17 マスク

 数か月前、とある研究所で開発途中の菌が実験事故によりばら撒かれた。

 瞬く間に全世界に広がり、日本人口の八十パーセントが感染したものと推測された。


 その菌は飛沫感染し、人間の体内で血液中に混ざると独自の型に変化していくのだという。

 人間が十人いれば十通りの菌の型が生まれるわけだ。


 全世界の人間に鼻と口を覆うガスマスクが無料配布され、家の中でも装着が義務化された。家族の前でも顔を合わせて共に食事を取ることすらなくなった。


 学校機関・会社・店舗・事業所・施設等、生命維持に必要な場を除いた数多の機関が目処の立たない長期休みとなった。




 僕の中学校も例外ではなく、長期閉鎖が言い渡された。本来ならプール開きの時期だ。


 僕は息苦しいガスマスクをし、自室にこもってだらだらしていた。


 唐突に、携帯電話が着信を知らせた。

 画面には後輩のレイナの名前が表示された。


 彼女は春先に僕と同じ図書委員になった一年生だ。ツインテールの活発な女の子の姿がぎった。


 慌てて受話器を上げるマークに指を触れた。これまで連絡はメールのみだったので、これが連絡先を交換してから初めての電話だ。


 携帯の向こうからレイナの声がした。


『あ、カイ君? 今、時間ある?』


「うん、用事?」


『ううん、単にお喋り。迷惑ならそう言ってね』


 レイナは何の含みもなくそう答えた。


 もし僕が「迷惑だ」と告げたとして『ああ、そっか。じゃあね』とあっさり通話を切るのだろう、と予想できる声音だった。

 そして自粛期間を過ぎて顔を合わせれば、何事もなく「おはよう」と声を掛けてくれるのだろう。


 彼女の声は、恐らく僕の声も、ガスマスク越しで籠って聞こえた。


「退屈だねえ」


 と僕は取り敢えずどこに転んでもいいような話題を切り出した。


『うん。退屈ー。課題終わったしー』


 ……課題やってなかったな、そういや。


 思い出したが、急にやる気が湧く訳もなく、ベッドに腰掛けて足をぶらぶら前後に揺らした。


 ぽつぽつと近況報告しながら、この先どうなっていくのかな、という不安を互いに感じ取った。

 プール開きやその他学校行事も熱望していたものではないが、無くなったら無くなったで残念な気がした。


 そういう雑談の延長で、レイナがふと『カイ君、どこにいる?』と尋ねた。


「今? 家だよ。自分の部屋」


『座ってる? 寝てる?』


 レイナの中で僕はその二択なのか。間違ってはないけど。


「ベッドに座ってる」


『じゃあ、僕はカイ君の左隣に座るね』


 ……?


 携帯の向こうから『ほい』という声がした。


『僕、今カイ君の左足に右足乗っけたよ』


 意味を理解するのに数秒かかった。

 つまり、レイナは隣にいると想像させて、疑似体験を……。


「……っ。君はにゃにを、」


 思いっ切り噛んだ。


 電話の向こうでレイナが『よこしまな意味は一かけらもありませんよぉー』と爆笑した。すぐにマスクが苦しかったからか咳き込んだ。


『ごめん、ごめん、説明する』


 レイナは一度息を吐いて、声のトーンを落ち着けた。


『……僕ね、小さい頃はお父さんの足に上って、枕にして眠るのが好きだったらしくてさ、人の体温とかって心を落ち着ける効果があるのかなって思ってるんだ』


 レイナが、四月に出会ったばかりの僕に、屈託なく家族の話をしてくれるのは何故なのだろう。


「それは、僕も分かる気がするね」


『よかった』


 レイナは本当に雑談だけだったようで、そこで話を畳んだ。




 後日、世界にばら撒かれた菌に毒性がないこと、血液に混入した場合にも滅多に大きな症状は出ないこと、市販の抗菌薬で充分に対応可能なことが公表された。


 反響としては、ドラッグストアから抗菌薬の売り切れ続出などがあったが、それもしばらくすれば供給が追いついてきて、それまでの日常が戻ってきた。




 僕は、人とのつながりが隔絶されそうな時ほど、つながろうとすることが大きな励ましになると知った。

 何も用事がないからこそレイナと話せて良かったと強く思う。


 幸いにも菌流行は終結したが、このまま自粛期間が数年、数十年と長引いていたら、鬱屈うっくつとして他人と関わる気力すら尽きてしまっていたかもしれない。


 生活の安定しないまま、宙ぶらりんなまま。

 感染に怯えることに疲弊して、将来を保留される不安が舞い込む。


 そんな不安が育つ前に、誰かとのつながりを模索できたら、と思うのだ。


 それは「絆」と呼ぶほど強くなくても構わない。

 ふっと心が上向く一瞬があるなら、そのつながりは機能していると信じていいのだ。




 ちなみにというか、この後一時期、僕とレイナの間であることが流行した。


 どちらかが落ち込んでいそうな時には、自分の片足を相手の足の甲に乗っけるのだ。

 励ましの意味だと、僕らだけが分かる。まあ、学校の室内履きの上靴だからできるんだけど……。


 乗っけられた方は何だか笑えてきて、笑いが治まれば気が楽になった。


 僕はレイナの仕草に、気に掛けているよ、というメッセージがさりげなく籠っているようでくすぐったくて笑った。


 僕がレイナに対してそうする時も、同じメッセージが通じていたらいいな、でも全然通じてなくて僕の不格好ぷりに笑ってもらっても、それはそれで充分だな、とひそかに思った。





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