第2話-9
「部室から屋上にグレードアップしましょう」
景は言った。パソコンが置かれている長机に腰かけ、足を揺らしている。
「出会いと語らい。学校の屋上には高校生の憧れが詰まっています。屋上で寝転んで意味もなく青空を見上げたり、夕日を背に意味深なセリフを吐いたりできると分かれば、海野先輩も惹かれるに決まっています」
「だが、屋上は安全対策で施錠されているぞ」
俺は反論した。
今はギャルゲーの流行した20年前とは違う。防犯と安全対策の意識も強化されている。
「鍵の場所は分かっています。職員室の壁に掛かってるじゃないですか。2時間ほど拝借すればいいだけです。合鍵を作るのに1時間もかかりませんよ」
俺はため息をついた。
何を言いだすかと思えば…
「お前の提案はいつも常軌を逸してる。どこからそんな狂った発想が出てくるんだ?」
まったく…
「天才じゃないか」
景は親指を立てた。
「私がこっそり鍵を拝借します。そのあいだ、夏川先輩は先生方の注意を引きつけてください」
職員室は大部屋だ。スチール製の事務机が列を形成している。卓上は雑然としていて、今も数人の教師が書類仕事をしていた。
奥の壁に鍵掛けの板がかかっている。鍵についたリングで、鉤にかけられている。板に貼られたシールで、鉤にかけるべき鍵の種類が表記されている。鍵のリングにも、同様の札が付けられていた。
職員室の扉は前後に2つある。俺は前方の扉を開けた。
「ふー、今日も暑い暑い」
俺は水着に着替え、水泳帽とゴーグルを着け、脇にはビート板を抱えている。足にはパドル… 水泳用の水かきを嵌めている。今にでも南国の浜辺に行ける恰好だ。
ビート板とパドルはプールから持ちだしてきた。
教師たちの注目が一斉に集まる。その隙に、後方の扉から景が侵入した。
「おい、夏川。お前、何やってんだ?」
教師の1人がガンを飛ばす。
よしよし、いいぞと内心で思っていると、担任の鎌田が横槍を入れた。
「相手にするな。調子に乗るだけだ」
その言葉で、教師たちは机に向きなおった。景は書類棚の陰に隠れている。鍵掛けまではまだ距離がある。景は、なんとか注意を引くように動作で指示した。
部屋の片隅に給水器がある。紙コップに水を注ぐ方式だ。
俺は給水器に頭を突っこむと、ボタンを押した。
「あー、冷たくて気持ちいいな」
水が髪を濡らす。教師の誰かが書類を落とすのが見えた。
景は腹這いで移動し、鍵掛けのところまで行った。あと一息だ。景は体を伏せ、物陰に隠れたまま手を伸ばした。指が鍵に引っかかる。が、鉤から外れた鍵は、そのまま床に落ちた。金属の耳障りが音がする。
「いや、やっぱり暑い日は水浴びだな!」
大声で鍵の衝突音を紛らわせる。
職員室には給湯用の流しがある。俺は流しに昇り、水槽に腰を落とした。給湯器は赤いランプが点滅しているが、気にすることはないだろう。蛇口を捻る。
「あッ、ダメ!」
教師の誰かが叫んだが無視する。
蛇口から熱湯が出てきて、俺は飛びあがって絶叫した。
素肌に直接、熱湯を浴び、強烈な痛みをおぼえる。誰かが湯沸し器を使っていたらしい。俺は床に転がって手足を痙攣させた。
「夏川先輩!」
鍵掛けのところで景が叫ぶ。景が駆けよってくるのを見て、俺は計画が失敗したことを悟った。
俺と景は3日間の停学処分を受けた。
生徒会室で、俺の顔を見るなり八島は言った。
「本気でひとを殺したいと思ったのは、人生で2回目だ」
「初めてじゃなくてよかったな」
俺が軽口を叩くと、八島は殺気立った視線を向けた。
「スリーアウトで退場だって言ったよな。これでツーアウトだぞ。これがどういう意味か分かってるのか?」
「すべては9回裏に託された、ってところか…」
俺は遠い目をした。
八島が顔を赤くして怒鳴る。
「なんで自軍が有利に試合を運んでいる前提なんだ! コールドゲームだよ! 次に問題を起こせば退学もありえるってことだ!」
浮かせた腰をふたたび下ろす。八島は俺を上目で睨んだ。
「聞いただろうが、パソコン部は無期限の活動停止だ」
「ああ」
もともと部員が俺1人だけの部だ。おまけに、すぐ夏休みがはじまる。部室が使えなくなることは惜しいが、諦めはつく。
八島は長いため息を吐いた。
