置いてかれる日々
次の日の朝、三人でバスから降りる。舞木さんが心配そうにちらちら俺たちを見ていた。
「おはよう」
警備の人が挨拶してきた。舞木さんが忘れ物をしなくなった理由を聞いて目にかけてくれるようになっていた。最近は毎朝挨拶してくれる。
無視するわけにも行かず、返事した。
「おはようございます」
ガラガラの声だった。警備の人は驚いていた。
「風邪でも引いたのかい?」
「いえ、カラオケで……」
昨日は延々と泣いたり歌ったらひとまずすっきりした。ただ、のどがかれた。
霧島も同様、今日はもう話せないとスマホに打ち込んで見せてきた。
「喉からの風邪に気を付けて。梅雨って寒暖差激しくて体調崩しやすいんだよ」
「ありがとうございます」
のど飴をなめながら軽く礼をする。
霧島は軽く礼をして隣を通って行った。
舞木さんは元気に「おはようございます」と太陽のような笑顔であいさつして、学園内に入った。
舞木さんは俺たちの顔を伺う。
「……今日一日大丈夫?」
スマホに「体育や発表がないから大丈夫」と打ち込んで見せる。
霧島はぐっと親指を上げる。
「のど飴切らしちゃだめだよ」
はあと仕方ないようにため息をついた。
こんな風に心配させて申し訳ない。
ただ気が晴れた部分もあった。
昨日のカラオケで色々気分は晴れた。一応姉のことは内心で一区切りついた気がする。
どこに行けばいいのかわからないままだが。
祖母が亡くなってから、従姉の役に立ちたい一心で生きてきた。
身一つの俺の面倒を見てきた従姉は他の同年代の人と比べて不自由だと感じていた。
だから俺がしっかりすれば従姉はもっと自由にやれると思っていた。
結局自分の足で飛んで行った。俺の手助けはいらなかった。
急に足元がおぼつかなくなって、この先どうすればいいかわからなくなった。
夜、従姉に『姉さんはどうやって目標を見つけた?』と送った。返信はない。
そして特に方向性が決まらないまま夜は明けた。まだ先が分からない。
前を見るとしっかりした足取りの生徒がそれぞれの学科棟に向かう。普段なら気にかけない光景が、なんだか眩しく見えた。
二人と別れてデザイン棟に入る。
入り口のフロアに神村さんが居た。手元のメモに何か描いている。
視線に気づいたのか、此方を向いた。
「おはよう。若澄君、進捗いかが」
にっこりと笑う。こちらはガラスの人形のような笑みだ。
「おはようございます」
「ガラガラじゃないか」
「……どうも、朝起きたらこうなってました」
流石にカラオケに行ったことは隠す。
「この大事な時期に風邪かぁ。今日はもう帰った方がいいんじゃないか」
「風邪じゃないんで。ちゃんと朝測ってきましたが、多分口あけて寝てたからだと思います」
「あほみたいな寝方だね。健康は創作者の基本だよ?自覚してる?」
初めての罵倒だった。あんまりな言い様だが正論だ。反論する気力もなく俺は軽く頭を下げた。
「阿呆です。ごめんなさい」
「いや私は君が風邪になっても進めるから関係ない。ただ今後デザインの仕事をするなら自己管理が大事なんだから、勝手に風邪ひいても言い訳にならない」
「……ごもっとも」
ぐうの音も出ない正論だ。カラオケに行ったことを今更後悔し始めた。
神村さんから視線を外し、手元のメモに目が行く。「ああ」と神村さんはメモを閉じた。
「外の方がデザインがはかどるんだ。他の人がいるからかな」
「早いですね」
「でもまた一からやり直すかもしれない」
「……別のものを作るってことですか」
「そう。期限まで何個か作ってみないと、やっぱり今日いいと思っても明日は違うかもしれない。心の底から納得できるものを作りたいんだ」
目に閃光が見えた。口端を上げ、野心を見せる。
「今回の優勝は貰うよ」
ライバルとして意識されている。
