第9話 誓い

 コン、コン。


 窓を叩く音で、千颯ちはやは目をさました。


 暗がりの中、ベッドの中から、机に置いたデジタル時計を確かめる。午前一時をまわったところだった。

 音は、気のせいだろうと決めつけ、千颯ちはやは毛布と掛け布団をいっぺんにつかみ、鼻まで隠した。

 千颯ちはやの部屋は、川沿いの住宅街の一軒家、北西側の二階に位置していた。窓を叩く音など空耳だと決めつけ、すぐにまた眠ろうとしたが、コン、コン、と、また、音が千颯ちはやを呼び止めた。

 布団と毛布を手繰り寄せて、千颯ちはやは顔を半分隠した。しかし、音は聞こえてくる。そして、業を煮やしたように、声が聞こえてきた。



 ちはやさま

 ちはやさま

 おたすけください



 男のものとも、女のものともつかない、澄んだ声を聞きながら、シオの予言が耳に蘇ってきた。

「おキツネ様に、目をつけられた、ってことだよ」



 ちはやさま

 ちはやさま

 ときがせまっております

 おたすけください

 誓いを果たすときです



 誓い、という一言に、千颯ちはやは目を閉じて、後悔した。なんでもやります、と、シオにそそのかされるままに誓ってしまった。まさか、だからといって、真夜中にだれかが訪ねてくるなんて。

 逃げようもないのだとあきらめて、千颯ちはやはベッドを降りた。

裸足に、冷たい空気が触れて、その寒気が背中をじわりとのぼってくる。おそるおそるカーテンに手をのばすが、指先もふるえていた。


 ゆっくりと、厚い布地を横へずらしていくと、窓の外に、キツネがいた。


青白い着物をまとって、月明かりに照らされるキツネは、斜めになった屋根の上でじっとしゃがんでこちらを見ていた。色素の薄い髪が風に揺られている。

「ああ、ちはやさま」とキツネは、鼻先をつん、と上に向けた。うながされるままに、千颯ちはやは窓を開けた。

「夜分の訪問、まことに申し訳ありません。なにぶん急いでおりますゆえ」

 キツネの声は聞こえるが、口は動いていない。どうやら、顔は、お面のようだった。

「真の顔をごらんになると、ちはやさまがおどろかれるかと思い、今宵はこのような面をつけております」

 千颯ちはやの心を読んだかのように、キツネは述べた。


「わたくしは往還おうかん山のオタケギツネと申します」

 そう言ってキツネは、川の方を振り返った。

「今宵、我らが姫様の嫁入りのり行われるのですが、その祝宴の準備が未だ整っておりません。本来であればわたくしの役目であるのですが、もう長いこと、この段で失態を演じておりますゆえ、ぜひ、ちはやさまにご助力いただきたく、参った次第です」

 事情が飲み込めないまま、千颯ちはやはまばたきをくりかえした。


「さあ、まずはお着替えください。春の夜はまだ寒うございます。しかし、お早く、お早く。嫁入りのこし輿はすでにお婿様のもとへ向こうております。そちらが到着する前に、お婿様の元へ、油揚げをお運びください。ご存知でございましょう、北峰稲荷きたみねいなりです、そちらが、我らが姫様の嫁ぎ先でございます」


「き、きたみねいなり?」

 千颯ちはやの戸惑いを事前に知っていたかのように、オタケギツネは一枚の紙を取り出した。北峰神社きたみねじんじゃのリーフレットだった。私鉄の駅の近くにある、そのあたりでは大きな神社だ。

「さあ、道をつなぐのです」

 そう言うや、オタケギツネは姿を消した。リーフレットを見ていた千颯ちはやは、開いた窓から身を乗り出して、庭を見た。しかし、暗がりの中には誰もいなかった。どこだ、どこだ、と青白い着物を探して頭をめぐらせると、川向うの道に、ぼんやりと光るものをみつけた。


 川沿いに立つ千颯ちはやの家の裏手には、幅二十メートルほどの河川があり、その向こう岸の土手の上を、電車のような長方形の薄ぼんやりとした光の塊が、左から右へ、じりじりと移動していた。


 まさかと思いながら、千颯ちはやは左のまぶたをおろしてみた。すると、光の塊は、消えた。つまり、あやかしの類だ。


 こんどは右目を閉じ、左目だけで見つめてみた。意識を集中して凝視していると、青白い光のなかに、ぼんやりと、人の姿が浮かびあがってきた。



 いや、人ではない。

 キツネの行列だった。


 ――狐の嫁入り

 午後のにわか雨を見て担任が口にした言葉が、耳によみがえる。


 思わず、空を見上げる。

 満天の星空だ。

 雨の気配どころか、雲ひとつ見当たらない。


 しかし、迷っている暇はなさそうだった。

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