9 犬
日本で動物と結婚することが認められ始めた。
発端は、少子化に歯止めをかけるための策として「十八歳以上の男女は必ず婚姻すること」という乱暴な法が打ち出され、それに反発する人々が「ペット婚」を謳い始めたことにある。
ペット婚とは字のごとく、飼っているペットが異性であれば結婚扱いとして未婚の成人でも法律違反にならないという主張から生まれた言葉だった。
その他にも電化製品や二次元のキャラクター等々と結婚すると言い出す人々も少なからず居た。
「異類婚」は今年の流行語大賞となった。
少なくとも僕には何の前触れもなく、姉が家に犬を連れてきた。
姉が手に括りつけている赤いリードの先に、鈍臭そうな寧ろそこに愛嬌のあるゴールデンレトリバー。
姉は自暴自棄の滲む目を血走らせた。
「父さんは?」
僕は姉の迫力に気圧させてしまう。
「……あ、今日遅いって」
どうしたの急に、と訊けないうちに、姉は犬の前足の土を拭きながら気忙しく言い放った。
「父さんに私お見合い行かないって伝えといて。この犬とペット婚するから」
「ええっ!」
「あんた、敬意払いなさいよ。この子が義兄さんになるんだから」
絶句する僕を置いて姉は犬と共にリビングに上がってしまった。
我が家に犬が加わって一週間。
父と姉は冷戦状態で僕と母までピリピリしていた。
理不尽なことに犬の散歩は僕に押し付けられた。
姉は一週間経っても犬の名前を家族に明かしてくれなかった。
冬の曇り空が余計に気分を鬱々とさせる放課後、中学校の図書室。
僕は図書委員の後輩のレイナに愚痴を垂れた。
勿論、突如家族になった犬と、勝手気ままな姉のことと、融通の利かない父のことだ。
いつものように慰めてくれると思っていたレイナからの返答がない。
顔を上げると、彼女は動揺を押し込めようと息を整えていた。
「ねえカイ君。その犬ってさ、ちょっとおじいちゃん犬のゴールデンレトリバーだったりする?」
――レイナに詳しい事情を聞きながら、僕の家への帰路を早足で辿る。
隣のレイナは息が上がっていたが決して「ゆっくり歩いて」とは言わなかった。
一週間前、レイナの家の犬が行方不明になったのだという。警察に捜索届は出したのだが未だ目撃情報は無し。
その犬の特徴が僕の家に姉が連れてきた犬と全く一致するらしい。
早く僕の姉に事情を聞こうということになって、僕はレイナと自宅を目指している。
路地を左折し、漸く家に着いた。と思った瞬間、人だかりに慄いた。
僕の家を囲んで近所の人が集まっていた。
更には真っ赤な消防車が僕の家の脇を陣取っていた。
近所のおばさんに事情を聞くと、火事だと伝えられた。
消防士と思しき男の人が僕を探し当て、「ご両親とお姉さんは意識不明で発見されて、○○病院に運ばれました」と教えてくれた。
続けて
「火元になった一階でゴールデンレトリバーの遺体が発見されました。
火力はそれほどなかったけど一酸化炭素を大量に吸ってしまったみたいだよ……。
この子は君の犬だね?」
と擦り切れた赤いリードを慎重に差し出した。
リードの内側にサインペンで『ハニィ』と書かれていた。
「そうですっ! あの子、毛皮が蜂蜜色だったからハニィなんです!」
そう叫んだのはレイナだった。
泣き崩れそうなのを堪えるレイナを、僕は見詰めることしか出来なかった。
辺りを照らすのが街灯だけになった頃、目元を赤く腫らしたレイナが顔を上げた。
「カイ君、ご家族の、病院行かなきゃだよね?」
僕は頭が回らないまま「あ、」とか「そうだよね、」とか適当な返事をした。
レイナが僕より余程しっかりした声で尋ねてくる。
「連絡取れる人は? 近所に親戚の人とか」
「一番近所は、祖母ちゃんの家、だけど……車で二時間かかるから。
あ、タクシーで行くよ。レイナちゃんは、今夜はもう帰った方が、」
消防車で病院まで送ってもらえないのかなあとかぼんやり頭の隅で考えていると、レイナが携帯電話で手早く誰かと話し、僕を見上げた。
「僕のお父さんがカイ君乗せて病院まで行ってくれるって」
バタバタ病院に着いて、医師や看護師から色々と説明を受けたが、頭に入ってきたのは、家族三人取り敢えず命が助かったことと後遺症の心配も限りなく低いだろうとのことだった。
病院の待合室に泊まらせてもらおうとも思ったが、レイナの父親が「うちに来なさい」と言ってくれたので甘えることにした。
レイナの家は豪邸と呼んで差し支えなかった。
好きな子の家にお泊りできる感動を味わう余裕はなく、ライトアップされた庭や、壁一面分もある液晶テレビや、光沢あるグランドピアノが覗く部屋たちの前を亡霊のようにふらふら歩いて、客間の寝台に沈んで眠った。
翌朝、病院から家族皆が意識を取り戻したらしいと連絡があった。
看護師から話を聞くと、最初に目覚めたのは姉だったらしい。
姉は飼っていた犬が亡くなったことを聞き、何度も名前を呼んで酷く取り乱したという。
「うちの犬、何て名前だったんですか?」
僕の間抜けな質問に不可解そうな看護師。
「ええと、お姉さんは『――さん』って呼んでましたよ?」
犬の名前を、さん付け?