五月までの俺なら対抗心を持っていたかもしれない。今の俺にはどうすればいいのかわからなかった。
「俺も、やりますよ」
と、ガラガラの声で軟弱さを隠して答えた。
内心は恐れ多さと焦りで満ちていた。
神村さんは「そう」と感情のわからない返答をした。
*
何かしなければ。
鉛筆で紙を叩く。
早く描かないと。
手を動かす。もんどりうったような線にしかならない。
「……はあ」
鉛筆を置く。窓へ視線を向けると暗くなっていた。
もうこんな時間か。授業が終わってすぐに部屋に戻った時にはまだ明るかった。
時計を見ると七時だ。
「……結局何もすすまないか」
ため息をついて筆をおく。
目の前の紙を見る。
何とか形になっているものが一二個ある。それも以前賞を取ったものとよく似ていた。
手癖で描いている。
紙をまとめて、また投げる。丸くなった紙はまた手前で落ちた。
立ち上がると腹が鳴った。そういえば夕食を取ってない。正直食欲は無かったが、腹に入れなければ集中できない。
今は混んでいるから霧島を呼び出すわけにもいかない。一人で行こう。
紙をゴミ箱に放り込み、俺は部屋から出た。
*
食堂は多くの生徒で賑わっていた。
並ぶのも面倒で、霧島が人混みを嫌うため普段夕食の時間は早めにしている。今日みたいなのは初めてだ。
長蛇の列に並んで今日の夕食を決める。選ぶのも面倒だからサバの味噌煮定食にしよう。
決めてから辺りを見回す。窓際に紬が居た。
机の上のざるそばを食べずにぼーっと外を見ている。
どうしたんだろう。
紬はぼんやり頬杖をついている。それは俺が鯖定食を貰うまでずっとそこにいた。
近づくと気が立っているわけでもなさそうだとわかる。これなら声をかけても大丈夫だろう。
「紬」
はっとこっちを向いた。
「若澄……か」
「隣いいか」
紬は机の蕎麦を見る。減ってないことに驚いて、頭を抱えた。
「頼む」
「ありがとう」
隣に座る。外は街灯がぼんやり光っていた。
いただきますと手を合わせてから箸をとる。
「進捗どうだ」
朝も聞いたなその言葉。
どういうべきか考え、素直に現状を述べた。
「全く。描けなくなった」
「そうか」
どこか安心したように肩を下ろす。
「紬も?」
「全然……それ以前の問題か」
深くため息をついた。
俺は納得した。最近気が立っていたのは描けなかったからか。
サバを割く。
「授業で学んだとおりに描けばそれなりの形にはなるよ」
前の学校では独学でやっていた。
本を読んだりネットで動画見たり記事を読んで知識を得て、苦労して形にしていた。
こちらの学校で授業を受けると独学で苦労したことをずっとわかりやすく知識として教えてくれた。正直初めからここで学びたかったと思う位だ。
だが、紬の顔が曇る。
「どうした」
数秒の間を開けて、紬は俺の方を見た。
「俺は才能あると思うか?」
「才能?」
突然の言葉に、少し考える。
才能、あまり好きじゃない言葉だ。いやそんなことは聞いてない。
少し考えて口を開いた。
「才能ってひと口で言えるもんじゃないだろ。細分化して、コンセプトの抽象化の違い、視点の違い、とか色々言える。それに俺は紬の作品をあまり見たことがない、だから評価できない」
「そうか」
紬はそばをすすった。言葉と裏腹に納得していない様子だ。
「何かあった?」
紬は外を眺めていた。怒るかと思ったが、ただ俺の言葉を聞いている。
この学園には才能であふれた人間が沢山いる。地元で一番でも、上には上にいると挫折する奴も少なくないらしいと霧島は寂しそうに語っていた。紬も挫折したのだろうか。
会話が続かない。どうにもできずごはんに手を付ける。数分してから紬は話しだした。
「単に、俺に才能が無かったと実感したんだ」
「似たようなものしか作れないってこと?」
