第一章 婚約からはじめる二人の恋④
週に一度の、エミーリアとマティアスが会う日がやってくる。
ふわりと
「お久しぶりです、陛下」
「君からの手紙が毎日届くので久しぶりという感覚はないんだが」
トゲがあるマティアスの声に、
(……でも手紙を読んでくださったのね)
たったそれだけのことに、エミーリアはほっと胸を
たとえ報告書ほどの厚みがないごく
「……申し訳ありません、陛下とはこうしてお会いできる機会も限られておりますから、少しでもわたくしを知っていただきたいと思って手紙にしたのですけど」
エミーリアは静かに目を
マティアスに
「……ご
せっかくマティアスに会えたというのに気分が
そんなエミーリアを見て、マティアスは言葉選びを
女性はたやすく表情を変えることができる。嘘の
だからどんなに泣きそうな顔をしても、それを素直に信じるわけにはいかない。少なくともマティアスとエミーリアの間には、彼の不信感を
「……迷惑とは言っていない」
悩んだ末に、とにかくそれだけは伝えておかねばとマティアスは重い口を開いた。
その言葉にエミーリアは顔を上げた。しかしマティアスの
「ですが、手紙は読むのも手間でしょうし」
社交辞令だと思ったのだろう、エミーリアは結論を変える気はないようなので、マティアスはさらに付け加えた。
「あの程度の長さなら仕事の合間に読んでも
エミーリアは再び顔を上げて、今度はじぃっとマティアスを見つめた。大きなペリドットのような瞳に、マティアスはたじろぐ。その瞳は
「……では、また送ってもよろしいですか?」
マティアスをまっすぐに見上げて、エミーリアが少し
拒む理由はない。
「……好きにすればいい」
よかった、とエミーリアは
だからこそマティアスは
「そうだ、先日お話ししたチョコレートを持ってきたんです。お口に合うといいのですが……」
そう、問題なのはそのチョコレートだ。
「……君は知っていたのか、それとも知らなかったのか」
ぽつりと
「申し訳ありません、なんのお話でしょう?」
エミーリアの表情からは、マティアスには嘘をついているのかどうかわからなかった。政治に
「……チョコレートは、
「びやく……?」
大きな目を丸くして、エミーリアはオウムのようにマティアスの言葉を
そして
「え、あ、し、しらな……あの、その……! た、他意はなくて、だってわたくしが以前に食べたときはぜんぜんそんなこと……!」
「も、申し訳ございません、これは持ち帰ります……!」
ぐしゃりと
「あー……えーと、そんなに強い効果があるもんが大っぴらに売られているわけがないですし、そんな許可も出してないし、食べても問題ないとは思いますよ」
見かねたヘンリックが割り込んできた。
もしそんな効果を望んでマティアスに食べさせようとしたのなら問題だが、エミーリアがそんなことを考えてもいなかったのは一連の流れで明らかだった。
「え……えっと」
「失礼。申し
さすが色男というべきだろうか、混乱するエミーリアの手を取るとその指先に口づけながらヘンリックは
「……先日もいらっしゃいましたね、ヘンリック様。こちらこそ陛下の
ヘンリックが間に入ったことで、エミーリアも平静さを取り
「せっかく陛下のために持ってきてくださったんですし、頂きましょうよ、ねぇ陛下?」
「え、ああ……」
「で、ですが。潰してしまったので中身が無事ではないかもしれませんし……」
チョコレートが入っている紙袋はぐしゃぐしゃだ。中のチョコレートは箱に入っているとはいえ、どうなっているかわからない。
「シュタルク
「おまえはもう少し言葉を選べ」
「無口な陛下よりマシだと思いますけどねぇ」
いつの間にかヘンリックはエミーリアからチョコレートの入った紙袋を受け取ってテーブルに置き中身を確認している。
「ああほら、平気ですよ。箱が少し潰れたくらいです」
「そ、そうですか……」
エミーリアは
(陛下の前であんなに取り乱すなんて……!)
勝手に袋から箱を取り出したヘンリックは、エミーリアが口を
「うわ、あまっ」
チョコレートを食べてすぐに、ヘンリックはその甘さに声をあげた。彼が食べたのはミルクチョコレートだ。甘いものが好きではない男性には甘すぎるだろう。
「それは一番甘いチョコレートです」
「だ、そうですよ。どーぞ陛下」
おじゃま虫のようなヘンリックの行動も、エミーリアは
おそらくヘンリックなりの
「……甘いな」
ミルクチョコレートを食べたマティアスがぽつりと
「
「あ、俺はアーモンドのが好きですね」
どのチョコレートもヘンリックがひとつ毒味をしたあとにマティアスが食べる。
「……陛下はたくさん
ぱくぱくと、マティアスはチョコレート以外にもたくさんのお菓子を食べている。それを見ているだけでエミーリアはお
「いやいや、陛下はめんどくさがって昼食を食べなかったから、代わりにお菓子を食べているんですよ」
時間が
「ヘンリック、うるさい」
「だって本当のことでしょ」
ヘンリックと話しているマティアスは少し気安く、エミーリアと二人で話していたのでは見せない表情をする。エミーリアはそんな二人のやり取りを見るのが楽しかった。
「……ご
あまり口うるさく言うのは
「そうですねぇ、こんなに
にやにやと笑うヘンリックの
「ふふ、ヘンリック様は
しかしエミーリアはといえば、平然としてゆったりと
「おやおや、良い噂だといいんですが」
「お聞きになります?」
「イイエ。
「シュタルク嬢は
「読書が多いです。ロマンス小説などをよく読んでいて……」
エミーリアの声がだんだんと小さくなった。話してしまってから子どもっぽいですよね、と恥ずかしそうにしている。
(ヘンリック様と話しているとつい話しすぎてしまうから、もう少し気をつけないと……)
ただでさえマティアスとは十歳も
「あとは、そうですね……
これは
「さすがシュタルク家の
感心するヘンリックに、エミーリアは「そんな」と首を横に
「完璧なんて、
(……あら?)
