第2章 盛夏
第3話-1
絵具のような単色の青が広がっている。俺はコンクリートに仰向けになり、夏の青空を見上げていた。
傍らのプールでは、水面が風でわずかに波立っている。
俺の頭の側では、点対称に景が仰向けになっている。髪と制服のスカートが、扇形に床に広がっていた。
外端のフェンスの基礎に海野先輩が腰かけ、俺たちを見下ろしていた。
景が寝そべったまま言った。
「そういえば、数学オリンピック、銀メダルおめでとうございます。お祝い、言ってなかったですよね」
「同点の銀メダルが国内だけであと2人いるけどな」
先週、国際数学オリンピックの1週間の日程を終え、帰国した。出題傾向と得意分野が重なっていて、俺は銀賞を受賞することができた。
顔を横に向けると、蟻が何かの残骸を運んでいた。強い日射しで、プールサイドのザラついたコンクリートに、蟻の影はくっきりと投射されていた。
こうして見慣れた場所で過ごしていると、外国にいたときのことが夢のように感じられた。
「それで、夏川先輩と海野先輩はヤったんですか?」
俺は咳きこんだ。肘を突いて上体を起こす。
「ああ。凄かったぞ。立ったまま結合したが、ハッスルのしすぎでだんだん俺を軸に回転しはじめて、最後にはプロペラのように空に舞いあがった。上空から見る夜景は綺麗だった。高速で回転しているから、コリオリ力のせいで斜めに進んで大変だったがな」
「はァ?」
背後で海野先輩が怪訝そうな声をあげた。
「なんだ。何もしなかったんですか」
景は興味をなくしたように体を半転させた。
「せっかく2人だけになれる機会を用意したのに、マヌケですね」
「どうしてお前にそんなことを言われなければならないんだ」
「すみません。今日は童貞の声は聞こえません」
「拳で語ってやろうか」
海野先輩が苛立たしげに言う。
「ねえ。本人を前にして、ひとの貞操をネタに盛りあがらないでくれる?」
景はふたたび体を半転させ、空を仰いだ。
「このあいだ、古典的な名作とされる青春小説を読んだんですよね」
「どうだったんだ?」
「《高校時代、好きな子がいたけどセックスできなかった》という1行で済む話に300ページをかけただけの内容でした」
頭を抱える俺に、景は不思議そうに続けた。
「性的なほのめかしだとか、社会批判だとか、人生訓だとか、誰がそういうものをありがたがるんですか? エロゲーならHシーンに突入している場面で、青春小説では登場人物たちのあいだの感情的な行きちがいを経て、他人を1個の人間として見る方法をおぼえ、物事を多面的に捉える見方を身につけて、1歩、大人になっているんですよ。エロゲーだったら童貞を捨てて大人になっている場面で、人生の悲哀を学んだり、身近な人間の死を経験したりして、大人への道程を1歩、進めているんです。あまりに遅々とした歩みに泣けてきます」
「そういう情操教育の必要性を、身をもって例示してくれたよ」
「情操教育? 知っています。内向的で感受性の強い少年が、家庭環境が悪くて荒んでいる少年と、メガネをかけていてガリ勉の少年と、太っていて大らかな少年と、ひと夏の冒険に出て、エロ本をまわし読みしたり、変質者に追われたり、川に落ちて溺死しかけたりするヤツですよね」
「具体例でも、失敗例のほうだったか…」
俺は慨嘆した。
海野先輩は膝に肘を着き、両手に顎を乗せて、退屈そうに俺たちを見ていた。
景は寝そべったまま両手を広げた。
「この蝉の合唱を聞いてください。蝉だって何年も地中にいたあと地上に出て、子孫を残すためにこうして鳴くんです。人間がセックスしなくてどうするんですか」
「脳の大きさが昆虫並みだと、人間より蝉の方が身近に感じられるのか…」
「夏川先輩と海野先輩も、人生最後の夏に子づくりしましょう」
俺は景を蹴りとばした。
景は転がってプールに落ちかけた。景は慌てて、跳ねるような動きで床にしがみついた。俺を警戒してか、姿勢を低くしてプールから離れた。
プールは水面の波紋が日光を透かし、底面に糸状の光を投影していた。