火事の後、僕ら家族には決定的な亀裂が走っていた。
今回のことだけではない、積もり積もった歪みが寄せ集まって、中学生の僕には到底全貌は窺えなかった。
放課後、僕とレイナ以外は誰もいない図書室。
「レイナちゃん、ごめんなさい。僕、何も気付けなくて」
もう何度目かも分からない謝罪を口にした。
レイナは首を横に振った。
「カイ君のせいじゃないでしょ。
お姉さんだって、僕んちから脱走したハニィを拾ってくれただけなんだし。
……僕こそもっと早くカイ君にうちの犬が行方不明だって相談してれば良かった」
「そんな……。僕が言えることじゃないけど、レイナちゃんは何も悪くないよ」
「カイ君さ可愛がってくれたんでしょ、うちのハニィを」
「うん、ほんとに可愛かった」
声が震えたが、レイナから目を離さずに伝えた。
「なら、良かった!」
そう、彼女は笑ったが悔恨を幾つも幾つも飲み下した後の気丈さだと僕は気付いてしまった。
彼女はそれ以上僕が気負わないようにするためか声を明るくした。
「それはそうとして、お泊りどうだった?」
「お泊りを堪能する余裕はありませんでした。
……あ、でも、レイナちゃんのお父さんの漢字珍しいなって思ったよ、ほら病院の受付の時」
レイナは、感想ってそっち? とでも言いたそうに不満気に片眉を上げた。
「お父さんの名前ね、『――』って読むんだよ」
その『――』という名前は姉が病院で呼んでいたという犬の名前と同じだった。
――数年前のある些細な出来事が、唐突に僕の脳裏に蘇った。
姉がまだ高校生の時、父が勝手にピアノ教室に通わせることを決めてしまった。
乗り気でなかったはずの姉は一年も通う頃には楽しそうに僕に自慢してくるようになった。
『ピアノの先生の教え方がすっごく良くてね』
人を煙に巻く癖のある姉が珍しく声を弾ませていた。
ピアノのコンクールを目前に突如、父がピアノ教室を辞めさせた。
姉が物凄い剣幕で楯突いたが、父は頑として許さなかった。
当時の僕には分からなかったが、そのピアノ教室の先生とはレイナの父親だったのではないだろうか。
そして、僕の父は、姉が一回り以上も年上のレイナの父親に恋をしたと知ってしまったから辞めさせたのだ。
姉とレイナの父親がどこまでの関係だったか僕が推し量ることは出来ない。
そこまで思考してしまえば自ずと舞い込む懸念。
もしや姉は、レイナの『ハニィ』を盗んだのではないだろうか。
明確な根拠はない。
ただ今朝、玄関で菓子折りを提げた姉と鉢合わせた。
「謝りに行かなきゃね」
そう声を掠れさせた姉は、父に一つもケチをつけられない完璧な口実を携えて堂々とレイナの父親――慕う人に会いに行けることに恍惚と目を細めていたように思えてならなかった。
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