「普通にしているだけでいいんだ。どうしてそれができないんだ?」
俺が答えずにいると、八島は質問を重ねた。
「来年は受験生だろ。自分の進路を考えたことはあるのか?」
「俺の目標は長瀬主任だ」
俺は、田渕に言ったのと同じことを答えた。
「アニメの話はやめろ」
八島は不快そうに言った。
深刻な雰囲気だったが、俺は思わずニヤついた。
「あれ。どうして元ネタが分かるんだ? 生徒会長も『To Heart』をプレイしたことがあるのか?」
八島はまったく表情を動かさなかった。
「第1に、職名を敬称にしているから、お前の身近な人間ではない。第2に、その上で、見知ったように話すから有名人だ。第3に、有名人で主任級ということは考えにくい。だから、アニメだかゲームだかの登場人物だと察しはつく」
「ゲームだよ。けどアニメ化もされてて、アニメでは…」
「やめろと言っただろ」
解説しようとする俺を、八島は苛立たしげに遮った。
「真面目な話だ。来年、再来年。お前はどうするつもりなんだ?」
「どうって…」
俺は答えられなかった。焦燥感を覚えつつ、話を逸らす。
「いや、生徒会長にそんなことを尋ねられるとはな。会長はどこかの私大文系にでも進学して、4年間のモラトリアムを過ごすんだろう。そして、同じキャンパス内の女と恋人になったり仲違いしたり仲直りしたり別れたりまた恋人になったりするわけだ。じつに充実した将来設計だな。ハハハ」
「俺は就職だ」
笑う俺に、八島は無感動に言った。
「家に進学するほどの余裕がない。別に、就職の進路に不満があるわけじゃないけどな」
「……」
「お前は何がしたいんだ? 家も貧乏じゃない、頭も悪くない。それなのに、人生と向きあわずにふざけてばかりいる」
俺が口を閉ざしていると、八島はため息をついた。
「すこしは先のことも考えろ」
俺は退室した。廊下で景が待っていて、俺と入替りに生徒会室に入った。
景と八島が話している間、俺は廊下で放心していた。
3階のため、窓に植木の枝葉が重なっている。風に揺れる緑葉が、日射しを裏面に透かしている。下校する生徒たちの声が、距離をおいて地上から聞こえていた。
扉が開く音がして、景が生徒会室から出てきた。なぜかニヤニヤしている。
怪訝に思っていると、ポケットから鍵をとり出した。2つある。
景は自慢げに言った。
「これ、なんだと思いますか? 屋上の合鍵です」
「どうしたんだ。職員室に忍びこんだとき、屋上の鍵はそのままにしていただろ」
「部室の鍵とすり替えておいたんです。部室は鍵を開けっぱなしにしていても、閉め忘れたですみますからね。さっき、職員室に鍵を返却しに行くとき、また元通りにしておきました」
景は嬉しげにしていたが、俺はあまり喜べなかった。むしろ、罪悪感と不安感を覚えていた。
景について階段を上がる。屋上の高さは階段室になっていた。屋上への扉は磨りガラスがはまっている。ガラスごしに仄白い明かりが階段室を照らしていた。
景は鍵を扉の鍵穴に差した。鍵は抵抗なく回転した。錠前の外れる金属質な音がする。
屋上に出る。海が近いため、風が強い。コンクリートの打ちっぱなしの、縹渺とした風景が広がっている。外周に腰高の鉄柵がある。その他は、突起のように階段室が見えるだけだった。思っていたより退屈な光景だった。
俺は鉄柵に凭れかかった。周囲に住宅と山並みが見える。遠景に鈍色の海面が広がっている。水平線の縁だけ、わずかに輝いていた。俺は無言でその風景を見ていた。鋭い風音が耳朶を打つ。そうするうち、次第に憂鬱になった。
俺が景色を眺めている後ろで、景は何もない屋上を物珍しげに調べていた。
八島に言われたことを考える。
俺は何をしたい? 考えるほど、何もしたくないという結論に落着する。ずっとこの日常が続けばいい。景がいて、田渕がいて、海野先輩がいて… 八島にいさせてやってもいい。
もしかしたら、俺は本当は海野先輩と恋人になりたいわけではないのかもしれない。景が俺と海野先輩をくっつけようと、下らない思いつきをして。それは決まって失敗して、でも海野先輩は決定的な拒絶はしないで。田渕に諫められたり、八島に叱られたりして。それで俺たちはまたバカ騒ぎをして、それからまた明日が来て…
その先は?
その先はどうなるんだ?