「それもある。ただ、深刻なのは俺が好きなことを蹴って才能があると思ったことに注力してたってことだ」
「……魔法陣を描くのはやりたいことじゃないってことか」
「……本心からじゃない」
なんとなく気づいていた。実技でも魔法陣に関してはあまりいい評価を貰ってないが、詳細な分析、特にフォントや事態に関して解説するとき紬の顔は輝いていた。先生もいい顔をするのはそっちの方だ。
「地元……中途半端な田舎だな。そこで、俺は魔法陣で何度か賞を取ったんだ。フォントの方はからっきしだったけどな」
「難易度が違うから、仕方ないんじゃないか」
「まず文字が好きで、そこから魔法陣に手を伸ばした感じだ。だが、結果になって帰ってきたのは魔法陣だけだ」
「それは、コンクールの質もあるんじゃないか」
魔法陣のコンペは大小さまざまで沢山開催される一方、国内においてフォントはどうしても大きな会社やどこかの創作サイトで良くても年に十数回開催されるだけだ。人口を考慮に入れても、判断基準やその後の展開を考えると魔法陣よりも開催回数は少なくなる。そして、参加者も当然プロが混ざる。選定基準の厳しさを考えても、フォントで結果が出にくいのは当然だった。
「狭い世界でわからなかったんだ。中学生の時、学力的に古野学園入学が視野に入っていたんだ。それで結果を考えてこっちの学科に決めた。結果、魔方陣の方もロクな成績残せないまま描けなくなった。なにか浮かんでも結局意味がないとしか思えない」
紬が
「最近苛立ってたのもそれか?」
「……あれは、霧島が変わったことに焦っていた。才能を生かさないあいつが腹立たしかったが、行動を起こしたら今度は俺が何も変わってないことに向き合わなきゃいけなくなった」
「じゃあ、なんか始めるしかないんじゃないか」
「どうすればいい?」
「どうすればって……フォントの方に本腰入れるしかないんじゃないか?」
紬は顔をふせた。硬直したような、ロダンの考える象のように深刻な雰囲気をかもしていた。
すこしして、「……そうか」と一言呟いて立ち上がる。
「ありがとう。少し考えてみる」
曇った表情のまま、紬は去っていった。
簡単にアドバイスすべきじゃなかったか。自分の先すら見えないのに。
空いた席を眺めて、俺はぬるくなった味噌汁に口をつけた。
部屋に戻って、椅子に座る。帰り際に買った魔法陣デザインの冊子を開いた。季刊の雑誌で発行日が最近だったことを忘れていた。
最近活躍するデザイナーの特集だった。
流行や、自分のポリシーなどについて話している。
学校には通っているが、実際の仕事は中々わからない世界だ。講演会でたまに演説を聞くくらいのもので、距離感はこちらの方が近く感じた。
中身は刺激的で面白い。これなら何か新しいものを描けるかもしれない。
読み進めると、突然神村さんの写真が目に入った。
タイトルと見ると、授賞式の記事だ。
高校生で受賞。というのがとても称賛されていた。
受賞したデザインは乗っていたが、以前見た優雅なデザインとは全く違う和と繊細さが印象的なものだった。
余白の使い方が上手く、以前のものが豪華な化粧箱なら、最低限の装飾で高貴さを演出する桐の箪笥の様だ。どちらにしろ、日常の中にとけこむ優美さを描いていた。
「凄い」
体が震えた。今朝のことを思い出す。この授賞式は先月のことだ。申込日を調べると三月末だった。つまりこれだけ優美なデザインを大量生産している。
俺は?
今まで自分が作ったデザインを思い出す。
すぐに後悔した。手癖で描いたものから、似たものばかりだ。
そういえば先生があった時九割九分駄目と言っていた。手癖を見抜いたのかもしれない。
個性、という言葉がよぎる。
じゃあ俺の個性ってなんだ。最低限の線で描くのが俺の個性だろうか。
違う。線を細く描くのは俺だけじゃない。じゃあ、俺の強みはなんだ?
