第5話-2
夜の学校の屋上で、俺は景の手紙を読んだ。
月光が屋上を照らしていて、鉄柵に短い影ができていた。学校のある高台から、眼下に人家の明かりが点々と見えた。
景がいるならここだと思った。八島の言ったことを思いだし、正門を乗りこえ、敷地に侵入した。校舎の窓を確認すると、1枚、半月錠のところが叩き割られていた。
屋上は鍵がかかっていなかった。
扉を開けると、打ちっぱなしのコンクリートの中央に、景が座りこんでいた。景は俺を見て、無言で手紙を差しだした。
俺は読み終えた手紙を景に返した。
「目の前で手紙を読まれるなんて、バカだな」
「夏川先輩が夜の学校に忍びこむなんて、バカなことをするからです。そうでなければ、手紙は普通に人手に渡っていました」
「だいたい《信頼できる人》ってなんだよ。普通に海野先輩って書けよ。どうせ本人から渡されるんだから、ボカす意味がないだろ。バカ」
そう正すと、景は奇声をあげた。
「はァー? 海野先輩じゃないですし。思いこみで物を言わないでください。バカ」
「図星を指されたからって意味のない嘘をつくなよバカ!」
「嘘じゃないですし、さっきからバカバカうるさいですよバカ!」
「バカって言った方がバカだからな! 《もし心霊現象があるなら》ってなんだよ! お祓いでもすればいいのか! あッ、《バカって言った方がバカ》っていうのは、自己言及の矛盾に陥るからその発言そのものは指さないからな!」
「ほんッと、夏川先輩ってバカ!」
何度も大声を出したため、景は息があがっていた。呼吸で肩が上下している。やがて、景は涙を零した。
「本当にバカ…」
涙は頬を伝い、コンクリートの床に落ちた。
「どうして、こんなところまで追ってきたんですか。せっかく綺麗に別れられそうだったのに…」
俺は景との距離を詰めた。
「お前こそ、どうして黙って消えようとしたんだよ。それで俺が諦めると思ったのか。バカ」
「だって…!」
景は声をあげた。
「好きって気持ちが大きくなって、どんどん先輩と別れるのが辛くなって、どうしたらいいか分からなくなったんだもん!」
景は俺と半歩のところまで近づくと、俺の胸に頭を預けた。
「どうして夏川先輩は海野先輩と付きあわなかったんですか… そうすれば今頃、夏川先輩は海野先輩が治る病気だということに喜んで、後輩のついた子供じみた嘘に怒って、それでも安堵の方が勝って、そのうち、つまらない嘘をついた後輩のことなんか忘れてしまったはずなのに…」
俺はため息をついた。
「お前なあ」
景の両肩を掴み、視線を合わせる。
「お前みたいな小賢しくて自己中心的で無責任なヤツ、好きになるに決まってるだろうが!」
景は涙に濡れた目で俺を見た。
遠景の海に月が映っている。黒い海面に、水平線まで1条の月光が反射していた。
俺と景は強く抱きあった。唇を重ねる。そのまま、時間が止まったように同じ姿勢でいた。
やがて、俺たちは唇を離した。
初めてのキスは、悲しい味がした。
景は泣きながら言った。
「せっかく両思いになれたのに、どうして私、死んじゃうんだろう。どうして私なんだろう」
「すまない、景。本当にすまない…」
景は肩を震わせたまま俺を見た。
「中学生のとき、私は空っぽだった。だから、生まれてきたことの意味がほしくて高校に入学した。死ぬまでに思い出がほしくて。そうしたら、夏川先輩に出会った。でも、思い出が増えるごとに、どんどん死にたくなくなって、こんなの酷いよ…!」
冷えきった手で俺の腕を握る。涙に濡れた目で俺を見上げる。
「夏川先輩。私、まだ死にたくないよ。まだ、したいことがたくさんある。高校の文化祭をしてみたかった。冬の帰り道の買食いをしてみたかった。それに、まだ夏川先輩といたかった!」
景は鼻を啜りあげた。