時間は否応なく過ぎてゆく。俺は来年には受験をして、その数年後には就職する。ただ労働をして、その合間に余暇を挟む日々が続く。死ぬまで退屈で不毛な時間を過ごす。おそらく、今が人生で1番いい時期なのだろう。今が終われば、長く退屈か、変化に富むようで無為な人生がはじまる。そして、無からはじまった命が、無に帰る。
景が永遠が欲しいと言った心情が、はじめて理解できた気がした。
俺と対照的に、景は屋上に来て躁になっているようだった。
「夏川先輩! せっかく、学校の屋上にいるんだから『To Heart』の保科智子にあやかって人生でも語りましょうよ。そういえば、どうして先輩は数学を勉強しはじめたんですか? 聞いたことがなかったですね」
思いついたように付言する。
「もちろん、得意だったから、ということは別にしてですよ」
どうしてだっただろう…
普段なら、そうしたことを考えても、雑然とした思考に紛れて結論は出なかっただろう。だがこのときは、暗鬱な気分のせいで、奇妙に思考が冴えきっていた。
俺は景に尋ねた。
「どうして蜂の巣が六角形なのか分かるか?」
「何の話ですか?」
景は怪訝そうにした。
「同じ大きさの正多角形の組合せで平面を覆うことのできる図形は、三角形、四角形、六角形だけだ。このうち、外周が同じ長さで、面積がもっとも大きくなるのは正六角形だ。だから、巣は六角形で構築するのがもっとも効率的になる」
「なるほど」
「自然界の奇跡に見えるようなことも、ただ普遍的な法則に従った結果だ。俺はそれに感動したんだ… だから、数学を勉強しはじめたんだ」
そうだ。俺は永遠が欲しかったんだ。
だが、その目的は前提から間違っていた。遅まきながら、ようやくそのことに気づいた。
俺は景に言った。
「人間の複雑な言動も、すべては細胞の群れから構成されていて、細胞の構造は分子に規定されていて、分子は原子に、原子は素粒子に… すべては数学的な法則に従っている。だとすれば、俺たちのすることは全部、コンピューターのシミュレーションと同じだ。延々と連なる行列と同じ… 虚無だ」
俺はギャルゲーをプレイしているときを思いだした。
遠方を見たまま、景に話しかける。
「ギャルゲーって、楽しければ楽しいほど辛くならないか?」
「え?」
景は怪訝そうな声を出した。
「終わるときに。なら、俺たちはなんのためにギャルゲーをプレイするんだ?」
退屈で無意味な人生の中で、ギャルゲーのテキストだけが面白く充実している。そういう感じがした。
鉄柵から上体を乗りだし、地面を覗きこむ。
高さによる遠近法で、地上が小さく見える。風を感じるだけで、屋上は静かだった。
考えることなく言葉が口に出る。
「死にたいな…」
無意識に呟き、声に出た言葉に、その感情が思いのほか強いことを知った。
背後で景が言う。
「私は、死にたくなんてないですけどね」
ありきたりの言葉を予想したため、続く言葉は聞流そうとした。
「だって、明日、マルチが発売されるかもしれないじゃないですか」
俺はふり返った。
海風を受け、景は髪をなびかせていた。スカートを風に煽られるままにしている。
「呆けた顔をして、どうしたんですか。夏川先輩。マルチって、HomeMaidシリーズ、HMX-12のことですよ。『To Heart』では、メイドロボは初期型が発売されてから、企業の開発競争で数年でマルチくらい高性能なものまで進化した、って設定なんですよね。現在のIT産業を見ると、あながち空想的じゃないですよね。となると、本当に明日にでもマルチの発売が告知されるかもしれないじゃないですか。もし死んでたら、それを見ることができないんですよ。そんなの悔しいじゃないですか。私は100歳まで生きたいですね」
そう言うと、景は胸を張った。
俺は視線を海に戻した。目頭が熱くなっていた。泣きかけているところを景に見られたくなかった。
「ギャルゲーを終わらせたくなくなる気持ちは私も分かります。だから、私はイベントCGを最後の1枚だけ開放せずに終わらせています。そうすれば、その作品内では世界が永遠に続いていくことになるでしょう?」
俺は体を反転させた。鉄柵に背中を預ける。
「バカだな、お前は」
「いきなりなんですか」
1拍おいて言った。
「《夏恋計画》、やらせてくれよ」
俺は続けた。
「来週は期末試験で、それが終われば夏休みだ。思い出づくりさせてくれよ。たとえひと夏のことでも、永遠になるって思えたからな」
ガチャ、と階段室の扉から金属質な音がして、俺は体を竦ませた。教師か、生徒か。鍵は開けたままだ。屋上に勝手に侵入したことを知られるのはまずい。
だが、階段室から屋上に下りてきたのは海野先輩だった。
「その計画、あたしも参加していい?」
俺が驚いていると、景が説明した。
「合鍵は3つ、作っておいたんです」
海野先輩が歩みよる。
「最後の夏だしね。あたしも思い出がほしい」
そう言い、俺たちに対峙する。俺と景、海野先輩は向かいあった。
太陽はすでに傾きかけていた。やや色付いた日差しのもと、俺たちは互いを見つめていた。
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