第16話 鈍いわね。オーディションをするの。
僕はウサギのごとく走った。みぞおち辺りが痛み出す。それでも僕は走った。心臓の位置がずれる。でも走った。たとえ道行く人々の視線を一身に浴びても、僕は走ることを止めない。僕は主人公なのだ。ヒロインを助けるという使命がある。ドラマチックな病気にほだされたように走ることを求められているんだ。……と、でも奮い立たせないとこの年になっての全力疾走は恥ずかしいわけで。実際には五十メートル十秒の鈍足だけど、感覚的にはオリンピック選手。ともかく、僕はアリスのためにめちゃくちゃ走っていた。
御影邸に到着して、扉を開けて、戸を開けて、ドアを開けて、全部取り外して省略したいくらいのじれったさを堪え研究室に入ると、アリスは僕に見向きもせずダーツをしていた。
「ダーツ?? えーっと、アリス……?」
アリスは僕の呼びかけにも応じず、淡々とダーツの矢を投げる。白衣を着ずに、スウェットを着ている。これは何か重大なことが起きたに違いないと本能が告げている。身だしなみを整える余裕もないのだろう。
「何があったの?」
僕は遠巻きに聞いた。
「机、見て」
と、言ってまた矢を投げる。より力強く。電動工具で釘を打ち付けているみたいだった。
僕は言われた通り机の上を見た。雑誌が置いてある。以前、読んだ香水専門誌だ。開いたまま裏返っている。僕はそれを取る。
……さて、御影アリスの香水『Alice』に移ろう。課題は持続時間が短いことであった。それを改善するために様々な努力をしたことは認めたい。若年でありながら香りから逃避しない姿勢は賞賛に値する。しかし、今回ばかりは一言もの申したい。『Alice』は特定の香素が前面に出すぎて主張が激しく、人を選ぶ香水となっている。以前、私は野性的という点、つまり荒々しさを評価したが、なにも先鋭的であればいいという話ではないのである。元来、香水というものは使用者があってのものだ。この香水には使用者の楽しむ姿、先の未来が想像できない。性別は区別するのか。誰が、どのような状況でつけるのか、それが全く分からないのである。加えて、協調性のない香水とでも言おうか。……
僕は雑誌を閉じた。そこには宇緑さんによる酷評が書いてあった。アリスをもう一度見る。
アリスは片目を瞑り、照準を合わせている。
「読んだよ。ずいぶんな言われようだ」
「そっちじゃないの。バロン社の方」
えっ、と思って僕はページの端を見る。バロン社に関する批評はすぐに見つかった。
バロン社の進展は目覚ましい。ここのところ面白みのない香水の発表が続き食傷したいたが、ようやくバロン社の真価が発揮されたようだ。一嗅ぎするとぼやけた輪郭の清々しい香り。よくある調香かと思いきや、閃光のように大胆な香りが一閃。いやはや驚嘆した。前述の『Alice』といい、このようなトレンドが出来つつあるのか。
前回は圧倒的大差で御影アリスの勝利だと思ったが、今回はバロン社に軍配が上がった格好だ。この業界のますますの発展が望まれる。批評を加えてない香水に関しては調香師それぞれがその意味を一考してほしい。
黙読していた僕は顔を上げた。
「分からないよ。バロン社が褒められて悔しいってこと?」
「違うわ。ラインで送ったでしょ。やられたっていうのはね、パクられたってこと。香りを嗅いでみて」
僕は雑誌を置く。余っている丸椅子の上に乱雑に開封された箱があった。僕は匂い紙を取らず直に香水に鼻を近づけた。
「うっ……」
「どう? 分かったでしょ」
僕はこくりと頷いた。そこには匂いこそ別物だが、同じようなテイストの香りがする香水があった。いい香りだった。下手したらアリスのよりも。
「油断してた。お母さんのことがあったのに、二の舞を、演じる、なんて」
アリスは言葉を区切りながらダーツを打っていく。そのせいで的はボコボコ。……ん? 僕は気づいた。的は一般的な円状のものだけど、その上に紙が貼ってある。
「きっと、窓から覗いてたんだわ。こんなことならもっと警戒しておけばよかった」
アリスは力んで言った。
僕は、うわぁ、と声が漏れ出そうになった。
