第4話-7
夏休みの最終日、俺は家でゴロゴロして過ごした。
頭にあるのは景のことだった。
やっぱりキスしとけばよかったな…
自分でも未練がましく思う。
もう明日から景と顔を合わせることもないし、海野先輩も数週間以内に入院するだろう。それから…
陰鬱な気分になり、天井を見たままため息をついた。床で輾転反側する。しかし、明日になれば同級生たちと再会し、ふたたび以前と同じような学校生活がはじまるだろう。
無為に時間を過ごしているうちに、夕方になった。
夕食を済ませたあと、家に電話がかかってきた。海野先輩だった。
「どうしました。海野先輩」
《うん。ちょっと声を聞きたくなってね》
電話ごしに海野先輩の声がする。
「そういうことなら会いに行きますよ。俺も夏休みの最終日で気分が腐っていたので」
俺は家を出た。すでに夜闇が訪れ、住宅街は街灯の明かりだけになっている。
電車を乗継ぎ、海野先輩の地元まで行った。
海野先輩は駅前で待ってくれていた。ロータリーにあるファストフードのチェーン店に入る。
店外に面した席に座る。壁はガラス張りで、夜のロータリーが見える。人影はない。すでに他の店はシャッターを下ろし、営業しているのはこの店だけだった。
俺は海野先輩に尋ねた。
「それで、どうかしましたか」
「とくに用事があるわけじゃないんだけど。あたしも鬱々としちゃって」
照明の無機質な白光が、海野先輩の顔を照らしていた。
「そういえば、今日、小浜さんが来たよ。明日から会えないから、いろいろ迷惑をかけたお詫びをしたいって。むしろ、迷惑をかけたのはこっちのほうだと思うけどね」
鞄から大学ノートを取りだす。表紙には《夏恋計画》とマジックで書かれている。
「でも、せっかくだからお詫びってことで、思い出にこれを貰っちゃった」
俺は苦笑した。他愛もない戯れの残滓だ。
海野先輩はノートをめくった。
「昨日、小浜さんと海に行ったんだね。告白はどうなったの?」
「フられましたよ」
俺は海野先輩に顛末を話した。
海野先輩は軽くため息をついた。
「そっか。残念だね」
「まあ、そうですね」
「なら、小浜さんの代わりにあたしと付きあってみる?」
海野先輩は悪戯っぽく言った。
俺は一瞬、硬直したが、すぐに首を振った。
「いえ。遠慮しておきます」
「よかった。もし夏川君が拒まなかったら、軽蔑してたよ」
即死トラップかよ。
俺は内心で冷汗をかいた。
「あれ… じゃあ、拒まなかった今はどうなんですか」
海野先輩は笑うだけで、何も答えなかった。
俺はため息をついた。
「体調はどうですか。海野先輩」
「うん。大丈夫。手術でバッチリ治して、2学期中には復学するよ」
海野先輩は力強く言った。
その言葉に、俺は居たたまれなさを覚えた。
「でも、そんな簡単に治るはずが…」
俺がそう言うと、海野先輩は若干、不快そうにした。
「縁起でもないことを言わないでほしいな。もう《夏の終わりに難病の恋人の死で号泣しよう》云々ってゴッコ遊びは終わりでしょう?」
「ゴッコ…?」
意識に違和感が生じる。
海野先輩は死病ではないらしい。しかし、その吉報とは裏腹に、俺の心には嫌な予感がジワジワと広がっていた。
「だって、治る病気じゃなかったら、そもそも今年度中に卒業することはできないでしょう。去年、検診で乳癌が見つかってから、放射線療法と薬物療法を続けてきたけど、結局、手術が必要になっちゃった。でも夏川君と小浜さんのおかげで、どうにか乗りきることができそう」
海野先輩は視線を伏せた。
「1学期のころは、絶望してどう生きればいいのか分からなかったけど、あなたたちのおかげで前向きに生きる決意ができた。…ありがとう」
そう言い、海野先輩ははにかんだ。だが、俺は血潮が退いてゆくのを感じていた。心臓が動悸を起こし、不安が雲塊のように膨れてゆく。指先は冷え、感覚がなかった。
海野先輩は小首を傾げた。
「小浜さんのことは、去年、病院で見かけた気がする。このあいだ、ようやく思いだしたよ。それであたしの病気を知ったのかな」
「海野先輩。そのノートを見せてもらってもいいですか」
俺は掠れた声で言った。語尾が震えていた。
「え? うん。いいけど…」
海野先輩は怪訝そうに応じた。ノートを差しだす。
震える指でページを1枚ずつめくってゆく。各ページには日付と、その日の覚書が記されていた。
やがて、最後のページに辿りついた。その最終行以降は空白だった。
《8月30日 今日、海を見た。もう怖くない。》
俺は海野先輩の制止を無視し、店を飛びだした。
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