第17話 加齢臭は苦労人の匂い。あら、この人手から沢庵の匂いがする

 その日、神奈川は臭かった。


 全国各地から強烈な臭いを持つ猛者たちが、報奨金目当てで御影邸に列を作った。

 新聞は語った。しばらく見なかった異臭騒ぎが再燃した、それもまた新たな臭いとして、と。自治体では対処できなかったのだから、これには政府も黙っていなかった。状況を注視するという、お偉いさんが視力を競い合うフリで済む段階はとうに過ぎたのである。

 政府がコメントする事態に、僕は生きた心地がしなかった。しかし、幸いにしてアリスがその臭いを招いた張本人であるということは発覚せずに済んだ。代わりに全然無関係の海運業界の企業が謝罪させられていた。僕は唖然とした。

 御影邸で僕は受付係を命じられていた。候補者の比率は老若男女とはいかず、若い男に偏りがあった。それは御影アリスが美少女かつ気鋭という事実に興味を持ったのが若年の男に多かったためだ。新型コロナにかかる不況で仕事を探しているという背景も影響していた。

 候補者が簡単なエントリーシートを書いている間、僕は色とりどりの臭いに翻弄された。僕はマスクを二重にして難を逃れた。

「書けました」

 大学生くらいの男が僕に言った。

 僕は空欄がないか確認して、受付番号を書いた紙を渡す。紙の裏側には両面テープが貼ってあった。それを候補者は胸のあたりに貼る。

「幸運を祈ります」

 僕は本心じゃない言葉を伝え、回転寿司のネタみたいに流れていく候補者たちを見送った。こうやってアリスの元に円滑に候補者を送ることが僕の役目だった。

 僕は心中穏やかじゃなかった。嫉妬していたんだ。僕の考えが現実になってしまう危機感があった。

 当初、僕はアリスに賛成しなかった。あの手この手で他人の臭いに頼る危険性を指摘した。けれど、アリスは諦めなかった。絶対に香水を作り上げるという信念を感じた。僕もそれで折れてしまった。僕は彼女を阻害する障壁になりたくはなかったのだ。僕は自己保身をするのを止めて、支える決意をした。もしかしたら、二度とアリスの材料に戻れない恐れを抱きながら。

 そのアリスは広すぎるエントランスに設けられたやけに背の高いゴージャスな椅子に座って候補者を待っている。深紅の御簾らしきものを上階から垂らし、さながら王のようだった。ここで候補者と謁見するという流れである。

「ワキガなんです。色んな人にからかわれました。辛かったです」

 僕が見送った男が御簾越しに語る。男の声からは悲壮感が漂っていた。

 アリスは御簾を上げる。ということは第一段階はクリアということだ。もしも不合格なら、「またの機会に」というセリフを候補者に伝えると約束していた。近づかないと分からない臭いなどアリスには不要なのである。

 アリスは、くんくんと鼻を動かして男の臭いを求める。アリス曰く、テイスティング。鑑定士。

「悲観することないわ。臭いは個性よ。あなたはあなたらしくいなさい」

 と、年上にもかかわらず人生の先輩みたいにアドバイスを伝える。さぞ男は怒っているだろうと、僕は相次いで来る候補者を捌きながら男の横顔を垣間見ると、どうやらそうでなくて。むしろ、感激したような表情でアリスにお礼を伝えている。

「……ありがとうございます。ありがとうございます」

 声が萎んでいって、身体も跪くように連動している。窓から光が差す。その姿がまるで美術の教科書で見た宗教絵画の一種に見えた。

 男は最後に、「言われた通りのサンプルです」と言って布の切れ端をアリスに渡した。アリスは宝石でも受け取るような仕草を見せる。

 得たサンプルはオーディション終了次第精査して、合格者には個別に連絡するような算段になっている。この場で直接合否を伝えることはなかった。

 男はアリスに一礼し、僕の方へ戻ってくる。その顔はどこか晴れやかで、憑き物が落ちたような明るいものであった。

 アリスのオーディションは、ただのオーディションではなく一種のカウンセリングだった。臭いや匂いに悩んでいる人は想像以上に多くて、それに対してかける言葉は当を得ていたし、プラスアルファで救いがあった。ただ香水に使える使えないを考えるだけでなく、アリスはその先を見据えていたのだ。それは不合格者が後の香水利用者、すなわちお客様になることを冷静に見据えた打算的行為かもしれないが、僕にはアリスが本質的な優しさを備えているための行動に見えた。アリスはにおいの前では全人類平等と考えているのだろう。臭いも、匂いも全部ひっくるめて引き受ける覚悟があるのだ。

