海を見る女

富升針清

第1話

「初めて吸った煙草の味、覚えてる?」


 真っ暗な海を見る。

 ただ、ただ二人で。手を繋いで。


「私、まだ覚えてるよ」


 美味しくないくて、ただただ苦くて、お腹も膨れなくて、最悪だったね。


「お酒も美味しくなかったね」


 水道水の方が美味しいねって、何も入っていないコップの前で少し泣いたね。


「私さ、アキが作るクッキーが一番好きだった」


 小さな小さなクッキーだけど。

 お砂糖もバターも入ってないクッキーだけど。


「美味しかったなぁ……」


 大人になったら、これにチョコレートも入れようね。

 そう、約束したね。


「美味しい美味しいって、ずっと食べたていたかったな」


 隣で目を閉じてるアキに、私は寄りかかる。

 夜の海は寒いから、アキの手も冷たくて。

 それでもまだ、何処か暖かい。


「ほっぺ、痛いね」


 お揃いの殴られた跡。

 いつもの様に殴られて、いつもの様に怒鳴られて。それでもアキは私の手をずっと握ってくれて。

 十五歳になったら一緒に逃げよう。

 同じ歳なのに、アキはお姉ちゃんだからといつも私を守ってくれた。


「アキは大人になったらお母さんみたいな看護士さんになりたいって言ってたよね」


 風がアキの髪を梳く。

 顔にかかる柔な貴方の髪が、少し擽ったい。


「私もね、看護士さんになりたいなって今日思った」


 私はアキと違ってバカだから、そんなものになれないと思ってたけど、アキのためなら沢山勉強ぐらい、きっと平気。


「一緒の学校に行って、一緒の所で働いて、ずっとアキと一緒にいるの」


 また真似っ子してって、アキは怒る?

 でも、それでも。最後はいつも許してくれるじゃん。

 私にはアキしかいなくて、アキも私しかいなくて。

 産まれる時も死ぬ時も、どんな時も。

 どんな場所に行っても一緒だよ。


「アキ。海って何も見えないね」


 海が見たいなと言ったのは、アキなのに。

 海が見てみたいなと言ったのは、アキなのに。

 ずっと目を閉じてるなんて。

 でも、そうだね。夜の海は何も見えないや。目を閉じてても一緒かもね。


「アキ、アキ」


 私はアキを揺らして起こす。

 アキは、それでも起きなくて、いつもなら寝坊助は私の方なのに。


「海、見ないの?」


 疲れちゃったのかな?

 そうだね。少し、遠かったもんね。


「アキー。起きて」


 でも、起きて。

 約束したじゃん。


「もうすぐ日付、変わっちゃうよ?」


 ひび割れたスマホを見ながら、私はアキを揺らす。

 もうすぐ三月二十日になってしまうのに。


「もう、アキったら」


 私はアキを起こすのを諦めて、彼女をぎゅっと抱きしめた。


「はは。冷たっ」


 冷たい身体。

 このままだと風邪、引いちゃうよ?


