさん?」


 背中の人間が怪訝そうにドラゴンに向けて首を伸ばす。

 首と身体の付け根辺りにまたがっている人間からはドラゴンの顔がよく見えないらしく、しきりにあっちこっちへと頭を振っている。


 ドラゴンは全く反応しない。ひたすら翼を振るってその場に静止しているだけ。

 ドラゴンさーん、とまた人間が声をかけること二度三度。


「お前やっぱり降りろ」


 えっ、と人間が声を漏らす。

 ドラゴンは相変わらず静止したまま、虚空を見つめているだけだった。


「ええ!ここで降りたら私、すごい悲惨なことになっちゃいますよー!それはもうぐっちゃぐっちゃのグロ映像に」


「そっ…そういう意味じゃない!もう一回地上まで降りるから背中から退いてくれってことだ!隣村には僕一人で行く!」


「でもアレクさんの言うとおりドラゴンさんだけだと荷下ろしとか出来なくないですか?私が一緒のほうがいいですよー」


「魔法でどうにかできるさ!今までもそうしてきたんだから!」


「うーん。ドラゴンさんを一人で隣村に行かせるのはちょっと心配なんですが…」


「お前は僕の母親か!?とにかく、一回降りるから…!」


「え、わ!?」


 ドラゴンの翼が勢いよくはためく。

 かと思えばその動きは緩やかに変化し、滑空に必要なエネルギーを失った。

 ドラゴンの身体はぐんぐん下降していく。元居た地点に向かってゆっくり高度を下げていき、降り立つ地面が近づいてきた。


「わ、わわわ!?ドラゴンさんストップストップ!ちょっと話を聞いて…!」


「う、うわ!動くな馬鹿!」


 上空で悶える例の人間と、それに動揺して体を跳ねさせたドラゴン。驚いたドラゴンは一度下降するのをやめてまた滞空した。


 そして、その時突然突風が吹いた。


「「あっ」」


 まるで狙いすましたかのようなタイミングだった。上空で風の流れが速いとはいえ、ここまでぴったりと合わせられると嫌がらせかとすら疑いたくなるほど。


 茫然としたドラゴンと人間の声が被る。空の中で響いたその声は、ぽんと無造作に宙に放たれて、そして。


 空中に投げ出された人間と一緒に落ちていった。


「ア゛ーッ!!??!」


 ドラゴンは絶叫した。

 青い空の中に勢いよく声が広がっていく。


 それをBGMに人間は真っ逆さまに落ちていった。

 ぶらりと空中に投げ出された腕が風に煽られて揺れている。

 いや、そんなことより。あの人間はこのままだとあと十数秒も持たずに死−。


 人間と目が合った。どうしてか恐怖も困惑も見せずに、ただただドラゴンを見つめている。

 何かが頭をよぎった。おぼろげな記憶のような、残像のような、デジャブのような。


「止まれーっ!」


 ドラゴンの身体が光り輝く。練り上げられた魔力が急速に収束し、風の腕となって人間へ伸びた。


 だがそれよりも人間が落ちる速度の方が早い。間に合わない。

 ドラゴンの脳内が絶望の色に染まっていく−。


 ばよえん。


「へ」


 なんだかこの場にはあり得ないはずの効果音が聞こえた気がして、ドラゴンは場違いにも口を開けた。


 それでも風の腕の発動はやめなかった。気流をまとった腕はぐんぐん伸びてぐんぐん近づいて、そして。例の人間の身体についに届いた。


 何故か向こうから腕の中に飛び込んでくるような形で、明らかに重力に逆らってそいつは動いた。


 ドラゴンはその場に浮遊した。先ほどと同じように翼がばさばさと音を立てる。


 人間はしっかり風の腕に絡め取られて今はドラゴンの目の前で浮いている。


 風の腕は何かしら実体のある存在ではなく、風魔法で指向性を持たせた気流の塊だ。

 それに掴まれるとは四方八方から襲い来る気流にもみくちゃにされるということ。

 つまりは。


「うぷ…」


「待て待て待て待て!今背中に乗せてやる!乗せてやるから!吐くなーっ!!!」


 洗濯物よろしくシャッフルされた人間はドラゴンの背中でしばらく呻き、ドラゴンは自己最高記録を超える速度で隣村までかっ飛ばした。


 いや、出発地点の洞窟戻った方が早いだろ、と気づいたのは隣村に着いてからだった。



「いやー色々ありましたが隣村の皆さんとの取引が上手くいってよかったですね〜!あんなに沢山の同情の視線に晒されたのは人生二度目だと思います!」


「あれより沢山の同情の視線って何?お前の人生マジで何があったの?」


「え?聞きたいですか?うーん、思い出すだけで生まれてきたことを後悔するレベルなのであんまり話したくないんです…が!ドラゴンさんの頼みとあらば語ってみせましょう!そうあれは私が入社して数ヶ月後の話で…」


