第一章 婚約からはじめる二人の恋①
アイゼンシュタット王国の長い冬も終わり、ようやく少しずつだが春のあたたかさを感じるようになった日のことだった。
父であるシュタルク
エミーリアはぱちぱちと瞬きをし、父の言葉を頭の中で繰り返したあとで、息を細く長く
(……わたくしったら、ぼうっとしていたのかしら)
空耳。聞き
「……申し訳ございません。お父様、もう一度おっしゃっていただけますか」
けれど、いつものエミーリアなら聞き返したりはしない。彼女は言われたことは絶対に忘れなかったし、特に父の声は聞き間違えないようにと常に神経を
今だって、きっと、おそらく、聞き間違えてなどいないのだと思う。……ただ、信じられなかっただけで。
「
「わた、わたくしが、ですか?」
「何を
シュタルク公爵家の次女エミーリア・シュタルクといえば、社交界でも
「およそ一年は婚約期間となるが、国をあげての
結婚式は来春になるという。まだ一年あるともいえるし、もう一年しかないともいえる。
国王の
いや、それよりも。
「……一年」
「たとえおまえに不服があろうと、もう決まったことだ。
「ふ、不服などありません」
あるはずがない。
貴族の娘なら
「一週間後には婚約者として初めて陛下と顔を合わせることになる。そのあとには婚約発表だ。おまえもしっかりと準備しておきなさい」
「はい」
エミーリアはうつくしく淑女の礼をすると、書斎から退出した。
完璧な令嬢たるエミーリアは
けれどほんの少しだけ心が浮き立つのは、エミーリア自身にもどうしようもなかった。
◆◆◆◆◆
アイゼンシュタットの王城では、ようやく国王の婚約者が決まったことで
なんといっても相手はあのエミーリア・シュタルクだ。自分の娘を王妃にと
「……めんどくさい」
この一時間後、婚約が決まって初めてのエミーリアとの顔合わせが予定されていた。
だからこそマティアスは渋い顔をしていた。そんなことに時間を
「そう言うなよ、おまえはもう二十七歳だろ? 周りにしてみりゃそろそろ嫁さんもらって
おわかり? とマティアスを
「跡継ぎの必要性は理解している」
「必要性っておまえなぁ……」
なんとも色気のない回答だ。
ヘンリックとしても愛だの恋だのと夢を見ているわけではないが、国王であるマティアスがここまで自分の結婚相手に興味がないというのも問題である。
「どうせ政略結婚だ。相手も王妃になりたいだけの女だろう?」
は、と
マティアスは少し──いやかなり、女
「いやいや……シュタルク嬢はそういうタイプではなくない?」
ヘンリックもエミーリアと親しいわけではないが、その姿を見かけたことは何度もあるし、彼女のことは有名だ。エミーリア・シュタルクというと、男性をたてる
しかしマティアスはヘンリックの言葉を疑うように眉を寄せた。
「……社交界の花と有名だっただろう?」
「それは姉のほうだろ。おまえと婚約したのは妹。姉は
妹、と言われてマティアスは考えた。
そういえばシュタルク公爵には十六、七歳
「……マティアス、おまえいくらなんでも興味なさすぎだろ。自分の婚約者だぞ?」
「俺が決めたわけじゃない」
だから興味が
「おまえ、その女嫌いどうにかした方がいいと思うけど?」
「支障がないから問題ない」
いやいや、大いに問題ある。
ヘンリックはため息を吐き出しながらそう言いたかったが、マティアスはすっかり仕事モードになってしまった。こうなるとこちらがいくら話しかけても聞き流してしまうだろう。
マティアスが女嫌いなのは今に始まったことではない。結婚なんてしないと言わないだけマシだったのだろうかとヘンリックは思いながら自身も護衛の仕事に
そして一時間後、マティアスとエミーリアは婚約者となって初めて顔を合わせた。
エミーリア・シュタルクは白いレースで
「お会いできて光栄です、陛下」
ふわりと
マティアスも興味がないとはいえ、エミーリアと顔を合わせると
「お忙しいなかお時間をくださり、ありがとうございます。けれど、よろしいのでしょうか。陛下は
「いや、それは……」
これも言うなれば国王としての仕事のひとつだ、と頭に浮かんだものの、さすがに口にするのははばかられた。それくらいの良識はマティアスにもある。
「……君との時間を作るのも、必要なことだろう。婚約者なのだから」
「ありがとうございます」
婚約者であるエミーリアと会う場所には応接室が使われた。マティアスの私室に呼ぶことなどできるはずもないし、かといって執務室では色気がなさすぎる。
ヘンリックならば温室にテーブルを運び入れてロマンチックなひとときを演出しただろうが、
テーブルに並べられた甘い
エミーリアはたいてい誰かのそばにいて微笑んでいるばかりで、会話の主役になることはあまりない。
エミーリアは静かに紅茶を飲んでいた。
「陛下は甘いものはお好きですか?」
しっとりとした
「……嫌いではないな。
そうなのですね、とエミーリアは微笑みながら続けた。
「近頃、チョコレートというお菓子が
「話に聞いたことはあるが、食べたことはまだないな」
「でしたら、今度お会いするときにお持ちいたします」
断る気も起きないような
今まで近づいてくる女性がこちらに恩を売ろうとするときは、
落ち着いた声と、適切な
これは予想していたよりもずっと、マシな
そろそろ時間だ、とマティアスは護衛に控えていたヘンリックに目配せする。そのわずかな仕草に気づいたエミーリアがそっとティーカップを置く。
「陛下、どうしてもお話ししておきたいことがあるんです」
「なんだ」
話してみろ、とマティアスはエミーリアに告げる。話を聞いてやらないほどマティアスは
「陛下。わたくし、
「……は?」
自分の耳を疑うのも無理はない。ヘンリックも目を丸くしている。
恋愛結婚。
……どういうつもりだろうか。
マティアスとエミーリアの婚約は、政略によるものだ。国王の
──なるほど、とマティアスは
おそらくエミーリアには
「……恋人がいるのか。婚約
とんだ茶番だ。それならば初めからそう言えばいい。婚約が決まったあとの顔合わせでわざわざ宣言することはないだろう。
それとも正式な発表はまだだから、今ならまだ白紙に戻せると思っているのかもしれない。どうであれ、自分勝手だと言われても仕方がない発言だ。
マティアスは失望した。
エミーリア・シュタルクはマティアスの
しかしエミーリアは真剣な表情を
「恋人なんておりません。もちろん、陛下との婚約を破棄するつもりもございません」
はきはきとした
マティアスはますます
「わたくしはずっと、物語のように
子どもっぽい夢だとはわかっているのですが、と少し言いにくそうにエミーリアは続けた。
「ですが、わたくしは
昨今では貴族同士であっても恋愛結婚はおかしな話ではなくなってきている。しかし
「つまり? 君はどういうつもりでこんな話を?」
先ほどからマティアスはイライラして仕方なかった。簡潔に結論だけ言ってほしい。
「わたくし、思ったのです。はじまりはたとえ決められた関係であったとしても、その方と恋をすれば……それは恋愛結婚と呼んでも良いのではないかと!」
エミーリアは笑った。
花
「ですから陛下。わたくしと、恋をしてください」
何をどう考えたらそんな結論になるのだろう、とマティアスは
……正直、めんどくさい。
やはり婚約なんてろくなことがない。
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