♪ Alice in wonderland ♪
第23話 エピローグ
バロン社の問題は翌日の朝刊に掲載された。しかし、盗用については小さく触れられる程度で、それよりも神奈川の異臭問題の責任がバロン社にあるとの疑いが浮かび上がった。
同じ頃、検査機関による臭気分析の結果が公開された。異臭にはメタンガスが含有されていることが判明した。メタンガスはおならに含まれており、これがバロン社によるおなら利用問題と結びついたのであった。俄には信じられない事態に目下の関心は盗用そのものではなく、おならを利用したか否かに向けられたのである。
当初、主要テレビ局は控え目な報道に終始した。バロン社は大手のスポンサーだったのである。そういったこともあってバロン社は強気の姿勢を崩さなかった。
――香水イベントでの調香師の告白は身も蓋もない嘘。アルバイトは当社とは無関係。法的な対処を検討しているとバロン社法務部は紙面で語った。
悪臭など使うわけがない――人々もバロン社の主張は正しいと信じ始め、なかには風評被害に同調する声もあった。
が、行政による立ち入り検査で証拠隠滅を図ったことや第三者機関による聞き取り調査でアルバイトからあらゆる悪臭を採取していたことが発覚すると風向きが変わった。
バロン社側の主張は日に日に小さく扱われていく。コメンテーターは手のひらを返しバッシングを開始。まるで諸悪の根源のような報道のされ方であった。
バロン社の責任者が追求を受けているとき、僕の元にも調査の手が及んだ。バロン社の仕業だ。しかし、心配は無用だった。
なぜなら、最終審査以前から僕のおならは不発になっていたからだ。原因はやっぱり恋だと思う。とにかく、バロン社が言う『御影アリスのアイデアを盗用した結果、こういう事態に陥った』という主張は退けられた。僕のおならはいつまで経っても出なかった。行政側の人間はとうとう痺れを切らして帰っていってしまった。おならはどこへ行ったのだろう。僕は僕の一部を失った気がした。それはそれで寂しかったけれど、いつかは来るときだと言い聞かせたのだった。
……そうそう。宇緑さんのことも忘れずに話しておきたいな。一次予選のとき宇緑さんが到着が遅れたことで僕たちは再度の調香を行った。あのお尻ペンペン事件だ。それを偶然見てしまっていたらしい。だから、もしかしたらバロン社の言っていることは事実でおならを香水に転用していることがバレてしまう危険性があった。しかし、僕のおならが出ない以上それはあらぬ疑いというもので、宇緑さんのなかでパートナーとのプレイとして消化されたみたいで。。。
……えーと、大体こんな感じだけど。アリス、聞いてる?
「え、うん。聞いてる」
アリスは退屈そうに椅子にもたれかかった。
「僕の話はこんな感じかな。ね? 言った通り長かったでしょ」
「ええ、長すぎ。もう少し端折ってもよかったくらい」
アリスは指を組み合わせて遊んでいる。僕の話に関心なんて最初からなかったみたいに。
「アリスが話してっていったんじゃん」
「あらすじじゃなくて丸々話すとは思わなかったのよ。かいつまんでくれると思ってたし」
「次はアリスが話してよ」
「えー」
「自分から言い出したんじゃん。悠の半生を聞かせてって」
「それはそういう意味じゃなくて……」
アリスは言い淀む。
バロン社の事件が起きてから三年経った。新型コロナウイルスワクチンの接種は一部を除き国民の大多数が終えていた。そのおかげもあって世間でコロナはインフルエンザくらいの認識に着地した。状況によってマスクを着ける日はあるけれど、世界はようやく平常運転になったのだ。
アリスがマスクを外した日を僕は今でも覚えている。僕はそれまで彼女のマスクを外した姿を見たことがなかった。もちろんチラと見えることはあった。調香はマスク越しでは困難だから。でも、まじまじと見る機会はそうそう訪れない。
マスクなしのアリスを見て、僕は言葉を失った。ぷるっとした薄桃色の唇。滑らかな肌。にっこりと微笑むと小さく凹むアリスのえくぼ。僕はアリスに見とれてしまう。アリスのことがもっとずっと好きになった。
僕は大学生で、アリスは高校生になった。僕はそれを機にアリスに告白した。良かったこと、イエスの返事をもらえたこと。悪かったこと、お試しで付き合うという条件付きだったこと。断られないだけマシというものだけれど、アリスの返事はビジネス的でひんやりとしていて僕は悶々とした日々を送るのだった。
当然、調香師とパートナーとしての関係は続いていた。受賞以後、依頼が途絶えることはなかった。オリジナル香水の要望が多かった。しかし、三年前に受賞したPerfume of the yearはもう過去のもの。毎年審査はあるのだから終わりのない旅なのだ。アリスは現状に満足せず、今も新作の準備をしている。そして、相変わらず僕は下っ端でアリスの調香を補佐しながら愚痴を受け止める役。
けれど、それ以上の進展はまるでなくて。付き合っているにもかかわらずアリスとはビジネス的な関係だけ。デートもない。これで付き合っていると言えるのだろうか。あるいはプラトニックな関係を望んでいるのだろうか。よく女性は精神的な結びつきを大切にすると言うし。お母さんの関係?