……わからない。
また鉛筆で描こうとして止める。以前と同じことをしていればまた同じことを繰り返すだけだ。
別のことをするしかない。
机の前を向く。紙と鉛筆を取り出し、雑誌開いてを横に置く。
俺は一旦基礎に戻り、神村さんや他のデザインを模写し始めた。
暫くの間模写し続けた。
「何やってんの?」
顔を上げると神村さんが居た。何か呆れたような表情をしている。
今は昼休みの終わりごろ、次の授業までの残り少しの時間も使って模写していた。
「模写です」
「今頃?」
言葉が痛い。だが言っていることは確かだ。
否定せずに、非難を受け止める。
「はい。自分の未熟さに今更気づいたところです」
「そう。で、描いてる?」
「この模写が終わったら描きます」
今は天願先生の魔法陣を模写している。ここ一週間でデザイナーのインタビューやどうしてこの業界を目指したのかなど興味深い話を知れた。
目の前の魔法陣ばかりに固執して他の人の視点を見る経験が少なかったのは駄目だった。
それらの本を読んで魔法陣についてもっと美しさを求めたり、合理性を求めたり、不満を持っている人がこのような仕事についていることに気づいた。
俺は今まで自分のために描いてきたから、これからモチベーションになるような魔法陣に出会えるかもしれない。
糸のような細い希望だが、それに縋らざるを得ない。
そう思っていると、紙が引かれた。神村さんが手元を見つめる。
「良く模写できているけど、これ何のためにやっているの」
「自分にはないものを手に入れたいんです」
「それは必要かしら」
「どういうことです?」
俺は首を傾げた。
「私に機械の魔法陣デザインが来ると思う?」
「……ないですね」
来るとすれば女性向けの魔法か、遭ったとしてもカジュアルな日用的な魔法だ。
「そう。だけど評価されている、それは私の興味がそこにあるからよ」
「博識であった方がいいんじゃないですか」
「確かに一つの分野を知るだけじゃ発想も限られる。けど、他の分野を見るときも自分の分野じゃどうやって応用できるかとか考えるわ。どうあがいても自分じゃ他の人に負けるから」
「負けてもいいんですか」
「元々から勝てるところだけ狙ってるからね。短距離走者が長距離に向いているとは限らない」
「って言っても、賞取れてませんか」
「それは後で評価されたじからよ。女性をターゲットにしたものが男性にも受けることってよくあることでしょう。どんなものでも初めは狭いところを狙うのよ。で、なんで模写しているの?」
「……それは、ええと、今の俺じゃ十全な能力を持ってないから」
「なら、描いたら?」
胸に刺さる。確かに他の人たちのことを調べてばかりでろくに書いてなかった。
「描くしかないでしょう。そうしなきゃだめだよ」
チャイムが鳴った。
「あ、じゃあまた後で」
紙を戻して、神村さんは自分の席に戻る。
俺は紙を見つめる。残ったのはただ綺麗な模写をした紙だった。
隣で紬が見ていた。
言葉の通りホームルームが終わってすぐ、俺は神村さんに呼び出された。
呆然するクラスメイトを置いて教室から飛び出した。変な噂が立たないか焦る。しかし神村さんの誘いを断るのも良くない。
向かったのはゴールデンウィークの時の喫茶店だった。夕方時の店内は半分ほど埋まっていた。
窓際の四人席に向かい合って座る。無骨な店主が水と手拭きを置く。「ありがとうございます」と神村さんは軽く頭を下げた。俺も追って礼をする。
お互いにコーヒーを注文して、神村さんから会話を切り出した。
「前々からあなたとは話してみたかった」
「あ、ありがとうございます」
「こちらの失言に関しては謝罪するわ」
頭を下げられた。手を振って否定する。
「いえいえそんな気にしないでください」
