第4話 序幕④ 素朴で小さな村にて
「コル、お前さっきからなに見てんだ?」
村外れの空き地は子供達の遊び場だ。
豊かな森と汚されていない小川に囲まれている。
この辺りの森には危険な魔物も生息していないため、大人たちも安心して子供達を自由に遊ばせている。
ボール蹴りで遊んでいた少年の一人が、コルが覗き込んでいた飴玉のようなガラス細工に興味を持つ。
「これはな、さっきせんせーのところで拾ったんだ。」
切り株に座りながらコルは少年にガラス玉のことを説明する。
「じゃあ、せんせーのじゃん。返して来いよ。」
「違うよ!落ちてたから拾ってきたの!そしたら俺のもの!!」
「はぁ?」
自分のものだと主張するコルの理屈が理解できない少年は、コルに元の場所に戻すようにと説得しようとする。
「それ、盗んだってことだろ?そんなことして良いのかよ!おい、みんなー!コルが…」
「へ、変な言いがかりはよせよ!これはもう俺の!!いらないから落ちてたんだよ!だいたい…お前にこれがなんだか分かるのかよ!」
「いや…わからないけど…」
分からなくても人様の物を盗むことが悪いということは分かっている。
ここの村人たちの道徳心はよく鍛えられていて、善悪の識別が正しく認識できている。
大人から子供へ、代々受け継がれる大事な教えだ。
しかし、コルはそんなこともお構いなしに自分を善とし話し始める。
「これはな、せんせーみたいになれる薬だ。せんせーはよくこれを朝に食べてるのを見たことがあるんだ。きっとこれは強くなるための大事な薬だ。これを食べればせんせーみたいに色々な魔術が使えるようになる!」
強くなることを諦めたわけではなかった。
村を出ることを反対はされたが、自分の力量が認められれば、きっと父親も母親も喜んで外の世界に出してくれるだろう。
コルにとって、これは希望の塊だ。まだ未ぬ世界にきっと連れて行ってくれるだろう、と信じていた。
「でも、それ…ガラスだぞ?そんなん食ったら口の中が痛くなって、胃の中が切られちゃうかも知れないぜ。」
「う……で、でも、きっとせんせーは不思議な魔力でこのガラスの部分を解いて、中の赤い部分だけを食べてるんだ。これをどうやって解いたら良いのか…」
と、考え込むコルに呆れた少年は、彼を置いて他の仲間とボール遊びに行ってしまった。
「とりあえず…壊してみる!!」
ガラスで出来ているのなら、ガラスを砕けば良い。
コルはそのガラス玉を思いっきり地面に投げつけてみた。
母親が不注意で皿を地面に落とした時は激しい音を立てて割れる。だったら同じようにこれも割れるだろう、と考えての結果だった。
しかし、地面にありったけの力を込めてぶつけたにも関わらず、そのガラス玉は傷一つ付くことなくコルの足元をコロコロと転がるだけだった。
「なんだよ、これ…ガラスじゃないのか?」
握り締めてみる。割れない。
足で何度も踏んでみる。割れない。
石に向かって投げてみる。割れない。
石と石の間に挟んで砕こうとしてみる。割れない。
日光に当ててみる。割れない。
何回も色々な角度で方法で、と試してみたが一向に割れる気配はない。
「やっぱ魔力ってやつが必要なんかなー?」
コルが頭を抱えて座り込むこと数時間、日は段々と暮れてくる。
子供の飽きが来るのは早い。
あんなに虜になっていたガラス玉が今はただの石ころのように見えてくる。
なんでこんなに悩んでいたんだろう、と虚しい気持ちにもなってきた。
こんなに悩んでも試しても結果が出ないのだったら、何をしても無意味だろう、と結論づけたコルは『やっぱり明日、返しに行こう』…とガラス玉を右手に握り締めて立ち上がった。
「おーい、コルー!まだそんなところいたんかー!帰ろーぜー!!」
