第22話 僕は心をかき乱された。これは審査員の総意だ
僕たちの香水『Alice』が運ばれてくる。香水を入れている瓶は特注せずにあえて一般に流通しているものを選んだ。香水そのものに注目してほしいためだ。
審査員たちの表情が曇る。これまで華やかな外観の香水が続いていた。衣装を凝らしそのままでも工芸品として通用しそうな完成度だった。だから、あまりにも簡素な外観に呆れているのだろう。これが、大トリか。それも審査を続けるように懇願したにもかかわらず。――そう思われているのだ。
でも、それも今だけの辛抱だ。この香りを嗅げばきっと考えを改めるはず。
いよいよ、そのときが来た。僕たちは固唾を飲んで見守った。
「小さな化粧品みたいだな」
カウボーイが軽口を叩く。
「試す前に評価するのは褒められたことじゃないわね」
女性審査員が窘め、やれやれといった感じでカウボーイが引き下がる。
審査員たちはそれぞれの作法で調香羽を香水に浸していく。
そして。その瞬間。
僕は待った。アリスを窺う余裕はなかった。審査員は喋らない。時間が溶けた飴みたいに伸びていく。もしかしてダメだったのだろうか。僕たちの挑戦は無謀だったのだろうか。僕は顔を伏せた。香水素人の意見なんて言うんじゃなかった。アリス、ごめん。君の大切な場を、僕は無駄にしてしまった。僕は心の中で謝った。目を瞑って、唇を噛んだ。
誰かが声を漏らした。僕は顔を上げた。宇緑さんだった。目を見開き、これはという表情をしている。体を反らせて、カウボーイとアイコンタクトを取っている。先ほどまでカウボーイと険悪だった女性審査員も加わり小声で話している。
カウボーイが手を上げる。司会者に発言の合図をしていた。
「一言で言うなら、これは香水じゃないと思う」
カウボーイの発言にアリスの体が小さく揺れた。
「かといって芳香剤やデオドラントかと問われればそれも違う。……悪りぃ、あとは」
カウボーイは宇緑さんを見る。カウボーイにしては歯切れが悪かった。先送りにした結論は宇緑さんに引き継がれた。
「御影くんの予選を審査したのは僕だからこの先は僕が話そう。香水じゃないという意見に僕も同感だ。しかしながら、それは今までの僕たちの知っている香水じゃないという意味においてのこと。僕たちはそれを理解して、少し動揺している」
宇緑さんが話している間もカウボーイは頭を抱えていた。カウボーイは大きく息を吐く。女性審査員はというと、香水の先、調香師であるアリスを見つめている。
宇緑さんは続ける。
「僕は心をかき乱された。これは審査員の総意だ」
会場がざわめく。宇緑さんはそこでマイクを置いた。唐突な終わり方に司会者が面食らっている。それでも、審査員の意図を読み取ったようで、
「そ、それではこれより三十分間の審議に入ります。お集まりの皆様は本日候補となった香水をお試しになって、しばしお待ちください」
と言って一礼をした。
司会者が話し終えると、観客席の周囲に設置されていた什器に香水が載せられる。候補であった十種の香水が、調香師による解説とともに展開されていく。平時ではバロン社が一番人気で香りを試すのにも列を作らなければならなかったが、あのようなトラブルのあとでは閑散としており、たまに来る人も舞台上でのトラブルを尋ねる野次馬だけだった。
それとは対照的に僕たちの香水は大人気だった。香水慣れしているお客さんもあの手の審査員の反応を見るのは前代未聞で、だからこそ興味が尽きることはなかったのだろう。手前味噌だが、かつてない香りだと僕もアリスも自負していた。
僕は列の先頭にいたお客さんを招いた。嫌みな感じがしない貴婦人だった。僕は手のひらに香水を垂らした。お客さんは手で香水を仰ぎながら鼻腔に香りを送る。
「懐かしい香り。昔を思い出すわ……」
お客さんは目を瞑り、上方に顔を傾けていた。僕はアリスの顔を見る。アリスの顔が綻んだ。
僕たちは香水に思いを込めた。僕にとっての思い出は夏の日、夕方、カレー、おばあちゃんの家、帰省……。だから馴染みのあるカレー粉を入れた。田舎の新鮮な土の匂いを入れた。畳のい草の青っぽい香りも忘れなかった。アリスにとっての思い出はお母さんとの思い出だ。お母さん愛用の香水を割ってしまったこと、初めての調香はグリーンティーの香り、勉強に使った本の古びたにおい、庭園から花をひとつまみ……。何度も順番を変え、配分を変え、試行錯誤した。一つの匂いを加えるごとにアリスは輝く珠のような涙を流した。そうやって各々の一番大切な宝物の香りを重ねていったのだ。
