第4話-3
病院を出たあと、俺と景はまっすぐ帰宅する気にもならず、海沿いを歩いた。海風に清めの塩のような働きを期待したのかもしれない。
俺と景はあまり言葉を交わさず、浜辺と山麓に挟まれた街道を、夕方になるまでブラブラと漫歩した。
いい加減に疲れたころ、バスの停留所を見つけた。
波板の屋根が設けられただけの、簡易なものだ。ベンチは木板が古びている。
コンクリートの基礎の支える表示板は、時刻表の金属板の塗装が剥げかけ、赤錆が浮いていた。
俺たちはベンチに腰かけ、足を休めた。色づいた夕日が、俺たちを包むように照らしていた。言葉に出さずとも、そろそろ帰ろうという暗黙の同意があった。
景が唐突に言った。
「プールに忍びこんだことは連帯責任ですよね」
「ああ」
「でも、実際には私1人で責任をとったわけです」
何を意図しているのか分からず、俺は沈黙した。
「悪いと思っているなら、言うことを聞いてくれますか」
景は中空を指さした。
「あれで2人乗りをさせてください」
停留所の間近に自転車が駐輪されていた。
俺はため息をついた。
停留所のそばに駐輪されているということは、バスとの足がかりに使っているのだろう。時刻表を見ると、しばらくバスは来ない。
自転車の車輪にかけられたチェーンは、数字錠の各桁を1つずつ前後に試したら外れた。
しばらく乗りまわすくらいならいいだろう。俺は自転車に跨り、景に後ろを顎で示した。
景は荷台に跨り、後輪の車軸に両足を置いた。
ペダルを踏みしめる。力が車輪に伝わり、自転車は発進した。
次第に自転車を加速させる。風が顔を撫で、なかなか気持ちよかった。横から差す夕日が眩しい。
景は俺の両肩に手を置いていた。しばらく自転車を漕いでいると、車軸を足場に立ちあがった。それに応え、俺は自転車を加速させた。
「夏川先輩」
背後から景が囁く。俺はバランスをとるのに集中して、あまり聞いていなかった。
「私、転校します」
自転車を止める。地面に片足を着き、後ろをふり返った。
夕日が景の横顔を照らしていた。
「私、追試、追々試でも単位を取れない科目がけっこうあったんですよね。2、3学期でとり戻せばいいのかもしれませんが。それにこの停学でしょう。いっそ、転校することにしました。…じつは私が責任をとると言いだしたとき、この計算は頭にあったんです。それを利他心を発揮したように言ったんですよ」
景は視線を俺に下ろした。
「お前のおかげで海野先輩が助かったのは事実だろ」
俺がそう言うと、景は視線を戻した。
「そうですね」
俺はふたたび自転車を漕いだ。
「転校はいつなんだ」
「2学期からです。夏休み中に置いてある私物を回収します」
「寂しくなるよ」
景は答えなかった。
結局、景も海野先輩もいなくなるということだ。
俺は停留所の近くで自転車を止めた。元の位置に戻し、元通りにチェーンをかける。
俺と景は帰途に着いた。
海岸沿いの歩道をゆく俺と平行に、景は防潮堤の上を歩いた。夕日はもう沈みかけ、深い赤色になっていた。
雲は逆光で暗くなり、海面は水平線の際が赤色を乱反射させていた。真横からの夕日に、景の半面は赤く照らされ、もう半面は黒影に溶けていた。
景は足を止めた。俺もつられてとまる。
「ひとは死ねばゴミですね」
「おい」
俺は強い口調で諫めた。景の意識に、昼間見た砂井の死体があることは明らかだった。
「だって、そうでしょう。カルシウムで出来た骨とアミノ酸で出来た肉の塊です」
「……」
「でも、それは生きている人間も同じですよね。ただ細胞が代謝しているだけ。神経に電気が走っているかどうかくらいで、死体との違いはほとんどありません。でも、生きている人間は死んでも、死んだ人間が生きかえることはない。だとしたら、命ってなんですかね」
俺は答えようとして、回答に詰まった。景も《代謝し自己複製すること》という生命の定義を聞きたいわけではないだろう。
「前に、海野先輩が言っていましたね。《死は永遠の孤独》って。…自分が《無》だと認識することもできない、完全な無。人間は生れてくる前は無で、死ねば無になります」
景の制服が海風を孕み、膨らんだ。スカートがはためく。
夕日が景の顔に深い陰影をつけている。髪が風で絹糸のように1本ずつ靡いていた。
その瞬間、俺の脳裏にこの夏に起きたすべてのことが去来した。
風で揺れる緑葉と、明暗のはっきりした葉陰の斑模様。日射されたコンクリートの表面を這う蟻。プールの水中から見上げた満月。景のうなじに浮いた玉の汗。最後に、今現在の夕焼け。
そうか…
俺は景が好きなんだ…
俺は眼球の奥に押されるような痛みを覚えた。
涙が溢れかけ、瞼を閉じ、それを抑えた。
景に言う。
「お前がさっき言っていたことの答え、分かったぞ。景」
「え?」
「命の意味が何かってこと」
景が俺を見る。
「なんですか?」
「オナニーだ。進化論に従えば、オナニーを好む生物は自然淘汰されるはずだ。だが、人間ほどオナニーの好きな生物はいない。だから、人間に生まれてきた意味があるならオナニーのはずだ」
景は呆れたような表情をした。
「夏川先輩は本当にバカですね…」
防潮堤から飛びおりる。俺の真横に着地する。
それから、俺と景は並んで帰った。
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