アリスはバロン社のロゴを的にしていた。わざわざプリンターで印刷して貼っていたのだ。
結構陰湿じゃん……。
ダーツの音は止まらない。バロン社のロゴは見るも無残な姿。
「それやめない?」
僕は我慢できずに言った。アリスの荒れている姿を見ていたくなかった。本人はいいかもしれないけれど、僕の精神衛生上よろしくないのだ。ピリピリしている人が近くにいると怖くなってしまう。僕は小心者なのだ。
「やめない」
「どうして」
「イラついてるから。あと十投は必要」
「じゃあ僕は見てることにするよ」
「あぁーイラつくイラつくイラつく!!!!」
僕はアリスの独特なストレス解消方法を眺めていた。アリスはしばらく投擲していたが、僕に見られているのが嫌なのか、あるいは自分を客観視することに成功したのか、腕をぐったりと下ろして長い溜息を吐いた。
「気が済んだ?」
僕は聞いた。
「少し」
アリスは実験机に突っ伏して、もごもごしながら言った。
「アリス」
「何」
「すごーく話しづらいんだけどさ、もう一個悲しいお知らせがあるんだけど」
このタイミングで切り出すことに躊躇いはあった。でも、いずれ発覚することだから事前に告白しておいた方がいいだろう。アリスの性格を考えれば尚更だ。
僕は、自分の体に起きた変化を伝えた。
そう、あれは二日前。おならが出なくなったのだ。
「嘘!? 嘘でしょ?」
アリスは顔を上げた。ただでさえ白い肌の血色がどんどん退色していく。
「ごめん、本当なんだ。両親に言われて初めて気づいた。原因は僕もよくわからなくて……」
僕は実験室の光沢のある床を見ていた。
分からないのは本当だった。もしかしたらと思う心当たりはあった。でも僕はアリスに嘘をついた。
なぜかって? 前に臭いが変化して以来、僕はその原因をずっと考えていた。結論が出ないまま今度は放屁さえなくなった。これが何を意味するか。僕は極度のストレスが体質を変えてしまったと判断した。つまり、恋が原因だとアタリをつけていた。直感的にこれだと思った。これしかなかった。僕はそれを言えなかった。
アリスが好きなのに、おならが出ないなんて。アリスが好きだから、おならが出ないなんて。
「……」
アリスは沈黙する。
「でも、また出てくるかもしれない。ふいに、気が抜けたときとか――」
「そんな悠長なこと言ってられないって分かるでしょ。最後の審査はもうすぐなのに」
アリスは僕の慰めを、気休めだと言って退ける。
「ごめん、アリス。君の心情を理解できなくて」
「ううん。悠に言っても状況が好転するわけじゃない。それに悠は悪くないわ……。これは事故みたいなもの」
「せめて僕の他に代理がいればよかった」
僕は言った。僕が双子で、食べるものも住むところも同じだったら同じ臭いのおならをしただろうか。
「――えっ?」
アリスの声色が変わった。僕を、真っ直ぐに見据えた。
「だから代理が……。セカンドプランがあればって」
「それよ!!」
アリスは僕を押し倒さんとばかりに立ち上がった。
「いきなりどうしちゃったの、アリス」
「悠が出なくなったなら他の人を探せばいいじゃない。どうしてもっと早く気づかなかったのかしら」
「えっ? それってどういう」
「鈍いわね。オーディションをするの。全国から臭いの猛者を集めて香水に詰めこむの」
「でもでも、あれって。そもそも香水を作るって、僕の臭いだからいいんじゃなかったっけ」
「確かにそうよ。悠の匂いは至高よ。でもね、この状況で選り好みできる場合じゃないの。一刻も早く最終審査に間に合わせるための臭いを集めなきゃ」
僕は焦った。自分のアイデアに殺されるかもしれない。だって、これが一時的にでも採用されたら、僕はお役御免になるということだ。付き合ってもないのにフラれた感じがする。もしも、恒久的なものになったら。そう考えると悪寒がした。
僕はアリスとの繋がりを失ってしまうかもしれない。
しかし、アリスにとってはそんなことどうでもよくて。
アリスときたら、新しいおもちゃを買い与えられた子供のような顔をしていたんだ。
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