第一章 婚約からはじめる二人の恋③
婚約発表の夜会の翌日。
エミーリアは友人のデリア・リーグルの
そのうつくしい庭で二人だけのお茶会をするのがエミーリアとデリアの楽しみだった。気心知れた友人とのお茶会は貴重な息抜きなのだが、今日のエミーリアはそれどころではない。
「落ち着かないって感じね、エミーリア」
「そ、そんなに顔に出ているかしら?」
ふにふにと自分の頬を
「いいえ。いつもどおり、完璧な
「だって、だって! 昨日の陛下を思い出しただけで心臓が
昨夜の夜会での「そばを離れるつもりはない」発言でエミーリアの心の中には
ロマンス小説のワンシーンのようで、すごくどきどきしてしまった!
「順調みたいで良かったじゃない」
「
「そうなの? まぁ陛下は社交的な方ではないし、
「……やっぱりそう思う?」
マティアスのたった一言で浮かれていた心も、デリアの言葉で平静さを取り
「陛下はかなりの女嫌いって噂もあるし。本当かどうかはわからないけど」
「昨日も、陛下との会話が盛り上がったりしたわけではないのよね……」
エミーリアはしょんぼりと
侯爵令嬢と話している時のマティアスは不機嫌そうだったが、エミーリア自身は
おそらく、マティアスはエミーリア自身にはあまり興味がないのだ。
「陛下ともっと
はぁ、と
「仲を深めたいなら相手のことを知るべきじゃない? 好きなものとか、嫌いなものとか」
「それもそうね……だとしたらまず陛下の好みの女性のタイプとかも調べないとダメかしら。好みに近づく努力くらいはしたいし……」
しかし
「身近な人に聞いてみればいいじゃない。……たとえばほら、ヘンリック・アドラーとか」
「ヘンリック……? ああ、
デリアの提案に、それは名案だとエミーリアは
「……でも近衛騎士がいるということは陛下も
そもそもヘンリックはマティアスの近衛騎士だから一緒にいるわけで、エミーリアと二人きりで会って話す機会なんてない。エミーリアにもヘンリック個人をわざわざ訪ねるような理由はなかった。
「まぁそうなるわね……そうだ、好かれているかどうかわかる手っ取り早い方法はあるわよ」
「そうなの? そんな
きらきらと目を
「簡単よ、相手に
(抱きついてみたら……?)
すぐに理解できなくて、デリアの言葉をゆっくりと頭の中で
「そ、そんなことできるわけないじゃない!」
「でもわかりやすいらしいわよ? 好意を持っているなら邪険には扱われないし、相手によっては
(……陛下に嫌がられたりしたら、わたくし立ち直れないかもしれない……)
嫌われてはいない、と思う。かといって、マティアスに好かれているとはとても思えなかった。物語のようにうまくはいかないものだ。
(気安く触れたりして、ふしだらな女だと思われたりしないかしら? 小説ではどうだった?)
……これは家で秘蔵のコレクションであるロマンス小説を読み返してみなければならないかもしれない。
◆◆◆◆◆
「……何をどうしたらあれが
マティアスはエミーリアから送られてきた手紙を片手に呟いた。
届いた手紙にはいつものようにエミーリアの日常のことなどが
「いやー夜会の時のシュタルク嬢はまさしく完璧な令嬢って感じだったなぁ。堂々としていて」
「それがなんであんな
「そっちが
マティアスが不思議そうな顔をしていると、ヘンリックは笑いながらマティアスの読む手紙を指さした。
「次に会うときにチョコレートを持っていく、と」
「そういえばそんなこと言っていたな。でもさ、知っているのかな? それとも計算?」
「何がだ」
ヘンリックの意味ありげな言葉に、マティアスはわずかに
ヘンリックは、おまえには
「チョコレートって、
「……媚薬?」
──媚薬。
それは、マティアスにとってあまりいい
思い出しても苦々しい。あれは、十七歳の冬──マティアスがまだ王子だった
「ねぇマティアス! あなたもそろそろ婚約者を決めるべきじゃない?」
類は友を呼ぶという言葉どおり、姉の知り合いの令嬢というと
しかし、その中にもまともな令嬢はいた。
ふわりと微笑む姿は
「
──せめて、私と一緒にいるときくらいは気を楽にしてください。
一つ年上の彼女はそう言って微笑んだ。王太子としてのプレッシャーに押しつぶされ
甘いものを好むマティアスに「疲れている時には甘いものがいいんですよね」と言ってくれたし、
令嬢と知り合って半年近く
『殿下に相談したいことがあるので、二人だけでお話しできませんか』
手紙には二人きりで会うための部屋の場所も書いてあり、マティアスは
その日は朝から
「来ていただいてありがとうございます」
ほっとしたように微笑みながら彼女はマティアスにお茶をすすめた。
「それで、相談とは?」
「……実は私、このままでは会ったこともない男性と結婚させられてしまうんです」
「それは……
幼い頃から婚約者がいたのなら話は別だが、そうでないのなら顔を合わせないまま結婚というのは珍しい話ではない。
「でも相手は二十四歳も年上の人なんです。親は成果がないならそろそろ結婚しろと……」
「──成果?」
そんな話をしていただろうかとマティアスは首を傾げた。令嬢はマティアスのその反応に苦笑いを
「そうです、成果。成果が、欲しいんです」
こちらを見上げて微笑む令嬢の声はどこかねっとりとしていて、マティアスは反射的にその手を
「なんの話だ?」
「あなたと私の話ですよ」
マティアスが
「私、ずっとずっと
「だから、手段なんて選んでいられなかった。……ねぇ殿下、身体に異変はありませんか? 熱くなったりしてきましたよね……?」
今度は細い指がマティアスの
「殿下……?」
マティアスに拒絶された令嬢は、目を丸くしている。どうして
「相談とは
「そんな……ちゃんと紅茶を飲みましたよね!? どうして効いていないんですか!?」
平然としたマティアスの顔を見て、令嬢は再び声を荒らげる。効いていないという言葉に、マティアスはより表情を
それはつまり、何か身体に異変が起きるものを飲まされたということだ。
「何を盛った……!?」
「どうして!? こんなはずじゃなかったのに!」
「だって、
そう答えながら、令嬢は目を見開き、食い入るようにマティアスを見つめていた。
その表情に、マティアスは声を出せなかった。
自分が見てきたものはすべて
「──もう、令嬢を紹介するのをやめてくれ」
もともとあった熱が上がって、その
姉と同じように見舞いに来た
「ねぇ、マティアス。こんなことがあったけど、いつかあなたにだって愛する人ができるわ」
そうだろうか、とマティアスは思った。マティアスにはとてもそうは思えなかった。
けれどもし。
「……もし、いつか俺が
でもそんな人はいない、とマティアスは思っていた。
自分は恋なんてしないし、心の底から愛することができる人も現れるはずがない。マティアスが王子であり、国王になるという未来がなくならない限りは。
この事件はひっそりと処理され、
しかしマティアスの心には深い傷を残し、忘れることのできない記憶になった。
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