第3話-3

 俺と景は学校側に反省の意をしめすため、定期的に病院でボランティアをすることになっていた。

 奇しくも、その病院は海野先輩が通院するK総合病院だった。偶然というほどではない。近隣でボランティアを募集するほど病床数が多く、設備が整っているのはK総合病院だけだ。

 青空に入道雲が高く嵩を重ねている。入道雲は、岩肌のような影ができていて、大きさを感じさせた。

 青雲の背景に、白い矩形の建物が浮きあがっている。それがK総合病院だった。

 正面玄関の受付で用件を言い、事務室を訪ねる。そこで担当となる職員と挨拶した。

 俺は女性看護師と会うことを期待していたため、内心でガッカリした。

 作業内容は種々の雑用と院内美化だった。主となる清掃はすでに清掃員が済ませているため、談話室や大部屋の病室を簡単に掃除する。

 大部屋では、いちいち患者に声をかけてゴミ箱のゴミを回収し、テーブルを拭くため、すぐにウンザリしてしまった。ボランティアを募集するのも当然だと思った。

 

 病院の廊下は、床材が有機樹脂製で光沢がある。その静かな通路を景とともに行く。

 景は歩きながら言った。

「病院に流れる時間って不思議ですよね。救命センターに搬送された重症患者の時間は、信じられないくらいに速いです。そして、その一瞬で残りの一生に匹敵するような長い時間が流れる… 逆に、長期入院患者の時間は、嘘みたいに遅い。1日が1年にも相当するくらい長いのに、1年をふり返っても1日ほどにしか感じない…」

「人死にの多い場所だからな。死ぬことがなければ時間は関係ない。焦ることも待ちくたびれることもないからな」

「たまにいいことを言いますね」

 指示された大部屋の病室に着く。

 大部屋の室内を覗きこみ、なぜか景は嬉しそうにした。

「夏川先輩。この病室、おばあちゃんでいっぱいですよ」

 大部屋は奥の壁に1列の窓があり、左右に8床のベッドが並んでいた。たしかに入院しているのは老婆ばかりだった。

 老婆たちは話題に飢えているらしく、俺たちが部屋を訪れると騒がしくなった。

「あら、お兄さんハンサムね」

「いや。ハハハ…」

 おだてられ、苦笑で応じる。

「あっちの女の子は彼女?」

「えッ」

 老婆が顔を近づけ、小声で囁く。視線の先には、別の患者と話をする景がいた。小柄な体を屈め、楽しげにしている。

 俺はなぜかドキドキするのを感じた。

 まさか、ババアに恋を…?

 自分が意外と年上好みだったことに衝撃を覚えつつ、掃除を済ませる。

 部屋の最奥のベッドで、景が患者と話しこんでいた。窓に面しているため、入院していても眺望を楽しむことができそうだ。ベッドの足側の頭板に名札がかかり、診療科と主治医、《砂井》という名前が書かれていた。

 砂井は年齢のためか小柄で、優しげな目をしていた。

 俺と視線が合う。

「あら、もしかして2人はカップル?」

「私はもっと男を見る目があります」

 景が真顔で応じる。

 砂井は含むように笑った。

「いやいや。私とおじいさんを思いだすわ。おじいさんは先に逝っちゃったけどね。馴れそめをお話しようかしら」

 景は手で口元を覆った。

「そんな話をされたら、居住まいを正さなければならなくなって、最後にはしんみりさせられてしまうじゃないですか。それに、戦後最大の未解決事件の真相は、私1人で受けとるには重大すぎます」

 勝手に他人の人生の一代記を捏造するな。

 後ろから景の頭を叩く。

「すみません。こいつバカなので… 失礼なことを言いませんでしたか」

 砂井は笑った。

「いいのいいの。息子は東京でね。顔を合わせることもほとんどないの。孫が来てくれたみたいで嬉しいわ」

 景は真剣な表情で頷いた。

「そうですか… よそ様の息子ですが、悪しざまに罵ってもいいですか?」

「やめろ、バカ!」

 俺はふたたび景を叩いた。

「夏川先輩はおばあちゃんっ子ですからね」

 心配する砂井に、景はそう言った。

 分かったようなことを言いやがって…

 しかし、俺がおばあちゃんっ子であることは事実だった。

「主に性格上の理由で」

「人格批判だったのか…」

 俺は愕然とした。 

 砂井は笑っていた。俺たちはまた来ることを伝え、砂井のもとを辞去した。


 正面玄関の待合室は、天井の高い広壮な空間だ。角柱が空間を区画している。何列かの待合用の椅子に、患者や付添い人がまばらに座っていた。人声のざわめきに混ざり、スピーカーから呼出しのアナウンスが流れている。