とはいえ今のところ目上の人に頭を下げられるのは恐れ多い。
「ずっと話を聞きたかったのはこちらも同じです」
「あなたも?」
顔を上げて髪を軽く整えた。
「何を聞きたい?」
居を正す彼女に俺は咄嗟に思いついたことを言った。
「魔法陣を描き始めたきっかけは何でしょうか」
「父が描いてたからからだと思う」
神村さんは懐かしむように話し始めた。
「父は魔法陣制作を職業としているから、家の中には魔法陣の本がたくさんあった。食事に呼びに行くとき、扉の間から父の制作机が見えたの」
神村さんの父は有名大企業の雇われデザイナーだ。業界でも天願先生と肩を並べるほどのデザイナーだ。企業所属だから名はあまり知れ渡ってないが、独特さや安定感においては天願先生よりも表現が上だ。独立しないのもその安定感のためだ。
「だから魔法陣を作ることは身近なことだったから、物心つくころには自分で描き始めていたんだ」
「向いてないと思ったことはありますか」
「ないかな」
「それはどうして」
「描けたから」
即答だった。
「いわゆる失敗っていうのはあるけど、それでも作品を完成させることはできた。だから失敗っていうよりも反省点の多い作品だととらえて、そこからまた新しい作品を作るってことをやっていたから落ち込むことは少なかったかな」
「困ったり悩んだりことはないですか」
「そこまではないかな。結局自分に何が足りないかわかれば、後は行動に移すだけだから」
俺とは違う。役に立ちたいという願望が、この人にとってはあまり価値のないことだと思った。
恥ずかしい。
「あなたはどうして描き始めたの?」
「自分に合った魔力の魔法陣が少なかったからです」
「今問題になっているよね。ユニバーサルデザインとしての魔法の規模など」
否定もしない。
「魔力が少ないことはどうも思わないんですか」
「魔力差による問題は私も考えている。デザイナーとしても考慮する、もし日常で困難なことがあればやはり言うべきだと思う」
「面倒だとか思いませんか」
「何を?」
「飛空機に一緒に乗れないとか」
「その人と会いたいのだから、その人に合わせるべきだと思う。それに同じことばかりしていては新しい魔法陣を作れないと思う」
首を傾げた。何がおかしいのかと。
乖離だ。お互いに理解できない場所に居るのだと感じた。
「じゃあ、飛び降りしかけるような奴も居ていいんですか」
ぴくっと動いた。
「デザイナーの人には結構居るよ。それで、どうしてそんなことしたの?」
受け入れた。逆に俺は怖くなった。なんでそんなに簡単に受け入れるのか。
言ったからには説明すべきだ。
「もう解決した話です。二年前の話ですが、仲の悪い親戚に引き取られるのが嫌だったんです」
できるだけ感情的にならないように語り出す。
「一歳の時に両親が突然死して、父方の祖母以外誰も引き取らなかったんです。その時確かに自分のことで忙しかったら仕方ないとは思ってたんですよ。でも葬式の時、家の中に踏み入れられて土地狙いで引き受けようとした親戚の意図に気づいて、子どもなので何もできなかったからまあ近所でやりかけました」
「でも今ここに居るってことは、やめたの?」
「前の学校の友人に引きずり上げられました」
「……その後はどうなったの」
「従姉の姉さんが説得して二人暮らしすることになりました」
その結果腫物のような立場になりました。
発見したのは設楽だ。家に帰らない俺を心配して探していたところを見つけて、地面に押し倒して動けなくした。
それから一週間の記憶はない。設楽の話だと、最低限の問答と食事排泄はできていたようだ。
俺も気づいたら一週間たっていて困惑した。従姉さんはそれ以来元気になればそれでいいと何度も念を押したように伝えていた。
