第1話-2
体育館の光沢のある床面に、整然とパイプ椅子が並べられている。高さのある天井は、鉄骨の梁組みが剥きだしだ。アーチ型の屋根の内面が見えている。鉄骨の隙間に、いくつかのボールが引っかかったまま放置されていた。
校長の式辞と新任の教師の挨拶が終わり、生徒会が式次を引継いだ。今、演壇には八島という生徒会長が立っている。
年齢より大人びていて、人当たりのよさそうな顔立ちをしている。去年、2年生のときに選挙で生徒会長に任命された。
俺は野球部の部長とともに、壇上に置かれたパイプ椅子に座っていた。野球部は去年の全国大会で、県予選の準々決勝まで進出した。そのため、部長が生徒の活動報告で演壇に立つことになっている。俺はその次だ。
壇上から体育館を見渡す。学年ごとにパイプ椅子が配置され、生徒たちが着席している。また、壁際に横1列に並べられ、教師たちが座っている。
講壇では八島が今学期の生徒会の目標を語っている。
俺は退屈して、テロリストの集団が突入してくる妄想をした。
……。
テロリストが女生徒の約半数を犯したころ、妄想にも飽きた。
あらためて体育館を見渡す。すると、3年生の列の1人に目が留まった。
すごい美人だ。梳いたような背中まである髪をしている。切長の目が知性を感じさせる。両手を膝に乗せ、退屈な式次にもかかわらず、落着いた表情でまっすぐに演壇を見ていた。
あんな上級生がいただろうか…
去年、1年間は同じ校舎にいたはずだが、見覚えがない。あれほどの美人なら、見かけただけで印象に残りそうなものだ。
色っぽいことがあってほしいと言ったが、できるなら、ああした美人と近づきたいものだ。
じっと見つめていると、視線に気づいたのか、その上級生はこちらを向いた。
チャンスだ。
この機会にどうにかして、俺の存在を知らしめなければならない。
その上級生と視線が合っていることを確認して、俺はズボンのチャックを下ろした。
上級生はなんの反応もない。
俺はチャックに手を入れ、股間をまさぐるようにして、ハンカチを取りだした。ハンカチで顔を拭く。
しかし、上級生は表情を硬くするだけで、確たる反応を示さなかった。
ダメか…
インパクトも弱いし、遠目だから、ズボンのポケットから取りだしたのを見まちがえたと思ったのかもしれない。
だが、今日はポケットティッシュも持っていた。
ズボンのチャックから、スッ、スッとティッシュを抜きとる。上級生は愕然とした表情でこちらを見ていた。よし。
ふと、殺気を感じて視線を向けると、担任の鎌田が憤怒の表情を浮かべていた。理由は分からない。
まあ、鎌田のことなど、どうでもいい。上級生に視線を戻すと、すでに演壇に向きなおっていた。落胆する。
式次は生徒の活動報告に移っていた。すでに野球部の活動報告が終わり、部長が俺の隣の席に戻るところだった。
八島が俺の前年度の活動を紹介する。
「次は個人の活動です。2年A組、夏川秀平君は、惜しくも入賞はなりませんでしたが、昨年度の国際数学オリンピックの代表選手に選ばれ、出場を果たしました。国際数学オリンピックは、国内の予選だけでも100名まで選抜され、さらに本選で20名まで選抜され、そのうち選考会で代表選手が6名だけ選ばれるものです。また、夏川君は今年度の国内予選も突破し、すでに代表選手として選出されています。国際大会は7月になりますが、今年こそはメダルを獲得できるように、全校で応援しましょう」
全校生徒が拍手で応じる。
俺は八島と交代で演壇に立った。
といっても、八島が紹介した以上に話すことはない。
同じことを2度話すのもバカバカしいな…
ついでなので、部長を務めるパソコン部の宣伝をすることにした。
「2年A組、夏川秀平だ。JMOとIMO… 日本数学オリンピックと国際数学オリンピックの活動については、今の説明のとおりだ。入賞できるよう努力する。応援よろしく。…応援ついでに、パソコン部への入部を頼む」
背後をふり返る。八島は渋い顔をしていたが、制止するつもりはないようだ。
「パソコン部の部員は、今、部長の俺だけだ。未経験者から、任意のプログラミング言語を習得しているヤツまで、誰でも自由に参加してくれ。例年の活動は、部員の資格取得の支援、ゲーム制作などだ」
教師たちの方を見る。個人の活動報告からは逸脱したが、パソコン部への勧誘そのものに難色を示されることはなく、何人かの教師は頷きすらしていた。
「意外に思うかもしれないが、パソコン部の歴史は古く、創部は20年近く前だ。だから資料も多く、ギャルゲーの『kanon』、『AIR』なども初期のPC版、つまり18禁版がある」
なぜか教師たちの雰囲気が変わった気がした。俺は気にせず説明を続けた。
「今年の活動としては、ギャルゲーの制作を目標にしている。とくにエロゲーだ。声優がいるとありがたい。女子はプログラミングに興味がないというひとでも… グエーッ!」
突然、背後から首を絞められ、俺は呻きを漏らした。
八島は俺を演壇から引離すと、マイクを持ちあげた。
「ありがとうございました。以上、夏川君の活動報告でした。全員起立! 校歌斉唱!」
待機していた吹奏楽部にすばやく合図をする。指揮者が機敏に指揮棒を掲げ、部員たちが一斉に楽器を持ちあげた。