 俺と景は事務室で挨拶し、帰るところだった。

 白衣を着た医師とすれ違う。景は会釈した。その医師も会釈を返す。

「知りあいか?」

「海野先輩の主治医です。以前、海野先輩のことを調べたと話したでしょう。そのときに話を聞きました」

 ふり向くと、すでに医師は遠くに行っていた。俺は小走りに追い、医師を呼びとめた。胸元の名札に《波戸》とある。

「波戸先生。その節はお世話になりました」

 俺の肩ごしに景が挨拶する。波戸は困ったような微笑を浮かべた。

 守秘義務のある医師から、どうやって話を聞きだしたのかは分からない。しかし、景のことだからけっして褒められない手立てを使ったのだろう。

 俺は波戸に言った。

「あの、すこし話を聞かせてもらってもいいですか?」

「彼女のことかな」

 落着いた声だった。波戸は専門家らしい顔立ちをしていた。頬は痩せ、目尻は深く刻まれ、理知的な眼差しをしている。黒髪をオールバックにしていた。

 波戸は俺の目を見つめた。

「君は?」

「恋人です」

 俺の代わりに景が答える。

 しれっと嘘をつきやがって…

 しかし、そう思われれば好都合なのは確かだった。

「あまり、他人に患者の話はできないよ」

 景が俺と波戸のあいだに割りこむ。

「波戸先生は『ブラックジャック』に感銘を受けて、医者を目指したんですよね」

「へえ」

 俺は相槌を打った。

「いちばん感銘を受けた台詞は《人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね…》だとか」

「医者を目指す人間がいちばん読みとってはいけない教訓! 手塚治虫を見習って、医学部を卒業したら漫画家を志してくれ!」

 波戸は渋い表情をして、わざとらしく咳払いをした。もはや、景が海野先輩の病状を聞きだすのに、褒められない手立てを使ったことは間違いない。

「あまり、他人に患者の話をすることはできない。でも、簡単に知ることのできることならいいかな」

 俺は直接的に質問した。

「白血病と肝臓癌で、余命があまりないと聞きました。本当ですか」

「それは難しい質問だね。臨床的には、余命のように予後を時間で表すことはあまりしない。生存率のように確率で表す。さまざまな要因があるからね。だから、どれだけ予後が悪くても、奇跡的に回復することもありうる。…ただ、現実的には、彼女についてはあと1、2ヶ月で、入院しなければ緩和ケアも覚束なくなるだろうね」

 俺は視界が真っ暗になった。

 今まで、海野先輩が末期だということに実感をもっていなかった。言葉では理解していても、漠然と、それを否定する可能性を想像していた。

 しかし、こうして医師から伝えられることで、現実を否応なく認めさせられた。そして、今まで実感をもっていなかったことを理解させられた。

 俺はどもりつつ言った。

「あの、専門家に言うのもおかしいんですが、なんとかならないんですか。白血病って骨髄移植とかで治るんじゃないですか」

 自分でも醜態を晒していることは分かっていたが、そう尋ねるのをとめられなかった。

 波戸は静かに言った。

「その説明をする前に、君が1つ、誤解をしていることを言っておくよ。造血幹細胞移植は万能薬じゃない。初発の患者に行えば、免疫反応でかえって予後は悪化する。まずは化学療法と寛解導入療法で治療する。…ただ、彼女については、もはや造血幹細胞移植が必要な段階だ。でも、移植の条件となるHLA、ヒト白血球抗原の一致は、兄弟間でも低い確率しかない。しかも、提供はもちろん、その検査にも本人の同意が必要だ」

 絶望する俺に、波戸は慰めるように言った。

「初発は乳癌だった。それがリンパ節から骨髄と肝臓に転移したんだ。たしかに難しい状態だけど、希望がないわけじゃない」

 長く立話していたためか、廊下から看護師が来て、波戸に呼びかけた。波戸は会釈し、看護師とともに去った。

 俺と景は病院を出た。蝉の声がうるさく響いていた。

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