「今、行くよ!!」
一日中、他の友達とボール遊びをしていた少年が、遠くからコルのことを呼ぶ。片手にボールを持って、手を振る少年にコルは駆け寄ろうと、一歩だけ足を踏み出した…
その時だった。
さっきまで夕暮れだったはずの太陽が急に雲に隠れたように辺りが真っ暗になった。
「え…?」
と、同時にコルに手を振っていた少年が悲鳴を上げる。
何が起きているのか分からないコルの上を生暖かい空気が流れた。
恐る恐る顔を上に向けると、そこには見たこともない真っ黒いドラゴンが大きな口を開けて襲い掛かろうとしていた。
「ひっ…!!う、うわああああああああ!!!」
安全な森のはずだった。
父親にも母親にも、この村はどんな魔物にも襲われたことがない安全な村だと教わった。こんなのがいることは…聞いていない。
コルのことを呼んでいた少年は一目散に村に向かって逃げていったようだ。この場にいるのはコルとこの大きな黒龍のみ。絶望を目の前にコルは何も出来ずにその場にぺたりと座り込んでしまう。足が震えて歩けないのだ。
刹那、何かが自分から離れた気がした。いつも横にあったのに、急に物足りなくなったのだ。何が…感覚が…なくなった…。
そう、右腕の…。
「あ、ああああああ!!」
黒龍がコルの腕を切り裂いたのだ。
一瞬の早さに目が追いつかなかったが、横にゴロリと落ちた自分の腕と止めどなく流れる血を見て状況を察する。
コルの腕を切り裂いた黒龍は、爪をペロペロと舐めて満足そうに舌なめずりをした。
「い、痛い、痛い、痛いよおおおお!!母ちゃ…!父…ちゃ…!」
追い討ちをかけるように黒龍は、コルの体を片腕で押しつぶす。
ギリギリと音を立てて、コルの体が地面に沈んでいく。
「せんせ…せんせーー!!助けてよー!!!!」
コルは最後の力を振り絞り、金切り声を上げる。
体をジタバタさせると黒龍は動くなと言わんばかりにさらに力を込めて、握り潰すようにコルに圧力をかけていく。
ミシ、ミシミシ…とひたすら体が悲鳴を上げる。壮絶な痛み、絶望…。視界が段々とぼやけてくると、最後にどこかでボキっという音が聞こえた。
気づくと、コルはその場でピクリとも動かなくなった。
静かになったそれを確認した黒龍は、爪先でそれを拾い上げる。
大きな口を開いて、飲み込もうとしたその時…
「せんせー!!ここ、こっちだよ!!」
と、更に子供の叫ぶ声が聞こえてきた。
近づいてくる足音に何かを感じた黒龍は、飲み込もうとしたそれをヒョイっと投げて臨戦態勢に入る。
が、それは相手も同じだった。
黒龍が黒い息吹を吐き出そうとした瞬間、大きな水しぶきが黒龍に襲いかかる。
「コル!!無事か!!??」
コルのことを気にかけていた少年が、ニースを連れてきたのだ。
必死に足を動かして診療中のニースを無理やり引っ張りここまで連れてきた。
が…時すでに遅し。
少年の目には黒龍の脇に投げ捨てられた血だらけのコルの姿が映る。
「こ、こ、コル…!!」
「やめろ!近づくな!!」
これは現実ではない。
きっとまだ生きている。
そう信じた少年はコルに駆け寄ろうとするが、ニースにそれを遮られる。
「村へ戻れ。こいつは…俺が相手する。」
そう言うとニースはいつも羽織っていた白衣を脱ぎ捨て、黒龍相手に怖気づくことなく真っ直ぐな瞳を向ける。
「コル…」
微動だにしないコルを瞳の端に置く。
多分、もう息はしていない…。
ニースをここまで連れてきた少年は、にじりにじりと距離を取ってニースの邪魔にならないようにゆっくりと離れていく。
小さくため息をつき、ニースは一旦心を落ち着かせる。
敵は黒龍一体のみ。
自分より身長は3倍程度。
黒い炎による中距離、遠距離攻撃。
近接攻撃は爪に鋭く尖った歯…。
理性は飛んでいない。