「加齢臭は積み重ねた年数の匂い。汗は労働の匂い、苦労人の匂い。――あら、この人手から沢庵の匂いがする」

 アリスの楽しそうな色めいた声が聞こえてくる。今まで迫害されてきた人々は、報奨金目当てでここに来た人々は、帰るまでに顔色が良くなっていく。

 僕はそんな人たちを見ながら、合否に関係なく来てよかったんじゃないかと思った。


 最後の候補者審査が終わって僕はすっかり草臥れていた。僕は手すりに寄りかかりながらアリスを見る。アリスは、サンプルがたくさん集まったとはしゃいでいる。底なしのエネルギーと表現するしかない。

「使えそうなのあった?」

 僕はサンプルとにらめっこしているアリスに聞いた。アリスはいてもたってもいられず、エントランスで物色し始めた。サンプルは小山くらいあった。アリスはその山を崩して、たった一つの宝を探している。気の遠くなる作業だった。肩代わりしたい気持ちもあった。でも僕の嗅覚は優れていないからアリスにとっては足手まといにほかならないだろう。

「まだ分からないわ。でも収穫はあったからこれからよく考えないと」

 アリスはサンプルを封入している密封パックの表面をまじまじと見る。密封パックには誰のものか、どこの臭いかがマジックで書かれている。アリスはパックを開ける。臆することなく鼻を突っ込む姿に頭が下がる思いだ。

「うっ……それにしてもスゴい臭いだね」

 僕は鼻を腕で庇いながら言った。アリスがパックを開けるたびに僕は嘔気を堪える。アリスは僕より嗅覚が繊細だから相当なダメージを負っているはず。本来だったら気絶するくらいなのに、弱音を吐かないのはそれくらいがむしゃらに取り組んでいるからなのだろう。これさえ耐えれば、理想の香水ができるという不退転の決意を感じた。