一方で当然だが、学校のクラスメイトとの関係は非常に気まずくなった。それまでうまく行っていたわけじゃないが、どう話したらいいかわからないようだ。
だから俺は魔法陣を描くことに集中した。話しかけられるきっかけを減らすためだ。
設楽は心配からか普通に話してくれたり他のクラスメイトとの間を取り持ってくれた。今も連絡を取ってくれるのもありがたい。
高校には別のところに行きたかったが、田舎の高校は範囲が限られる。結局クラスメイトの半数と同じ高校に行って、俺のことを知られたまままた微妙な関係のまま高校生活を送っていた。
近所の人たちもそれなりにやさしく接していたが、あまり踏み込もうとしない。
宙ぶらりんになった気分だった。勿論普通に接してくれる人は居たが、自分から拒絶していた。余計な負担になっているとの懸念が抜けなかったからだ。
神村さんは静かに紅茶を飲んだ。一気に飲んで「はあ」と息を吐いた。
「だから引き取ってもらった従姉のためにあなたは自分の人生を捧げたかったの」
「はい」
自分の人生を送るべきではないと思ってた。
「それは辞めといたほうがいい。仮にやめたとき、その時の失敗やリスクを背負わせたくないでしょ。弟なら尚更。自分のためにってことで、あなたは自責の念を軽くしたかったんでしょ」
「……でも、迷惑をかけたのは確かですよ」
「そう思うなら、まず自分の地盤を安定させた方がいいでしょ。前の学校じゃ人間関係を引きずってたなら、こちらに来たなら〇からになる」
「俺は幸せになっていいんですか」
「なりなさい。傑作を作るのが苦悩だとしても、プロは創作を続けるのが第一。体調や精神疲労は良好が一番な。だから魔法陣のことだけ考えるためにも、他のことは考えなくてもいいくらい幸せになりなさい」
俺はプロになりたいかわからない。
否定の言葉ばかりが浮かぶ。それを言ったところで、結局神村さんは何も変わらない。
俺の事情も内心の動揺は最低限で受け入れた。仕事上、大人と接する機会が多いからか余裕を持った対応をされていた。
俺の生きてきた世界は何だったんだろう。
肩が軽くなったわけでもなく、見知らぬ場所に放り投げられたような途方に暮れていた。
それから会話は続いたが、ろくに答えられた気がしない。知識量、人間としての器量、全ての格の違いを感じるしかなかった。
*
失望させてしまっただろうか。
夜、白紙の前で神村さんのことを思い出す。
言っていることは確かだ。だが、俺にとっては意味死活問題だった。
今まで普通の魔法陣が使えないから自分で作ってきた。
従姉さんがトラウマで魔法を使えないから自分で使える方法を見つけなければならなかった。
そもそも両親が居なくて親戚とあまりうまく行ってない。
未婚の従姉一人と同居だと世間的にも余りいい目をされない。
幸い近所の人や友人がこのことで批判されたことはあまりない。
そもそも金銭的な事情で親戚が誰も引き受けなかったから亡くなった祖母の下に引き取られていた。従姉と別れろと言われても、きっと親戚は引き取らない。
だから自分がしっかりしなければと思っていた。
寂しげに本を読む従姉さんの手伝いをしたかった。
まさか寮に行って別居して、天願先生のつてを頼って自分の夢をかなえると思ってなかった。
今の俺にできることは何か。
『あなたも自分のやりたいことをしてほしい』
電話の最後、従姉さんからの一言だ。
多分俺の方が気を遣っていると思ってたんだろう。
従姉さんは俺を必要としてない。
夢が叶うまでにできることがいくらでもあると思ってたんだけどな。
家に帰って家事をするにしても今は遠いところにいる。従姉さんが気を遣うだろう。
じゃあどうすればいい?