僕はあえて聞かなかったし、アリスもお試し期間がいつ終わるのか言ってくれなかった。だから、僕は踏み出せずにいた。一歩先へ。それどころか、アリスは時々変なことを言って僕にクエスチョンを植え付けた。やれ、私の好きなところを言ってだとか。付き合って数ヶ月だねとか。髪型やコスメを変えたの……とか。
今日の回顧録もその延長線上で、アリスが急に言い出したのだ。意図は全くもって不明である。
「私がどうして回顧させたか分かる?」
アリスはピペットで手を叩きながら、僕の前を落ち着きのない子供みたいに行きつ戻りつ。
「えーと、なんとなく」
僕が言うと、胸の前でバッテンをする。
「ハズレ。悠に思い出してほしかったから。――おさらいするわ。さて、悠は私に好意を持っている」
「うん」
「好きなのよね」
「うん、もちろん」
僕は首肯した。けれど、どういうことか分からない。
右に歩いて戻り、左に歩いて戻り、そこでアリスはピタリと止まる。
「それどころかおかしくなるくらい、大好き」
「そうだけど……ごめんアリス、言わんとしていることが分からないよ」
「鈍いわね。だ、か、ら……」
「だから?」
「……んでも……ぃぃって」
アリスはもごもごと言った。
「??」
「何でもしていいって!!! 初めてウチに来たときのこと。協力してくれれば何でもしていいって、私が悠に約束したでしょ。覚えてないの」
アリスの顔がほんのりと赤く染まる。
「覚えてるよ。でも」
僕は飛び上がりそうなくらい驚いた。てっきりそんなこと忘れられていると思っていたし、僕もそこまで本気にしていなかった。なのにアリスは覚えている。
「嘘、悠は忘れてた。あーもう、じれったい! ……こんなのって卑怯よ。女の子にさせるなんて聞いたことない」
「何、何だって。アリス?」
アリスが近づいてくる。僕の眼前で手を上げ、僕の髪の毛を掴む。
「いい? このことはずっと忘れないからね!」
僕は訳が分からないまま、張り手を覚悟した。よく分からないけど、アリスの機嫌を損ねてしまったようだ。経験上、怒ったアリスには謝るのが一番。
なのに。
その手は僕の後頭部を抱くように抑え、アリスは乱暴に――唇を重ねてきた。
「アリス、ど、どどどういうつもり!?」
目の前で事故が起き、僕は仰天した。僕はまばたきを繰り返す。唇にはまだ暖かさが残っていて、僕は感じ取りたくて、唇を気づかれないように丸めた。
「何でもしていいって言ったのに、どうしてそれを使わないの?」
「だって……アリスはお試し期間って言うから。プラトニックな関係がいいのかもって思って」
「ううん。そんなこと誰も言ってない! 聞いて――。悠は私を助けてくれた。変わった香りばっかり探してた私を目覚めさせてくれた。――悠、私は悠が欲しいの。全部、欲しい」
アリスは僕を掴みながら、上目遣いで見る。
「悠が告白してくれたとき私嬉しかったよ。でも、それから悠は何もしてくれない。私はこんなに好きなのにどうして気づいてくれないの!? 誰のためにお化粧して、誰のためにおめかししてると思ってるの? 鈍感にも限度があるでしょ。ヒドい……ヒドいわ」
アリスはしおらしくなって、とうとう泣き出してしまった。
僕はようやく理解した。アリスは待っていたのだ。お試し期間はとうに終わっていた。臆病な僕が変わるのを待っていた。僕が男らしくなって、つまり、僕がリードするのを待っていたんだ。
僕はアリスにキスをした。これでいいのか分からなかった。でも、僕はアリスを感じていたくてアリスの唇に触れ続けた。アリスの唇は甘く湿っていて、少しだけ涙の味がした。アリスは驚きながらも僕に応えてくれた。
僕はもう制御できなかった。アリスも同じ気持ちだったらしく、僕を客間に誘った。
僕はアリスをベッドに押し倒した。重みを受けてスプリングが跳ねた。アリスの綺麗な黒髪がベッドに広がる。アリスは横目で僕を見ないようにしている。そのいじらしい様子がとっても可愛くて、我慢できない。
「ちょっと待って!」
アリスは急に我に返ったみたいに僕を押しのけた。僕は興奮して今にもアリスに覆い被さりそうだったのに。
「まだ心の準備が」
アリスは小さな声で言って、服を押さえている。
「でも、ここに連れてきたってことは、そういう」
「待って。だって、そんな先までいくと思ってなかったから準備が。――あっ、私の話を聞かない!?? 私の半生を。まだ言ってなかったわよね」
アリスは早口で言うけれど、僕はそれどころじゃない。もうずっとこのときを待っていたんだ。
「後でゆっくり聞くよ。ダメかな?」
「……」
アリスは静かになる。だから、僕は最後の一押し。
「アリス、可愛いよ。大好きだ」
「ふにゃ」
アリスはそこでようやく腕を開いた。目を瞑り、頬は上気している。この世のものとは思えない可愛さだった。どれだけ言っても足りないくらい可愛かった。
僕はアリスに重みがかからないようにまたがった。アリスの香りが伝わってくる。絡めた指先から体温が伝わる。薄くて早い息づかい。痛いくらいの心臓の鼓動。
夢にまで見た瞬間だった。
「アリス、いいの?」
「うん……」
アリスは静かに答えた。そうして僕はアリスの小さな体にゆっくりと慎重に、まるで香水を垂らすように、影を落としていく。
《了》
Hip Burn! ~馥郁たるかほりを求めて~ 佐藤苦 @satohraku
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