「よーし僕は何も聞いてないし聞こえてないぞ!だから何も言うな!頼むから!な!!!」


 空を行く一つの影。

 言わずもがな世界最強と謳われる魔物ドラゴンと…その背中で呑気ににこにこしている例の人間である。


 ドラゴンは随分と軽くなった荷馬車を抱え、人間は背中にしっかりと張り付きながら、自分たちの住処の方向へぐんぐん進んでいる。


「にしても隣村の皆さんもシュゴドラ村の皆さんみたいに良い方達でしたね。ドラゴンさん見ても当たり前のように受け入れてくれたじゃないですか」


「うん、あのね、それはお前がマジでゲロ吐く五秒前でそれどころじゃなかったからだよ。僕が必死に頭下げてたから怖いとかより憐れまれたんだよ。お前もそうだけど僕も相当な数の同情の目線に晒されたからな」


「なるほどぉ〜!つまりは私が身体を張ったお陰でドラゴンさんの魅力が皆さんに伝わったと言うことですね!いやぁ朝ご飯全て無駄になった甲斐がありました!」


「お前ほんとすごいな」


 ドラゴンは最早ここまで来たら呆れるよりも感嘆する気持ちの方が強く出てきてしまった。


 この人間との付き合いが長くなるにつれて慣れてきてしまった、とも言う。

 …しかし。


「お前さあ、僕に何か言いたいことないわけ」


 ごうごうと風が顔の横を通り抜けていく中、ドラゴンの声が明瞭に響く。

 背中にまたがる人間はぱちくりと瞬きを繰り返した。


「背中に乗せてくださってありがとうございます…であってます?」


「違うだろ!むしろこう…落としやがってこのひ、ひとごろし、とか…」


「でもドラゴンさんちゃんと助けてくれたじゃないですか−!おかげさまで今もこうして元気なので!まあゲロは吐きましたが!」


「結果論だろ…。あのままだとお前死んでたんだぞ。なんでそんなに」


「だーいじょうぶですよ!ドラゴンさんが私を落としたりするはずないって信じてましたからね、ふふん!」


「よく考えろ。僕はお前を丸焦げにした前科持ちだぞ。その謎信頼どっから生えた?」


「私はこの世界に来たときからドラゴンさんパーフェクトリスペクトですので!!!」


「もうだめだぁ…おしまいだあ…こいつなんでこの年まで生き延びれたのかわかんねえ…」


 というよりもここまで生命力に満ちあふれすぎてる女をどうしたら当初のように追い詰めることができるのだろう。


 ドラゴンは逆に不思議に思った。ジョーシとかいう低級魔物の方がドラゴンより怖い、というのもあながち間違いではないのかもしれない。


 空を飛びながら、ドラゴンはちらりと背後を振り返る。

 例の人間は相変わらずにこにこ笑っていて、ドラゴンに対して何か含みがあるような様子ではなかった。


「…お前さ。もうちょい自分を大事にしろよ」


 ぽつん、とドラゴンの声が空にこだまする。

 例の人間からは珍しくすぐに返答がなく、ドラゴンは不思議に思ってもう一度振り返った。

 例の人間は何故かこれ以上無く瞳を輝かせていた。


「ど、ドラゴンさん、私の心配してくださっている…!?」


 ドラゴンは思わず口に出してげっと言ってしまった。


「ありがとうございますドラゴンさん!やっぱりドラゴンさんは世界で一番慈悲深く寛大で素晴らしいお方ですねぇ〜!最高の上司ですよー!」


「な、何を気持ち悪いこと言ってるんだ!別にお前を心配したわけじゃない!いや心配したわ!頭を!」


「自分の優しさを指摘されるとすかさず謙遜ですか!?くぅ〜有能さを鼻にかけない美点まで備えているとかドラゴンさんの人徳が留まる所を知らない!あっ人じゃないからドラゴン徳ですかね!」


「何言ってるか全然わかんねぇ!ええーい、もういいから帰るまで黙ってろ!ちゃんと捕まっとけよ!」


 ドラゴンは一層強く翼をはためかせ、スピードを上げた。

 人間が強くドラゴンの身体に縋り付く。


 身体を通して伝わってくる振動は例の人間が笑っている証拠だろうか。

 顔の横を通り抜けていく風の音に混じって、例の人間がくすくす笑っているのが聞こえた。


「…ふん」


 耳に届くその声を振り切るようにドラゴンは一度大きく首を振った。

 そのまま勢いよく加速を着けて、自分の住処に向けて真っ直ぐ進んでいく…。


 目の前に突然巨大なスライムが出現した。


「は?」


 正確には目の前と言うより真下、村々を遮る山々の数々…の中に突然それが現れた。

 日の光を浴びてつやつやと輝くそれは随分と弾力があるように見える。

 あまりにも巨大なそのスライムは、時折風に煽られてばよえんと揺れていた。


「わーなんですかこれ!?魔物!?」

「い、いや、こんな巨大な魔物は見たことがないが…あれ?そう言えばここって」


 ドラゴンは首を巡らせた。この付近の景色。確かに見た。出発した直後、洞窟のほど近く。

 ドラゴンがこの人間を取り落とした地点では?