相手を識別できる能力があるようだ。ある程度の知能もある。
「だが…勝てないわけではない。」
ニースはふっと笑った。
先手は黒龍。
先ほど吐き出そうとした黒い息吹を再度ニースにぶつける。
ニースがくいっと指を操ると、何もない地面から大量の水の柱が目の前に現れる。水柱で黒い息吹の勢いを弱め、それを大きな盾とする。水柱のせいで黒龍にニースの位置を認識できなくなったので、攻撃のタイミングを狙いニースは水柱から体ごと黒龍にぶつかっていく。
驚いた黒龍は長く鋭い爪で反撃を取ろうとするが、ニースの水の魔力で黒龍の攻撃は弾かれてしまう。ニースは水をドリルのように腕に纏わせる。
彼は黒龍の腹目がけてそれを突き刺そうと攻撃する。
「…もらった…!」
が、黒龍はニヤリと笑い、体ごと回転させて槍のような尻尾を振り回す。
「ん…が…!!」
振り回した尻尾の切っ先がニースの腹にグサリと突き刺さる。そして、黒龍の尻尾がニースの体を突き抜けた。
「がはっ…」
ニースは口から血を吐き出す。残酷な黒龍は歯向かってきたニースをぶんと尻尾から投げ捨てる。
「せ、せんせ…?」
ニースはぐちゃっと言う音と共に地面に吐き捨てられた。
途端、先ほどまで勢いよく溢れ出ていた水柱が解け、パラパラと雨に変わる。雨は辺り一帯をしとしとと濡らし、ニースの血が大地と交わる。
動かなくなったニースを見た少年は目を大きく開けて、口をパクパクとさせた。
まさか自分が連れてきた相手が…死ぬことになるとは思わなかった。
黒龍は次の獲物に目を付ける。
一番近くにいる…この少年だ。
ぐわりと大きな口を開けて、先ほどと同じ息吹を当てる準備に取り掛かる。邪悪な色が辺りを染め上げる。
「コル…せんせ…嘘、だろ?」
黒龍が少年に狙いを定め、大きな息吹を吐き出そうとしたその時…
「大丈夫。嘘にしてやるから。」
と、聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
少年がその声の方向に目を向けると、先ほど黒龍に体を貫かれたはずのニースの姿があった。
体は血みどろだが、信じられないことに傷ひとつない姿で…黒龍の横に立っていたのだ。
「おい、黒龍。一つだけ教えてやるよ。…俺は…」
ニースは大きな水球を黒龍の上に作り、水の圧力で黒龍の体をねじ伏せる。
それは先ほどコルが襲われた時と同じようだった。
ミシミシと音を立ててゆっくりと黒龍の体に圧力を加えていく。
「死ねないんだ。」
グッと拳に力を込めると、黒龍はパンっと音を立てて弾け飛んだ。
黒龍の四肢はもげ、頭部はごろっと転がり、少年の前で止まった。
「っひ…!!」
先ほどまで生きていた黒龍が目の前に飛んできたことに驚いた少年は叫び声を上げる。
「悪い、悪い。変な方向に飛んじまった。」
平然とした顔で黒龍の頭をヒョイっと持ち上げニースは少年に笑いかける。
黒龍の頭を横に投げ捨てて、ニースは少年の横に落ちていた自分の白衣を拾い上げる。
黒龍に貫かれたせいでニースの服の腹と背の部分は丸くくり抜かれていた。
「せ、せんせ…どうして?どうして生きてる…の?」
聞いてはいけない質問のような気がした。
でも不思議でしょうがない。確かにあの時ニースは死んだ。あんな状態で怪我一つなく生きているのはおかしい。
「それを知ったら…俺はお前も殺さなきゃならなくなる。……それでもいいか?」
パンドラの箱を開けたような気分だった。
少年はこれ以上何も聞きたくないと首を横にブンブンと振った。
「そうか、それは賢明な判断だ」と呟き、ニースはバサリと白衣を羽織った。
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