第1話-5
昼休み、俺は机につっ伏していた。海野先輩に会う口実が思いつかない。
「夏川先輩」
顔を上げると、景が俺の前に立っていた。
「どうしたんだ」
「いえ。海野先輩と顔つなぎしてあげようと思いまして」
「お前だって、ほぼ初対面だろ」
景はわざとらしくシナをつくった。
「任せてください。年上にお願いごとをするのは得意です。こう見えて、私は妹属性ですから」
「嘘つけ。お前はどう見てもひとりっ子だろ」
「バレましたか」
景は悪びれずに答えた。
適当なヤツだ。
俺は不安を感じつつ、景について3年生の教室まで行った。
景が海野先輩に話しかける。
「こんにちは。海野先輩。1年A組の小浜景です」
「こんにちは」
表情に疑問を浮かべつつ、海野先輩は応じた。
「子供のころ、よく名前でからかわれませんでしたか。私も苦労したので分かります」
「なに言ってんだ。お前は苗字も名前も普通だろ」
本当に適当なヤツだ。
俺のツッコミを無視し、景は続けた。
「でも、女性は結婚すれば苗字は変わりますからね。《山野》さんと結婚するとか。それに、届出をすれば改名することもできるそうですよ。《幸》とか、かわいくていいと思うんですが」
「どうしてより珍名になる姓名を選ぶんだ」
「夏川先輩は黙っててください」
海野先輩は呆れていた。
景は海野先輩を教室の隅まで連れていった。俺に聞こえないよう、2人で小声で話す。ときおり、こちらを見てクスクス笑っていた。
やがて、海野先輩が頷いた。
2人がこちらに戻ってくる。
「夏川先輩。海野先輩が昼食をご一緒してくれるそうですよ」
「えッ」
思わず奇声が出る。
「何を言ったんだ」
景は簡単に答えた。
「おふざけなしで、真面目に話したいと頼んだだけです」
海野先輩がこちらをじっと見ていた。
学生食堂は満席近くまで混雑していた。
食堂はプラスチック製の天板の長机が並ぶ。喧騒の中、生徒たちが声が聞こえるように大声で会話している。
俺と海野先輩は券売機で食券を買い、カウンターの行列に加わった。
その後、俺たちは騒音を避け、1人で食事するものの多い、食堂の隅の席に着いた。
だが、海野先輩と対面した俺は、急に言葉が出てこなくなってしまった。
海野先輩の綺麗な顔が間近にある。海野先輩は黙々と料理を咀嚼していた。
どう話しかければいいのか分からない。俺は萎縮していた。
しばらく、俺たちは対面したまま、無言で食事をしていた。
やがて、気を使って海野先輩が話しかけてきた。
「夏川君。パソコン部なのは知ってるけど、アルバイトとかはしてる?」
「いや。とくに」
尋ねられるままに応答する。
しまった。会話をうち切ってしまった。
俺は慌てたが、その様子を見て、海野先輩は苦笑を浮かべた。
「私、前から疑問に思ってたことがあるんだ」
海野先輩は話題を変えた。
「牛丼って、よく生卵をつけるでしょ。けど、卵のあるとないとでは、料理は別物になると思うんだよね。カツ丼だって、卵がなければトンカツ定食でしょ。なのに、牛丼だけ卵を付けたり付けなかったりするのは、料理として不自然じゃない?」
「は?」
「だからね、これからは牛丼に卵を付けるときは、《月見牛丼》って区別したらいいんじゃないかと思うの」
俺は考えた。
「牛丼はもともと牛鍋の発展したものですからね。鍋に卵を入れても鍋のままでしょう。だから、牛丼に卵を入れても牛丼のままなんじゃないですかね。つまり、牛丼は牛丼という集合の定義であって、卵は集合の要素として含まれてるんじゃないですか。月見そばにさらに卵を入れたところで、《月見月見そば》と高階になるわけじゃないでしょう」
「じゃあ、ダブルチーズバーガーは?」
「連続体仮説ですね。自然数などの可算集合と、無理数などの連続体濃度との中間の濃度は存在しないんです。数学上の未解決問題です。ZFC集合論に限ってのことですが」
ふーん、と海野先輩は感心したような声を出した。
「夏川君。本当に数学オリンピックの日本代表なんだ」
「今まではなんだと思っていたんですか」
もっとも、今のは雑学の範疇だが。
「学校が威信を高めるために、頭のおかしい生徒を騙して、自分を日本代表だと思いこませてるんだと思ってた」
そう言い、海野先輩は俺を憐れむように見た。
そこまで思われていたのか。
「一応、去年の2学期の始業式でも挨拶しましたが」
「ごめんね。あたし、去年はかなり休学してたから」
そう言われ、俺は海野先輩の顔に見覚えがなかったことを思いだした。
海野先輩が語調を変える。
「ねえ。夏川君は、どうしてあたしと親しくしようとするの」
「……」
「夏川君は黙っていたら、けっこうモテそうなのに」
「黙っていれば、海野先輩は俺のことを好きになってくれるんですか」
俺はそう訊きかえした。
海野先輩はフッと笑うと肩を竦めた。困ったような笑顔のまま、食後の食器を載せたトレイを手に立ちあがった。
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