「なんかこれ私の世界で見たゲームのキャラクターに似てますねえ」


「お前あれ知ってるのか…?」


「ええ、多分。こんな巨大じゃなかったと言うか、そもそも実在しないはずですけど。実はこの世界の生物だったんですかね?」


「こんなトンチキな大きさの生き物がいるわけないだろ…山ぐらいあるぞ…」


 巨大なばよえんとした生き物は相変わらず揺れている。

 その身体は弾力があり瑞々しく、恐らくは落ちた物を一回受け止めた後にはじき返すだろう事が予想された。


 この世界には全く存在しない未知の魔物を知っているこの女、そしてこの地点。


 どうしてこんなものがここに現れたのか。考えられる可能性は一つしかない。


 この女が自分の身の危険に際して魔法を使ってこいつを呼び出した。


 一体何をイメージして魔法を出力したのかは知らないが、とにもかくにも自分に馴染みのある姿を取ってこの物体…魔物?を顕現させた。そうとしか考えられなかった。


 ここまで理解不能、認識の埒外にある事象を巻き起こす力は、魔法以外にあり得ない。


 しかし…。


「へー、にしてもあの子こうしてみるとなんだかおいしそうですねえ!赤くてつやつやしてプルプルしてて。グミみたいに見えます!」


 ドラゴンの後ろで呑気にしゃべっているこの女。魔力の気配がしない。全くしない。


 笑えるほどにからっけつだ。体内に魔力を生み出す仕組みがあり、魔力を扱える人間なら、ドラゴンはすぐに察知できる。


 指先にろうそく程度の火を灯すしかできない貧弱な魔力しか持っていなかろうと、ドラゴンは見分けられる自信があった。事実村の人間をざっと見て、魔力のあるなしを一瞬で判別できた。


 その目で見た結論として、この女には魔力がない。少しもない。本当に欠片もない。


 だと言うのに、今目の前の事象は魔法でなければ説明がつかなかった。


 そもそも最初からそうだった。こいつは突然出口も入り口もないドラゴンの洞窟に現れた。

 その後も黒炎をかき消し、洞窟の入り口を破壊せしめ、そしていまここに至っては摩訶不思議な魔物を呼び出した。


 こんな大魔術の連発など、魔力の無い人間が偶然だけで起こせることではない。しかし、事実としてこいつには魔力がない。


「あれ、ドラゴンさん、どうしたんですか?さっきからずっと止まってますが…あっもしかしてあれ食べたいとか思ってます?駄目ですよー!拾い食いなんかしたらお腹壊しちゃいますよ!」


 響くのはあくまで平和な言葉。とぼけているのか、と思いたいけれど、はっきり言って今までのこいつとの付き合いが否定してくる。

 こいつにそんな器用なことは不可能だ。だとしたら一体。こいつはなんだ。

 いったい何を、何をうちに秘めている…?


「お前、いったい何者だ…?」


 ドラゴンの心からの問いに、例の人間はきょとんと不思議そうに瞬いた。

 しばし沈黙。例の人間は何かを納得したように、ああ、と呟くと。


「わたくし社竹子(やしろ たけこ)と申します!どうぞよろしくお願いします!」


「…」


 ドラゴンは沈黙した。


「そう言えばドラゴンさんに名乗ってなかったですねえ!あいさつはビジネスの基本なのに私としたことが…!」


「ソウダネ…ほんとにそうだわ…」


 ドラゴンはなんだか頭の中でヒヨコが飛び交っている気分になった。

 こいつの突飛な言動に呆れた、のではなく。そう言えばそもそもこいつの名前聞いてなかった、しかもその事実に今の今まで気づかなかった、自分自身がちょっと信じられなかった。


 こいつのことやばいと思ってたけど、もしかして僕もどっこいなのか…?


 ドラゴンはなんだか自分自身が信じられなくなってきた。


 自分の魔力探知とやらも間違っているんじゃないかという気分になってきて、先ほどの自分の疑問も丸ごと頭からどっかに行ってしまった。


 ドラゴンはふらふらよろめきながら飛んだ。完全に自信を喪失しており、その様子はその日一日中続いたと言う。


「ところで私もドラゴンさんドラゴンさんとお呼びしてばかりですが、ドラゴンさんもお名前があるのでは?」


「いいよもう僕なんて…ドラゴンとでもドラ坊とでもドラ屑とでも好きに読んでくれ…」


「じゃあこれからもドラゴンさんで!よろしくお願いしますね、ドラゴンさん!」


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