期末試験で全科目で赤点をとった景は、補習のため日参している。俺たちはそれに合わせるように学校に来ていた。
強いて思い出づくりをしなくとも、こうして過ごしているだけでいいか、と思うことがときどきあった。
太陽が傾くころ、俺たちは学校を後にした。
駅舎までの坂道を下りる景を眺める。そうしているうち、海野先輩が歩調を落とし、俺と2人だけになろうとしていることに気づいた。俺も歩調を落とす。
海野先輩と並び、2人で坂を下る。
おそらく、俺は海野先輩と恋人らしいことをすべきなのだろう。ただ、具体的にどうすればいいかは分からなかった。
こういうとき、景とならどうすればいいか分からずに困るということはないのだが。いや、その比較はおかしいか。
懊悩していると、海野先輩が俺の顔を覗きこんだ。
「どうかした?」
仕方なく、別個に抱えている悩みを話す。
「俺は数学オリンピックで銀メダルを獲ったでしょう」
「うん」
「それで、新聞から取材の打診があったんです」
数学オリンピックは、毎年、結果が簡単な記事になる程度のものだ。しかし、地方の無名校から受賞者が出るのは珍しく、全国紙と地元の地方紙から、インタビューの依頼があった。地方紙では数段の記事になるだろう。
「よかったじゃない」
海野先輩は続く俺の言葉を待った。
「正直に言って、俺はこれまで新聞のインタビュー記事をバカにしていました。定型句の質問に、定型句の質問を返すだけです。それが、俺のインタビューが記事になるわけですよね。おそらく、新聞の読者は、俺のことをつまらないオタクかガリ勉だと思うでしょうね。しかも、それは事実なんです」
もちろん、記者の質問に珍問答で返すことはできる。しかし、学校や関係諸機関に費用を負担してもらった手前、さすがにそれは憚られる。
おそらく、こうして俺は若さや青春というものを失っていくのだろう。
「大丈夫だよ」
海野先輩は俺に笑いかけた。
「あなたはつまらない人間なんかじゃないから」
その言葉を聞いて、俺は妙に安心感をおぼえた。
そうだ。日常の些事に、過度に悲観的になる必要はない。
幸い、かならずされるであろう《どうして数学の勉強をはじめたのか?》という質問への答えも、もう分かっている。
数学の天才美少女と出会うためだ。
数学に関しては天才的だが、生活能力がまったくなく、数学の証明を思いつくと、半裸だろうが全裸だろうが出歩いて証明を書きはじめる。当然、恋愛経験はまったくない。
坂下で、駅舎を背にして景が待っていた。夕日は赤く、海面にその色が反射していた。
「海野先輩、夏川先輩。遅いですよ」
「デートの予定を立てていたんだよ」
文句を言う景に反論する。
「で、何か思いついたんですか?」
「……」
返す言葉もない。
景が手を叩く。
「《若くして恋人が死ぬ》ということで思いついたんですが、肝試しに行くのはどうでしょう」
「最悪の連想だな」
「泣けるホラー映画」
「死者への敬意がなさすぎて泣けてきた…」
俺は軽くため息をついた。
「だいたい、肝試しって具体的にどうするんだ? 怪談が噂されるような場所なんて知らないぞ」
景はピンと指を立てた。
「簡単です。夜の墓場に行けばいいんです」
「それで?」
「お墓を掃除して、先祖の霊を供養します」
「それはただの墓参りだろ。昼に行け!」
「月光に十字架型の墓石が照らしだされる美しさが分からないとは、残念です」
「ヴァンパイアもののホラーだったのか…」
「夏川先輩が死者に敬意を払えと言うので」
「先祖の段階でヴァンパイアハンターに一族もろとも絶滅されるべきだったな」
下らない遣りとりをしたために、海野先輩は退屈したらしく、靴の爪先で小石を弄っていた。
景が跳ねるように海野先輩に近寄る。
「海野先輩。一緒に肝試しに墓地に行きませんか?」
「よせよ。バカ」
俺は景の腕を引いた。海野先輩にとって、気分のいい提案とは思えない。
「いいよ」
だが、予想に反し、海野先輩はそう即答した。
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