俺は黙って景の肩に手を置いた。
「私、死にたくない。ゴミになりたくない。無になりたくない…!」
景の表情は恐怖で強ばっていた。
「今の自分を忘れたくない。夏川先輩を好きって気持ちを忘れたくない。思い出ができれば心残りはなくなるって思ったのに、心残りばかり増えていくよ…!」
俺は景を胸に抱きとめた。
「助けて… 誰か私を助けてよ」
景は小声で呟いていた。
「俺が助けてやる」
景を胸に抱きしめたまま、俺は言った。
「え?」
景が顔を上げる。
「俺が助けてやるって言ったんだ」
そう言うと、景は俺を突きはなした。
「どうやって!? もう治療する方法なんかないんだよ!? 私はもう死ぬしかないんだよ!? ひとりぼっちであの世に放りだされるしかないんだよ!?」
「俺が先に死んでやる!」
そう俺は怒鳴った。
景が泣きはらした顔のまま呆然とする。
俺は言った。
「死後の世界なんてものがあるのか分からない。けど、あったら儲けものだな。まあ、なくてもいい。俺が見本を示して、お前の不安をなくしてやる」
鼻から息を抜く。
「俺が、ただお前を不安にさせるために会いにきたと思ってたのか? 景」
景はしばらく絶句していた。やがて、声を詰まらせつつ叫ぶ。
「自分が何を言っているのか分かってるんですか!」
「ああ」
「ぜんぜん分かってない。ぜんぜん分かってません! 自分の命の重さを知らないから、そんなことが言えるんです!」
「景!」
俺は怒声をあげた。
「それは違う! 俺は、すこし前まで自分に価値がないと思っていた。だが、お前や海野先輩に会って、自分の命がどれだけ奇跡的なものなのか、どれだけの価値があるのか分かったんだ。だからこそ、お前のために犠牲にするのに釣りあうと思ったんだ」
「夏川先輩が自殺したあと、万が一、私が回復したらどうするんですか」
「そのときは、あの世でお前のことを笑いながら待っててやるよ」
景は言葉を詰まらせた。暗い表情で俯く。
やがて、顔を上げる。表情には弱々しい笑みが浮かんでいた。
「本当、夏川先輩はバカですね」
泣いたまま言葉を続ける。
「嫌いです。大嫌い… もう顔も見たくない」
景は細く息を吐いた。俺を正面から睨む。
「私の前から消えてください。そして、2度と姿を現わさないでください」
「景…」
俺は景を抱きしめようとした。
「来ないで!」
景は鋭く叫んだ。
「今、言ったことは本心です」
俺たちはしばらく見つめあっていた。永遠の時間が過ぎたように感じた。
やがて、俺は視線を逸らし、景に背を向けた。
俺は屋上の扉に手をかけた。
「夏川先輩!」
俺の背中に景が怒鳴った。
「もしまた、自分の命を粗末にするようなことをしたら、絶対に許しませんから! 私が死のうが、どんな辛いことがあろうが、あなたは生きなさい! 生きて生きて、100歳まで生きなさい! もし自殺なんかしたら、殺してやります」
その言葉に決意が揺らいだ。
俺はふり向き、景に駆けよろうとした。
「やめて…」
景は俺に背を向けた。
「お願いだから、先に行ってください。今、来られたら、本当に一緒に死んでほしくなる…」
俺は無言で階段室に下り、扉を閉めた。屋上から泣声だけが聞こえていた。
学校の敷地を出る。深夜の住宅街はほぼ無音だった。電車はなく、俺は徒歩で帰宅した。
歩きながら、涙が溢れだした。喉が痛く、横隔膜が痙攣する。
景…
景…
この夏、景と過ごした様々な記憶が脳裏に浮かんでは消えた。そのたびに後から涙が溢れた。
俺は歩みを止め、内心で決意した。
いいだろう、景。俺はお前の死体を抱いて生きる。
そして、ふたたび夜道に足を踏みだした。
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