6 風呂

 少年たちの間で、風呂に入らないことが流行り出した。

 低年齢の、特に小学生の男児らには何日風呂に入らずに過ごせるのか競う風潮まで広がった。


 きっかけは、動画配信サイトに自作の動画を投稿する人たちが始めたことにある。


 動画のタイトルは『平安時代の貴族は入浴しない⁉』だ。


 動画の中で史実が大幅に誇張され、高貴な人ほど風呂には入らないものだという間違った見解がキャッチーに持ち出される。

 動画の終盤には『完璧に体臭を消す‼』……らしいオシャレで低価格な香水が紹介されていた。


 投稿者に憧れを抱く小学生たちがそれに飛びついた。


 これには流石に大人たちは渋い顔をした。    

 若者と大人の中間にいる若年層は追従する者と遠巻きにする者が半々か。


 いつも流行に乗りたがる僕の母も今回は良妻賢母らしく「こんな不衛生なこと、いつか体を壊すわ」と眉を顰めた。


 僕の中学校でも反応はまちまちだった。

 ただクラスの中で人気者グループに属する生徒がこのブームに乗っかっていると、何となく空気を読んで風呂に入らないメンバーが増えていった。




 放課後、教室で僕が帰り支度をしている間、女子の会話が耳元を掠めていく。


「親はさぁ、お風呂入らないってだけで汚い汚いって決めつけるけど、むしろ楽になったよね」


 香水の匂いをプンプンさせた女子の一人が大きく足を広げて椅子に跨る。


 僕は目を逸らす。


「うん、生きやすくなったなって私も思う。

 ほら、髪染める時とかさ、あれ『前日はお風呂に入らないで下さい』とかって書いてあるじゃん?」


「あるある!」


「今までだったらさ、明日学校だから、部活行くからって結局すっごい気を遣わなきゃならなかったけど、今は皆お風呂なんか入ってないから楽だよ」


 彼女たちの会話を聞き流しながら、図書室へ向かった。




 図書委員の後輩――レイナはなぜか音楽室にいた。

 図書室に向かう途中で音楽室の前を通るので、偶々彼女に気付いた。


 僕は覗き窓がついているスライド式ドアの前で手を振って彼女に合図を送ってから、音楽室に入った。


 レイナはぼんやりグランドピアノの椅子に座っていた。


 ツインテールにした髪の毛先を左手で引っ張っている。機嫌が悪いのだ。


 彼女から似合わない香水の匂いがする。

 レイナがくだらない流行りに乗っかる訳もないので、きっと香水には理由があるのだ。


 一先ず僕は努めてそれに気付かない振りをした。


「レイナちゃん、何してるの?」


「避難、してる。香水ね、無理につけられた」


 あっさり疑問が解消された。

 クラスの女子か誰かにつけられたものか。それなら納得だ。


「あ、カイ君、ポテトサラダ食べる?」


 なんだか口調が投げやりだ。


 言ったそばからお弁当の蓋を無造作に開けてカップに盛り付けられた一口大のサラダを差し出してくる。


「こら、音楽室は飲食禁止だよ」


「食べ切れなかったんだ、今日。捨てたらお父さん怒るし」


 僕の注意など蚊帳の外。

 仕方がないので、古くなった嫌に白っぽいマヨネーズが光るポテトサラダを口に放り込む。


「僕、このままだと明日も香水つけられるかも。だからさ、もう先に匂い、つけとこうかなって思うの」


 レイナの声は暗く沈んでいた。


 僕は少しピンと来て、提案した。


「じゃあ良ければ僕と買いに行く?」


「……うん!」


 やっと彼女が笑った。




 土曜日、デパートで香水ほど主張の強い匂いではないが、爽やかな香りが漂うような制汗剤を見つけた。

 早速レイナに渡すと、嬉しそうに歯を覗かせて笑い、即決で購入した。


 そのまま僕の家に向かった。

 僕の家族は皆、今日は出かけている。


 家に着くなりレイナは迷いない足取りで僕の家の風呂場に直行した。

 きっかり三十分後に脱衣所から出てくる。

 着替えは元々持って来ていたらしい。


 ドライヤーで乾かしたばかりの髪を背に垂らして、僕の隣に座った。

 レイナの髪から僅かに僕の家のシャンプーの匂いがして、僕の心臓がトクンと跳ねた。


 彼女は不貞腐れるように小さな声で僕に訊いた。


「何で気付いたの? 普通はクラスメイトとか、そういう子たちから避難してるって思うでしょ?」


「そうかな……。

 僕がクラスメイトから逃げるなら、放課後になった瞬間に家に全速力で帰って、お風呂にザバンッ、だな」


 レイナが苦笑したのか肩を揺らした。


「お父さんがね、お風呂に入らせてくんないの。

 やんわりとだけど『入らなくていいんじゃない?』とか言って、もし入ったら機嫌が悪くなる。

 そのくせ会社の人とかには電話で『娘が流行りに流されて困りますよー』とか言うの。自分の体裁は大事なんだ」


 何で、と訊きたいが訊いていいのか……。


 僕は臆病だ。彼女の心の恐らく傷つきやすい部分に触れるのが怖い。


 巧妙に核心を突く話題を避ける。


「香水もお父さんが?」


「死んじゃったお母さんのつけてた香水」


 何となく事情が察せられた。


 レイナがくわっと欠伸をしてソファーの背凭れに後頭部を預けた。


「僕のクラスの子たちに『何でレイナちゃんはお風呂に入るの?』って訊かれて、『僕は逆に何でお風呂に入らないのかが知りたい』って言ったら、『ありのままの自分でいたい』って言われたよ。


 ありのままって言えば、確かに原始人はお風呂なんか入ってなかった。……水浴びはしてたかもだけど」


 レイナが大真面目に付け足すので、僕はクスッと笑う。


 レイナは自分に問うているような声音になっていた。


「ありのままって何だろね。原始人みたくお風呂に入らないこと? 好きな香水をつけること?

 ……僕は僕を『私』って言うの苦手だけどそれは世間の言うありのままに反してる?」


 僕が答えに詰まっていると、彼女は自分で続けた。


「僕は自分のしたいように生きることがありのままだと思う。

 お風呂に入りたい時は入りたい。香水をつけたくない時はつけたくない。……お母さんの身代わりにされたくない。僕は僕を生きたい。


 でも、皆が皆ありのままに生きたら困る人が出てくるから、困り事が少しでも減らせるような仕組みが『常識』なんだ」


「……それは夢物語だよ……。

 現状として常識は、押し付けだ。厳しいことを言うけれど……」


 分かっている、とレイナは眼を眇めながら虚しそうな笑みを湛えた。


「カイ君の言う通り、ありのままの僕は誰にも受け入れられない」


「僕は! ありのままのレイナちゃんが好き!」


 思わず叫んでいた。

 叫んだ後になって、勢いで告白してしまったことに「あ……」と固まる。


 見る間にレイナは瞳を輝かせた。

 さっきまでの憂い顔が嘘のように無邪気に、


「分かった! じゃあ、ありのままの僕でいられるくらい強くなる!」


 僕は先程からの動揺を宥めるために、ゆっくり息を吐いた。


「応援するよ」


 彼女は猫のように目を細めた。


 レイナがまだしけっている自身の髪を一束掴んで、スンと嗅いだ。


「……いい匂い」


 僕はその、ありのままの彼女の横顔に見惚れていた。





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