俺はパイプ椅子のところまで八島に引きずられていった。
全校生徒がガタガタと立つ。渋々、俺も野球部の部長と校歌斉唱に加わった。
風土と青雲の志を謳った、一般的な歌詞を唱和する。
退屈しのぎに生徒たちを見ていると、林立する生徒たちの中に、さきほどの上級生が目に留まった。
何気なく見ていると、上級生はフラッと揺らぎ、その場に転倒した。
一瞬、周囲の音が消えたように錯覚した。が、依然として生徒たちは校歌を合唱しつづけている。上級生の周囲だけ人垣が崩れ、近くにいる女生徒たちが、その上級生の上体を支えて呼びかけていた。
俺は走り、檀上から飛びおりた。校歌を合唱する生徒たちの合間を走りぬけ、上級生のもとに駆けよる。
「夏川! 席に戻れ!」
追いかけてきた八島が大声を出す。
教師たちの列から、養護教諭がパイプ椅子の狭間を通って、駆けつけてきた。養護教諭は上級生の傍らに屈むと、簡単に問診した。
「保健室に運びましょう」
俺は上級生の頭部に回った。八島に顎で指示する。
「上半身は俺が支える。下半身はお前が支えろ」
八島は一瞬、憤慨したようだったが、すぐに指示に従った。
担架の要領で上級生を保健室まで運ぶ。
消毒液の刺すような臭気が鼻腔を突く。保健室は3床のベッドと、その間仕切りのカーテン。薬品棚と、養護教諭のための事務机があった。
ベッドの1つに上級生を寝かせる。長い髪が、端整な顔にかかっている。
「この子の名前は?」
養護教諭が尋ねる。
俺は上級生のスカートのポケットを探った。なぜか八島が唖然としている。
財布を見つけ、中を確認する。
学生証に《3年C組 海野めぐみ(うみの めぐみ)》という所属と姓名が記されていた。養護教諭にその旨を告げる。
「おい。名前が分かったなら財布を戻せよ」
八島が促すが、俺は無視した。
内張りを開いてゆく。
「コンドームはないな」
八島が俺を殴った。
コンビニのポイントカードの他に、保険証と病院の診察券があった。市内では最大の総合病院のものだ。
それを見て、俺にも海野先輩の事情が分かった。
つまり、海野先輩はセックスするときはナマ派で、望まない妊娠をしてしまい、産婦人科に通っているのだろう。そして、妊娠の症状で倒れてしまった。
「若者の性の乱れもここまできたか…」
俺は思わず慨嘆した。
「貧血だね。このまま休んでて」
養護教諭が海野先輩になにか言っている。
ベッドに横たわったまま、海野先輩がこちらを見た。顔色は悪かったが、口元に薄い微笑を浮かべている。
「ここまで連れてきてくれてありがとう。夏川君、八島君。夏川君はもう少し礼儀を弁えたほうがいいと思うけど…」
「いや、青少年の道徳を憂うものとして、当然のことをしたまでです」
これで海野先輩が自らの性習慣を反省し、立派に更生してくれればそれでいい。
「……?」
海野先輩は怪訝そうだったが、とくに何も反問しなかった。
八島が俺に声をかける。
「体育館に戻るぞ」
生徒会長の八島ならともかく、今から体育館に戻って、バカ正直に残りの式次をこなす気にはなれない。
俺は養護教諭に尋ねた。
「俺もベッドで寝ていていいですか」
「まあ、いいけど。サボり癖をつけちゃダメよ?」
上履きを脱ぎ、海野先輩の隣に潜りこもうとすると、海野先輩に蹴りだされた。
教室に戻ると、田渕がニヤニヤと笑いながら話しかけてきた。
「これで、新入生を含めて、全校生徒がお前が頭のおかしいことを知ることになったな」
「何を言う。俺は若者の性の乱れを正してきたところだぞ」
真顔で答えると、田渕は深刻な表情をして、ため息をついた。
「俺たちは来年、受験生なんだぜ? いい加減にまともになったらどうだ? この学校は校則は厳しいほうなんだぜ。俺たちの入学する前の年にも退学処分が出たらしいしな。いくら実績があるからって、いつまでも目こぼししてもらえるとはかぎらないんだぞ。進路とか考えてんのか?」
俺は頷いた。
「当然だ。理工系で進学希望だ。俺の目標は長瀬主任だからな」
「長瀬主任?」
田渕が首を傾げる。
「マルチの開発者だ」
「マルチ…?」
俺はため息をついた。
「マルチも知らないのか。HomeMaidシリーズ、HMX-12。通称マルチだ。汎用人型ロボットで、一般にはメイドロボとも言うな。『To Heart』の攻略ヒロインの1人だ。長瀬主任はマルチに感情のプログラムを導入することを決めた功労者だ」
「お前に訊いた俺がバカだったよ」
田渕は表情に疲労感を浮かべた。
相談があったことを思いだし、俺は田渕に尋ねた。
「そうだ。さっきから海野先輩のことを考えると、心臓がドキドキするんだが、どういうことは分かるか?」
「海野…?」
「さっき倒れた3年生だ」
俺が説明すると、田渕は頷いた。
「心筋梗塞じゃないか?」
「やっぱりか!」
症状を自覚したからか、急に重症になった気がして、俺は床に倒れた。胸を押さえて七転八倒する。
「誰か! 心臓マッサージをしてくれ!」
「理由は想像がつくけど、もし当たってるとしたら、その先輩がかわいそうすぎるからな…」
田渕はジタバタする俺を憐れむような目付きで見下ろしながら、そう呟いた。
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