ふと、僕は声をかけられた。
「お兄さん、ありがと。いいものを試させてもらったわ」
そう言ったお客さんは、皺のある目の端に涙を溜めていた。
「大成功だね」
僕はアリスに言った。
「うん。たとえ受賞できなくても、こんなに喜んでもらえたんだから言うことないわ」
アリスは穏やかに言った。
放送が流れ、僕は時計を見る。お客さんを捌くことで手一杯だったから時間を忘れていた。僕たちは再び特設スペースに集められた。舞台中央に十種の香水が並び、その背後に各々の香水に携わった企業や個人が控えている。僕も急いでそこに並んだ。
揃ったのを確認して、宇緑さんが代表でマイクを持つ。試香中のお客さんもこのときばかりは、こちらに目を向ける。
「それでは発表します。第五十回Perfume of the yearは……」
全てはスローモーションになる。宇緑さんの口元にマイクが近づく。口が開いていく。
アリスは胸の前で手のひらを組み合わせて、祈っていた。
「――――Alice、御影アリスさんのAliceに決定です」
その瞬間、割れんばかりの拍手が会場に轟いた。照明が眩しい。一拍遅れて金色の紙吹雪が舞った。
アリスに対して同業者から次々賞賛が送られた。アリスは上の空で返答する。握手を求める者もいた。アリスはなんとか握り返す。参ったな、という言葉が漏れ聞こえた。アリスは感情を整理する間もなく、宇緑さんからトロフィーを受け取る。
「圧倒的だったよ」
宇緑さんはアリスに静かに語りかけた。
「切なくて、胸が締め付けられるようだった。僕たちが正常な判断ができなくなるくらいに……。思い出を香りに託したんだね」
拍手は止まなかった。アリスは人々の顔を目に焼き付けて、また顔を伏せた。
「はい……。ありがとうございます」
アリスの声は涙にまみれていた。
僕は我が事のように喜んだ。アリスの喜びは僕の喜びに等しかった。本気で頑張っているアリスを見ていたからこそ、それが報われて本当に嬉しかった。
僕はアリスの肩に手を置いた。アリスは僕を振り返る。僕は肩から紙吹雪をひとひら取って、落とした。
「おめでとう」
するとアリスは、流した涙を打ち消すようにとびっきりの笑顔で
「ありがとう」
と、言うのだった。
その後に起こったことは言うまでもない。審査を終えたあと、すぐに僕たちへのインタビューが始まった。視界の隅でバロン社がマスコミに詰め寄られていた。調香師はうなだれている。受賞を逃したことだけじゃなくて、自身の将来を悲観しているのだ。スタッフもカメラのフラッシュから逃れるように早足で会場を後にしていく。バロン社の社章を外す者もいた。責任逃れに必死なようだった。
インタビューでアリスは多くを語らなかった。アリスにとっては語る必要がなかったのだ。香水を試してもらえれば全て分かります、と言葉よりもそこにある真実を選んだ。アリスは空間に香水を吹き付ける。粒子が空中に飛散する。アリスを取り巻く人々は一斉に上方へ顔をやる。香りが降ってくる。そこにはアリスの抱えていた重圧すべてが香水に込められていた。いい思い出も悪い思い出も、僕は、僕だけじゃなく全員が香りでアリスの考えが分かった気がした。
審査が終わって、イベントに移った。そこで一般のお客さんが入場してくる。この時間帯に来る層は香水マニアではなく、言葉通りの一般人だ。しかし、すでにネットで審査結果を知っているお客さんは一目散に僕たちのブースにやってくる。突貫工事のブースには大勢の人が押しかけ、すぐに人でいっぱいになった。受賞する気ではいたけれど、いざ受賞すると夢心地でとても現実には思えなかった。
僕たちは対応に追われた。休憩も食事もできなかった。でも、その熱っぽさは嫌いじゃなかった。アリスとは出会ってからたくさん言い合った。けれど、それがなかったら僕はアリスのことを何も知らなかった。傷つくかもしれないけれど相手の世界に飛び込むことで、僕はアリスを知ったのだ。
僕たちはこれまで培った阿吽の呼吸で対処していく。イベントは瞬く間に終わってしまった。祭りのあとの静けさが僕に名残惜しさを感じさせる。
けれど、ずっと消えないものだってある。
僕は微かに感じた。もはやイベントの痕跡なんて見当たらないのに、それは優しく鼻を撫でたんだ。
僕たちが撤収しても、香りはどこまでも風に乗って、永遠に、僕たちを、会場を、世界を包んでいく。
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