「アキ。大好きだよ」


 手の平につくぬるりとした体温さえ、今はわからない。


「ずっと大好き。ずっと、ずっと大好きだったよ。アキがお姉ちゃんでも、お姉ちゃんじゃなくても。大好きだったよ」


 冷たい体を抱きしめて、私はアキの首元に顔を埋める。

 二人でいれば、暖かいね。

 そう、雪の降る夜に外に出された私にアキが笑ってくれたの、私は絶対に忘れない。


「アキ、ありがとう」


 こんな私とずっと一緒にいてくれて。


「アキ、ごめんね」


 私なんかを庇ったせで、痛かったよね。

 今日も機嫌が悪い父に殴られた。

 原因は、私が父が帰って来た事を知らずにトイレに入ろうとしてしまった事だ。

 アキは何も悪くないのに、ボコボコに殴られている私と父の間に割って入って沢山殴られた。

 私が悪いのに、アキは何も悪くないのに。

 止めてよって泣いて止めても、今日の父は止まらなかった。

 いつもは止めてくれるラインを、あの人は越えようとしていた。

 どんどん激しく殴られてるアキを見て、本当に死んじゃうと思った。

 だから、私がどうにかしなきゃ。

 私がアキを助けなきゃ。

 アキが私を助けてくれ様に。

 そう思ったら、私は駆け出して台所から包丁を取り出していた。

 これで止まってくれるかも。

 泣きながら包丁を突きつければ……。

 そう思ったのに、あの人は私を怒鳴り包丁を奪い取った。

 あ。

 明日、私達の誕生日だよ。

 私達、十五になるんだ。

 私達、この家から出るんだ。

 なのに。

 私、ここでこの人に殺されるんだ。

 怒鳴られる怖さと髪を引っ張られる恐怖が、明日の事を思い出させてくれるのに、身体が動かなかった。

 あの人は、何の躊躇もなく私に包丁を振り下ろす。


『フユっ!!』


 動けない私の名を叫んで抱きしめてくれたのは、アキだった。

 アキが何か言っているけど、私には分からなかった。

 だって、あの人も大きな声でアキを怒ってたから。

 小さなアキの声は聞こえなかったんだ。

 でも、アキの背中から沢山血が出て来て、アキが私を抱きしめる力も弱くなって、あ、明日私達誕生日だねって、また思い出して。

 そっか。

 逃げる日なんだ。

 今日のうちに、用意をしなきゃ。

 そう思ったら、あの人を刺してた。

 あの人もアキも動かなくなって、私はアキが最後に何を言ってたか思い出そうとしたけど、やっぱり聞こえなかったのか分かんない。

 でも、少し前にアキが海に行ってみたいねって言ってたのを思い出して、あ、アキは海に行きたいって言ったのかも。そう思って、あの人の携帯と財布を持って、私はアキと海に来た。

 海なんて私たちは一度も来た事も見た事も無い。

 だから、最後に海を見ようと思った。

 私も、みてみたいと思った。

 アキと一緒。

 だって、私とアキは産まれる時も死ぬ時も一緒だもん。

 ずっと、一緒もん。


「アキ、私達、ずっと一緒だよ」


 双子だもん。

 ぎゅっと抱きしめて、私はアキの身体を抱える。


「今迄も、これからも」


 ずっと、ずっと。一緒だよ。


「天国に行ったら、海の話をしてあげる。アキは見れなかったから、私が教えてあげるね」


 私はアキを抱えながら海に入る。

 時間は、あと少しで日付が変わる。

 十五になったら一緒に家を出ようね。

 そう、約束したもんね。

 一緒だよ。


「天国に行ったら、また、沢山話そうね」


 冷たい海水が膝を濡らす。


「天国に行ったら、私またアキのクッキーが食べたい」


 冷たい海水が腰を濡らす。


「天国に行ったら、アキは何をしたい?」


 冷たい海水が胸を濡らす。


「アキは、何をしたかった?」


 冷たい海水が喉を濡らす。


「アキ……」


 私は……。


「最後にアキの声が聞きたかったよ……」


 我儘は言っちゃダメ。

 ずっとそう思って生きていたけど、最後ぐらいは許されるよね。

 そう思いながらアキを抱きしめると、アキの唇がかすかに動いた。


「……フユ、私は貴女に幸せになって欲しい……」


 それは、とても小さな小さな声だった。

 波音が掻き消してしまいそうなほど、夜のしじまに吸い込まれてしまいそうな程、小さな声だった。


「……うん。天国に行ったら、沢山アキといっぱい幸せになるよ」


 冷たい涙が、頬を濡らす。

 もうすぐ、春が来る。

 秋が終わり、冬が終わる。

 

「天国で、沢山沢山、幸せになろうね」


 二人なら。

 どこに行っても幸せだよ。


「アキ、ずっと一緒だよ」


 冷たい海水が二人の顔を濡らした。

 花の咲いた、春の様な笑顔の顔を。




おわり

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