魔法陣が無ければ生きていけないのはわかっているが、正直普通に生きるだけの魔法は今のところ足りている。わざわざ描く必要はない。
神村さんのように困っているわけじゃない人もいくらでもいる。
ぼーっと白紙を眺める。
「……向いてないのか」
最近は頻繁にバスを利用する。交通機関が整う都会では、俺が空を飛ぶ必要はなかった。
別に俺がやる必要はない。
そう思うと力が抜けた。あらゆることは俺がする必要はない。
神村さんは何を期待していたんだろう。
アドバイスはありがたい。きっとそこから立て直さなければもう見切られるんだろう。
流石にどうすればいいかわからなかった。
ドアを叩かれた。
誰だろう。玄関に向かう。半分開けると、そこには紬が居た。
手には紙を持っている。
「ああ、紬か、どうした」
「若澄、すこしいいか」
紙を差し出した。そこには見たことのない丸い円のような欧文書体が並ぶ。
パソコンに取り込んで端は整えてあるが、比率がところどころずれている。
「これは、作ったのか」
「描けといっただろう。だから、描いた。見てくれないか」
頭を掻いた。
「……これはもっと詳しい人に見せた方がいいんじゃないか」
「それはお前が納得してからでいい。見せるだけの自信はない」
「そこまで詳しくないってか、俺はまだかけてないよ」
結局さっき書いたものは、模写したものとよく似たものだった。
完璧なデザインを自分でろ過したら不完全になったのは明らかだった。
それでも紬は引かなかった。
「知識なんて必要ない。不必要な違和感がある時点で、そこは直すべきだ」
紬の顔を見る。俺から視線を外さない。
「……立っているのもなんだから、中に入ってくれ」
扉を開けた。
*
入ってもらってすぐ、見たままの感想を述べた。
「比率がばらばら。印刷した場合のインクの詰めも考えてここはもう少し隙間を広くした方がいい。後はコンセプトが変わらないからかもしれないけど……印象がぼんやりしているからどこで使えばいいのかわからない」
時分でも歯に衣着せぬ感想だと思う。
こういうのははっきり言いなさいと先生が言っていた。だから最後にフォローを入れた。
「ここまで行ってなんだけど、作って凄いな」
紬がメモから顔を上げる。
「ああ、そう」
放心していた。自分のフォントの感想に打ちのめされているようだ。
紙を差し出す。何とか手を伸ばして取った。
「ほかにあるか?」
「俺は全然詳しくない。すまないがこれ以上は言えない」
端の処理とか跳ねの角度とかそこの辺りを語れるほど詳しくない。
そもそもセリフ・サンセリフ体とは違うオリジナルなものだからどこを基準にすればいいかわからない。
円を基調としたフォントは字自体は比率もまとまっていて、近未来感のあるものだ。
紬の細かいところまで見るという性格が出ている。
「ありがとう。思った通りに行かないな」
手に取って持っていたファイルに入れた。
「思った通り……いつぶりに書いたんだ」
「……完成させたのはもう四年ぶりくらいか」
目を逸らしてはあと大きくため息をついた。
「感覚や知識が消えたな」
「当たり前だろう」
「この学園に来てから、Bに入って、Aの連中と比べると実力も何もないと気づいて、それでまた勉強して、結局書かないまま、ここまで来てしまった
実技の授業での紬を思い出す。確かに紬の発表は流暢だが、自分のロゴの作品制作になると気迫は他のクラスメイトよりも弱い。あまりやる気がないというか、足元がおぼつかない様子だった。
天願先生はそこを見抜いていたらしい。
深くため息をついた。
「自分で選んだ環境なのにな、勝手に自意識が肥大化していた」
「いまはどうなんだ」
「気が晴れた。全然だめだけどな」
力なく笑った。ただどこか安心したようだった。
「でもやりたいことはひとまずできた」
「どういうコンセプトで描いたんだ」
「文化の再興だ。昔使われていた行書体をパソコンで使えるようにできないか、書いてみたんだ」
「……凄いな」
「もっと凄いものなんていくらでもある。Trajanは役二千年前にトラヤヌスの記念柱に使われた碑文に倣った文字だ。この文字は欧文文字の最高傑作と呼ばれている」
「そうなのか」
全然知らなかった。魔法陣の元となるロゴやサインの歴史についてはあまり知らない。
「一度人間界旅行で見たことがあるんだ」
「ギリシャに行ったのか!?」
「ああ。小学六年生の時にこの目でパルテノン神殿を見たんだ」
「どうだった」
「二重の意味で時が止まっていた。衝撃で俺の時も止まっていて、文字の印象も古びないままだった。昨日掘られていてもおかしくないほどだった」
