第1章 初夏

第1話-1

 遅刻しそうになり、俺は幼馴染の圭子とともに走っていた。

 俺たちの高校は坂上にある。高台から、一面に開けた海が見える。海岸線と平行に私鉄の線路が走っていて、大半の生徒は、駅舎から坂を上って登校する。

 息を切らして駆けあがる俺の背後では、海面が朝日を反射して、キラキラと輝いていた。

 風光明媚な立地だが、毎朝、この坂を踏破するものにとっては苦痛でしかない。

 まして、走りながらとなればなおさらだ。

「まったく、お前が時間をまちがえるからだぞ」

 俺は走りながら圭子に文句を言った。

 今日は始業式だ。始業式の開始時刻に直接、体育館に行けばいいと思っていたのだが、その前に教室で出欠の確認があるらしい。

 そのため、いつもより遅く起きて、こうして走るハメになっていた。

 圭子を見ると、俺と並走しているのに、無言で涼しげにしていた。が、その様子はすこし不満そうだ。ひとのせいにするなと言いたいのだろう。

 圭子とは小学校以来の仲だ。そのときから、俺は毎朝、圭子に起こしてもらっている。

 たしかに、俺が時間をまちがえず、自力で起きていればよかったかもしれない。

 だが、高校生は幼馴染に起こしてもらうものではないか。すくなくとも、俺のギャルゲーの知識ではそうだった。


 昇降口で上履きに履替え、廊下に掲示されたクラス名簿を確認する。

「俺は2年A組か。お、よかったな。圭子、お前も同じクラスだぞ」

 圭子は無言だったが、すこし嬉しそうに見えた。

 教室まで階段を駆けあがる。これから、毎日この階段を上がらなければならないことを考えると、ため息が出る。

 教室に入ると、まだ室内は騒然としていた。俺は息をつき、呼吸を整えた。

「ギリギリセーフだったな。担任は去年と同じで鎌田の野郎だったな。あいつ、始業時間より前に教室に来るからな… ああいうのも時間にルーズっていうんじゃないか? なあ、圭子」

 声をかけるが、圭子は無視した。もしかすると、クラスの衆目の前で男子と話すのが恥ずかしいのかもしれない。お年頃というヤツだろうか。

 クラスの連中は俺たちを見て、声をひそめて囁きあい、クスクスと笑っていた。

 高校生という生きものは色恋沙汰が好きだ。こうして男女が親しくしているだけで、すぐ噂になってしまう。

 俺は黒板に掲示されていた出席表で席順を確認し、机に着いた。

 圭子はちょこんと俺の机に座った。冷たいようでも、やはり幼馴染の間柄だ。そう簡単に離れられないらしい。

「今年も同じクラスになったな」

 田渕が圭子を押しのけ、俺の机に座った。田渕は男子バスケットボール部に所属していて、背が高く、風采がいい。

「おい、圭子に気をつけろ」

 俺が注意すると、田渕は表情に困惑を浮かべた。

「…もしかして、《圭子》って、この目覚し時計のことか?」

 そう言い、卓上にいる圭子を取りあげる。

 圭子は小学生のときに父が買ってきた。それ以来、高校生の今に至るまで使っている。毎朝、起こしてくれるのだから、これはもう幼馴染と言っても過言ではないだろう。

「お前、2年生になっても相変わらず頭がおかしいな。俺たちも来年は受験生なんだぜ?」

「何がおかしいんだ。幼馴染と会話しているだけだろう」

 田渕は唖然とした。

「何って… 目覚し時計を幼馴染とは言わないだろ」

「なぜだ? 機械だからか? 無機物だからか? それを言うなら、人間の心も、神経細胞の電気信号と化学反応の組合せでしかないんだぞ。神経細胞が電子部品になったからと言って、違いがあると言えるのか?」

「お前の脳からすれば、そうなのかもな」

 俺は大きくため息をついた。

「お前のようなヤツが、人工知能が人間並みに高度になったときに、人間じゃないからと言って差別したり、クジラやイルカに知性があることを認めずに、捕鯨活動に賛成したりするんだろうな。お前、人工知能が人間を支配するようになったら処分されるぞ」

「自分たちを目覚し時計と同列に扱うヤツの処分が先だろ」

 田渕は圭子の裏蓋を外し、電池を取りだし、本体とともに投げてよこした。

「圭子ォーッ!」

 機能停止した圭子を抱えて絶叫する。

 田渕は軽くため息をついた。

「周りを見てみろよ。みんな遠巻きにしてるぜ。もう、この学校じゃ、お前が頭のおかしいことを知らないのは入学してくる新入生だけじゃないか?」

 周囲を見回す。やはり、クラスの連中は遠くからこちらを伺ってクスクスと笑っていた。

 さすがに俺は弁解することにした。

「俺も、目覚し時計に名前を付けて学校に持ってくることがおかしいことくらい、分かっている。理由がある。去年は、高校生になったのに色っぽいことがまったくなかったからな。今年は行動を起こすことにしたんだ。参考資料にギャルゲーを調べたんだ。そうしたら、毎朝、幼馴染とともに登校すべきだと分かってな」

「よく分かった。お前、完全にイカレてるな」

 田渕は冷ややかな目で俺を見た。

「お前は黙っていれば外見はいいんだから、余計なことをしなければいいんじゃないか? 天才と何とかは紙一重で、頭もいいんだしさ」

 俺はメタルフレームの眼鏡の位置を直した。

「やはりギャルゲーを参考にするのは失敗か…」

「ああ」

「ならエロゲーだな」

「教室に不審者をとり押さえるための刺又を置くよう、職員室にかけあってくる」

 田渕は走って教室を出ていった。

 春先からああして奇行に走る人間が出てくるとは、気を引締めなければならないな。

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