甘すぎるだろうと思っていたミルクチョコレートの減りが早い。量はどのチョコレートも同じだったはずなので、並べて置いてあるとその差ははっきりと見てわかる。
同席しているヘンリックはあまりチョコレートに手を
つまり、エミーリアが気づかないうちにマティアスが
(……本当に甘いものがお好きなのね。それにしても……)
ううーん、とエミーリアが
「陛下。せっかくですし、シュタルク嬢を温室にでも連れて行って差し上げてはいかがです?」
(ええ!?)
ヘンリックの
確かにマティアスと二人でゆっくり話す時間はほしい。そうすればもう少し
しかしマティアスはなんでそんなことを言い出すんだ、という顔をしている気がする。
「いえ、その、陛下もお
「それほど疲れてないでしょ、お
「……それもそうか」
チョコレートが気に入ったらしいマティアスはしぶしぶといった様子ではあるものの、腰を上げる。エミーリアは突然の展開についていけずにマティアスとヘンリックを
「俺も護衛としてついていきますけど、後ろに
そう言いながらヘンリックがエミーリアの椅子を引く。
温室の中では色とりどりの花が
「温室ではもう
「この中は年中花が咲いているからな」
そうなんですか、とエミーリアが小さく
(……ど、どうしたらいいのかしら……陛下との会話が全然続かない……!)
「さ、最近は暖かくなってきましたし、これから温室の外もたくさん花で
「春だからな」
エミーリアが話しかければマティアスは
(今までもヘンリック様経由で会話していたようなものだものね……)
「そういえば、チョコレートにあんな効能があるなんて知りませんでした。うちの
「あれは南国原産のものだから、王立図書館くらいにしか
「そうなんですね。王立図書館にはよく行っているので、今度探してみます」
勉強のためには王立図書館が何かと便利だったので、エミーリアは
「王立図書館に? ……よく行くのか?」
「はい。週に一、二回ほどは通っております」
王立図書館は王城の一角にある。王城の中でも
(あ、言わないほうが良かったかも……)
マティアスとの会話が続いたのが
父にも図書館通いはあまりいい顔をされない。王妃になるために必要だからと理由をつけてどうにか
「変ですよね。父にもよく言われるんです。『おまえはちゃんとしていれば完璧なのに、ときどきとんでもなく変わっている』と」
エミーリアは口早にそう告げる。マティアスの口からは、否定の言葉を聞きたくなかった。
本来ならばもう少し先の時期に咲くはずの花だ。こうして人の目を楽しませるために、ここの花は管理され計算され、望まれたように咲く。それがエミーリアの目には
「……温室の花のように、望まれる形で咲けたらいいんでしょうけどね」
貴族の
親や周囲の理想の娘になるために、整えられた
──エミーリアが、完璧な令嬢ではなかったら。
思わず暗い思考に落ちかけて、エミーリアは首を横に振った。
(陛下に変なことを聞かせてしまったわ)
こんなことを話すつもりじゃなかったのに、と話題を変えようとエミーリアがマティアスを見上げた時だった。エミーリアが
「温室の花だって、望まれたとおりに咲いたわけではないだろう」
え、とエミーリアが小さく声を
「植物だって人間だって、思い通りになんて育たないものだ。花にはこちらの
「……でも、思い通りに咲かなかったらがっかりしませんか?」
エミーリアは小さく呟いた。周囲の願うように、理想のとおりにならなくてもいいと告げるマティアスの言葉に、エミーリアは
だってそれは、育ててくれた人たちへの裏切りになるんじゃないだろうか。
「温室の花が咲けるのは、庭師が環境を整えてくれたからです。それなのに……」
こうして令嬢としての自分があるのは、それだけ
「どんなに良い環境にしたところで、
何気ない口調で、けれど迷いなく告げるマティアスにエミーリアは
「……大事なのは、花が咲くことができたという事実だけだ」
「それだけ、ですか?」
思わずエミーリアは問いかけた。だって、咲いただけなのに。
「どんな形でも咲くことができたなら、それはもう十分期待に応えていることになると思うが」
大切に育てた花が咲かなければ
それに、とマティアスは続ける。
「人間でも同じことだ。望まれたように成長しようと、少し変わっていようと、それはその人の
その声はとてもやさしかった。マティアスは
(……望まれたままの
そんなこと誰にも言われたことがない。
だってエミーリアはずっと、完璧な令嬢ではない自分では
しかしマティアスはどちらのエミーリアも否定しない。それは魅力だと、個性なのだと認めてくれる。
他でもないマティアスがそう言ってくれるだけで、厚い雲に覆われていた空が晴れていくような気がした。マティアスの言葉を
「……ありがとうございます、陛下」
「礼を言われるようなことは言っていないが」
本気でそう思っているらしい顔に、エミーリアはくすりと
「それでも、ありがとうございます」
重ねて告げるエミーリアに、マティアスは不思議そうな顔をしながら手を差し出した。
「……そろそろ
「はい」
マティアスの手をとり、エミーリアは温室の花を見回す。今は
「こうして考えてみると庭師と王の役目は似ているのかもしれないな」
「……庭師と陛下が、ですか?」
歩きながらぽつりとマティアスが零した。その言葉にエミーリアは首を
「国を
「民がより
「ああ、この国に色とりどりの花が
マティアスのまっすぐな
「とても、
エミーリアは頷きながら、微笑んだ。
できることなら、色とりどりの花が咲く未来のこの国を、マティアスの
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