「こうしていると私の最初の依頼を思い出すわ」

 アリスは手を止めず、けれどしみじみと言った。

「依頼?」

「うん。中年の男性から、靴下の臭いを作ってほしいっていう依頼。中学生の女の子の」

 アリスはまるで何でもないことのように言った。

「それは……またとんでもないね。当然、断ったんでしょ」

「請けたわよ」

「請けたの!?」

 僕の驚いた声はエントランスによく響いた。

「だって初めての依頼だったし、それに依頼人の情熱が尋常じゃなかったみたいで」

 特殊な香り、それがたとえば磯の香りとか肉の焦げた香りならいざしらず、いくら依頼でも悪臭をそれも靴下の臭いなんて。 

「元々はお母さんが請けた依頼だったんだけど、手が回らなくて私に」

 アリスが事情を説明しても、普通人である僕は納得ができなかった。

「それっていつのこと」

「中学入りたてだったかしら」

「中学生に中学生の靴下の臭いを作らせるなんて……」

 僕はまたしても絶句。依頼する方もする方だけど、請ける方も請ける方だ。どっちも理解の範疇を超えてしまっている。

「その代わり言い値だったけどね。聞いてことないヘンテコな依頼だったから大変だったわ」

 ガハハ、とでも擬声したくなる豪快な笑い。

「そりゃあ大変だっただろうね。アリスの靴下をそのまま渡せば苦労せずに済んだのに」

「家の裏に焼却炉があるのだけれど、一回燃えてくる?」

 アリスの冗談に聞こえないトーンの冗談に、乾いた笑いを返す僕。

「ともかく、その人にとってはどうしても欲しい臭いだったんだね。世間的にはアレだけど」

「ええ。守秘義務があるからお母さんは教えてくれなかったけれど、切実な要望だったそうよ」

「切実ねぇ……。においにそんなに切実になれるんだ」

「においを軽視しないで。その昔、アレクサンドロス大王は匂いで世界征服をしようと企んでいたのよ。悠に渡した本にも書いてあったはずだけど」

 アリスは手を止めて僕を見る。そのまなざしには怒りはないけど、笑いもなかった。

 渡した本――そうだ。書いてあった。僕はアリスに言われて思い出した。

「あの教科書はお母さんにもらったものなの。ここに大切なことが書いてあるから読みなさいって。私もその意味がすぐに分かった。人は皆、香りを求めてる。まだ知らぬ香りだけじゃなくて、自分だけの特別な香りも。お母さんはそういうことを伝えたかったんだと思う。その信念を持って調香していた。――見て。このラボにある香水。そのほとんどはお母さんの作品なの。お母さんはざっと千人くらいの依頼をこなしていた」

「千人……。嘘みたいな数だ。お母さん、スゴかったんだね」

 アリスは頷く。けれど嬉しそうには見えない。何か思うところがあるのだろうか。

「キンバリーとリレンサって知ってる?」

「うーん、ごめん。二人とも分からないや。その人たちがどうしたの? 香水関係で有名な人とか」

「ええ。業界ではとても。望みの香りを作ってくれる芸術家とか魔法使いとか色々な呼び方をされている」

「その二人がお母さんとどう関係するの」

「実はその二人、どちらもお母さんの変名なの」

「ええっ!?? マジ?」

「マジよ。お母さんの遊び心ってのもあるけど、ああしないと依頼が来すぎて大変なの。朝も昼も夜も調香。いつ見てもお母さんはラボにいた。いつ眠っているのって感じだったわ」

 アリスは思い出に浸るように話した。

 と、立ち上がり。

「どうしたの?」

「さぁ、無駄話はこれくらいにして」

 アリスは僕に密封パックを渡す。

「何これ」

「手伝って。品名別に分けてほしいの。倉庫に台車があるから場所を移しましょ」


 それから日が暮れるまで黙々と作業した。仕分けの終わりが見えかけてくると、アリスは「後は一人でやるから。ありがと」と言った。僕は後ろ髪を引かれる思いで家に帰った。

 帰り道、僕はアリスの話を思い出す。このところのアリスの話は理想の香水像とお母さんの話ばかりだった。とくにお母さんについて。アリスのなかで作るべき香水と、目指すべき調香師が一致しているのだろう。屋敷からお母さんの姿が消えてしまっても、その残像はずっと残り続けていた。それはそれでいいことなのかもしれない。尊敬する人物に親を挙げることが褒められるように、目標の人物が母親なのは素晴らしいことだと思う。それくらいアリスのなかでお母さんは重要な位置を占めているのだ。

 けれど僕は知っている。お母さんの話をするのはそれだけの理由じゃないと知っている。

 ――においを軽視しないで。

 この言葉はアリスの考えが反映されているだけでなく、自分への宣言のようにも聞こえた。においを軽視しない。

 それはなぜか。アリスはお母さんに認めてほしいんじゃないだろうか。僕は言葉の端々からお母さんに対する憧れと、劣等感を感じ取っていた。

 ――お母さんは認めてくれない。

 僕はアリスから幻の声を聞いた。お母さんの才を閉じさせたバロン社への復讐はもちろんある。でも、それは半分正解で、半分不正解。

 お母さんに認めてほしい。だから香水作りをめげずに続けているのではないか。そのために理想の香水を探しているのではないだろうか。

 大量の香水と空き瓶、実験机に染みこんだ油滴のような染み、山積みのサンプル、ページが膨らんだ本たち。アリスを取り巻く環境を見て、僕はそう思わずにはいられなかった。

 家に着いて、食事もそこそこに僕は自室に入った。僕は長く開けていなかった押入れを開ける。そこにはかつて現役だった遊び道具たちが眠っている。僕は一つを手に取り、顔に寄せて、においを嗅いだ。埃っぽくて、家の中にあるのに外のにおいを孕んでいた。じっと、僕は堪能した。そんなことしたこともなかった。そうすることで香りから思い出を逆算した。防虫剤と木の饐えたにおいが覆っている。僕は僕の残り香を探していた。そしてその行為を通じて、アリスの気持ちをもっと深くまで嗅ぎ取ってみたかった。

 アリスは今頃どうしているのだろう――。

 僕はいつまでもにおいを探していた。

 そして見つけた。

 僕の香りを。

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