第18話 アリス、まずは落ち着こう。で、その

「はい。はい……。御影アリスはオーディションなんぞ始めていました」

 とある街中の路地。人影はない。男が電話をしている。

「――その通りです。募集要項には募集者が御影アリスだということも香水のことも一言も書かれていませんでしたが、悪臭の収集なんて彼女しかいない。案件を伏せていても私には分かります。潜入した甲斐がありました」

 男は自信に満ちた様子で言った。

「我々が彼女の香水を模倣したから、躍起になっているのでしょう。――ええ。脇が甘いにも程があります。彼女は簡単に話してくれました。あれはもはやオーディションというより、カウンセリングですね。無料の。あんなことをして何の意味があるんでしょう。私には彼らは害悪としか思えませんでした。――さて、どうしましょう。はっ、分かりました。早いほうがいいですね。我々も御影アリスと同様の香水を作ります。ええ。必ずや、ご期待に応えてみせます」

 男は電話を切って、闇に溶けた。



 ラインが鳴った。アリスからだった。僕は画面を開く。

 この時を待っていたんだ。

 ――収集が完了したわ。合格者にはこれから連絡して、お金を振り込む。

 アリスの文面を見て、僕はすぐさま文字を打ち込む。

 ――もう行っても平気かな。

 しかし、返信は期待通りとはいかなかった。

 ――今、仕上げの段階だから。ごめんね。

 僕は肩を落とす。

 末尾の絵文字があって気持ちは和らいだものの、僕は暗に来るのを止められていた。しかし、僕はおあずけを食らって数日も待っていたのだ。これまでずっと、アリスからの要望に応じてアリス邸に足を運んでいたが、もう自分の意思で出向いてもいいと思った。

 アリスは調香のほとんどを見せてくれなかった。ここまで関係が進んでも秘密にしている核心の部分だったからだ。見てはならぬ、と再三命ずるアリスは現代に蘇る鶴の恩返しみたいだった。恩、返されてないけど。

 僕は焦りがあった。アリスからは、おならのおの字も出なくて、すでにアリスのなかでは僕のおならは過去の遺物になっていたようだった。僕はやっぱりお役御免なのだろうか。これまで誠心誠意尽くしてきたのに。ラインもそれきり途絶えてしまった。

 日はまだ高い。礼儀として、アリスにラインを送った。

 ――少し顔見せたら帰るから今から行くよ。

 そうして僕は家を出た。



 着いてから思った。

 鍵閉まってんじゃん……。

 アリス邸は当然のことながら常時開放状態という無防備な家ではなかった。僕はラインを開く。既読はついていない。それはあえて未読にしているのか、それとも本当に気づいていないのか分からなかった。ひょっとして、香水作りに熱中していて気づいてないのか。僕としてはその線が正しいように思えた。

 仕方なしに僕は待った。けれど、変化はなくて。僕は痺れを切らして屋敷の周りを歩き始めた。よく手入れされた庭園を歩く。これじゃ散歩じゃないか、という感想は置いておいて色とりどりの花々は目の保養になった。と、部分的に踏み荒らされたような形跡がある。僕はその足跡を追った。湿った土の塊が点々と続き、ついに窓の下で止まっていた。

 何だろう……? 僕は首をかしげる。

 どうやら窓は実験室のものだった。白衣を着た女の子の後ろ姿が見える。アリスだ。

「ふんふ~ん♪」

 鼻歌が聞こえる。間違いなく毎日のように聞いていたアリスの声だった。

「私は天才~天才調香師~♪」

 上機嫌で歌っている。そこでいきなり調が変わった。

「yoyo、下僕のはるか、私と格差、放して悠、可愛いアリス」

 ラップ!? と声に出ていた。僕は慌てて口を塞ぐ。幸いにして聞こえてはいなかったが……。

 にしてもなんちゅう歌だ。僕は影でこんな呼ばれようだったのか。

 アリスは身体を揺らしている。当たり前だけど、アリスは僕の存在を知らないから歌っているわけで――。僕は見てはいけないものを見た気がした。

 僕はそっと窓から離れる。音もなかったから大丈夫。

 な、はずなのに。アリスは事もあろうにピペットを指揮棒のように振って、こちらを見てしまう。背中に目でもついてるのかよ!??

 そのときのアリスの顔を僕は生涯忘れることはないだろう。髪の毛がふわりと上空に持ち上がったのは序の口で、顔が熟れたリンゴのように赤くなり、瞼が外れるくらい目が開く。僕はアリスと、完全に目が合った――だけじゃない。アリスは白衣のボタンを閉めないで全開にしていて、そこには真っ赤なレースの下――いたっ!!

「んぎゃあああぁぁぁぁーーーー!!!! 何でいんのいつからいたの!? 変態変態ド変態。死ね、死ね。いやいっそ死んでやるぅぅぅーーー」

 アリスは僕に向かって走り寄り、勢いよく窓を開けた。僕は開け放たれた窓にしたたかに顔をぶつける。

「アリス、せせ、説明させてくれ。これにはわけが」

 僕は鼻を押さえる。が、アリスの剣幕に痛みなど忘れる。

「わけって何? 悠こうやって覗いてたわけね」

 息荒く、僕の襟を掴む。

「違うって。今日はたまたま」

「たまたま見つかっちゃったってこと!?? 常習? 常習なの」

「だから違うんだって。アリス一旦落ち着こう。で、その――」

 僕の視線を読み解いたアリスは、

「きゃあぁぁぁぁ!!!」

 白衣を急いで閉じて、へたり込み、もう一度悲鳴を上げるのだった。

 

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