「……理想的じゃないか」
魔法陣デザインにしても、長く求められるには『もともとからそこにあったようなデザイン』が最高のものだ。
真新しさも、古臭さでもなく「そういえばあるな」と思うような馴染みのあるものの新しいデザインが求められる。
「ああ。本当にそう思った。二千年も前の異国の作品に感動できる、とても素晴らしい体験だった」
「文学と普通の文字を比べるのは少し違うんじゃないか」
「それはわかっている。GODYVAや高級ブランドで用いられるデザインだからこそ受け入れられた一面もある、だがそれが今の時代でも共通の印象を持つことができる。それこそ理想じゃないか。他の書体でも大正時代の字体をフォントとして作り直したり、数一〇〇〇年前に使われていた書体を組み合わせて新しい文字を作り出すことができる。全く新しいものだけでなく、古の文化に触れて復刻することができる。素晴らしい仕事じゃないか」
熱が入ったようで早口で語る。
フォントが本当に好きなんだな。
「だから俺はああいう文字を作りたいんだ。逃げて、知識を身に着けることに満足して逃げていた処から次に行かないといけない」
「……何故そう思う」
目的を見失った俺と比べたら、今の彼は輝いていた。
「若澄達と連れて動くようになってからだ」
「俺?」
「……いや、俺が動いたんだ」
「そういえば話しかけてきたな」
「ああ。若澄が現われて、神村さんに対抗心を抱かれる奴と行動すれば俺も何か魔法陣で見つかることがあるかもしれないと」
「今までは違うのか」
「勉強ばかりして制作から逃げていたな。去年はAに入ることばかり考えて勉強していた。それでいいと思ってたんだが、もう逃げきれなくなった。だから自分から変えたかった」
「だからあんな不自然な」
「反省している。こっちに来てからあまり人と話してなかった」
納得した。何を考えているかわからなかったが、離してみると普通の高校生だ。
「最近苛立ってたのって、中々思いつかなかったからか」
「そうだな。プロのフォントデザイナーの人は文字に教えられるって言ってたんだが、力及ばずで教えられることばかりだ。ただ、楽しかったな」
「昔とは違うか」
「ああ。手法を知っているから、うまく行かないが色々試すのは面白い」
紬はいい顔をしていた。
「この後はどうするんだ」
「戻って描き直す。その時はまた見てくれるか」
「……ああ」
こう言う。俺は紬の夢の一助になっている。
じゃあ俺は?
「なあ紬」
「なんだ」
「お前の目標ってあるか」
「フォントを完成させて、広めることだ」
「……他の人のフォントとかぶったり、必要とされないとは思わないのか」
「パクリかは他の市場調査をするしかない。他は、今後時代も変われば必要な文字も変わる。価値観が変わっても、文化がある限りは文字は必要とされる、その感性は磨き続けるしかない」
「感性か」
「俺はお前と違って凡人だからな」
「俺も凡人だろう」
「いや、俺はお前の魔法陣を描けない」
突然の誉め言葉に驚く。
「そう?普通に誰でも描けそうとか言われるけど」
「だれでも描けるなら、何故誰も描かなかったんだ」
「需要が無かったからか?」
「今周りの連中は使ってるじゃないか」
「じゃあなんで誰も描かなかったんだ」
「誰も必要だと思わなかった、それだけじゃないか」
紬はため息をついた。
「描いてわかったよ。結局形にしなければ誰も評価できない。お前が簡素な魔法陣を描いたから評価をするようになった。それだけの話だ」
「楽をしているとかじゃないのか」
「流行でもないところから新しいものを作り出せるのは十分個性だろう。楽をしているなら、天願先生が真っ先に気づく」
「……そうだな」
紬の言う通りだ。あれを書いた時、人にあげるものだからこそ妥協しなかった。
今はどうだろう。
つい、自分から問いかけていた。
「紬」
「なんだ」
「俺は、魔力が人の十分の一しかない。それでも魔法陣を描き続けててもいいと思うか」
面食らったように驚いた顔になる。いつも冷静な紬には珍しい。ただ、すぐにいつもの朴念仁のような顔に戻った。
「なれるだろ。俺は、魔法陣だけを描いてるといつも泣きそうになる。お前はある?」
「……ないな」
「それも才能だ。魔力の量じゃない」
本質だった。紬ができないことが俺にできる。それも才能だった。
紬には申し訳ないが、やはりまだ一歩踏み出すことができなかった。
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