第15話 アンバーグリス。またの名を龍涎香ともいう。

 男は額に汗を滲ませて歩いていた。

 御影アリスの屋敷は駅からは離れていて不便な立地にあった。かといって車でも入り組んだ道が多くて十年前も苦労したことを覚えている。

 だから、あえて徒歩で来ている。それに目的を考えれば身軽な方がよい。

 それにしても――。確かこの辺りだったはずだが。

 男は立ち止まり、汗を拭った。

 御影アリスの作った香水は、敵ながら素晴らしかった。オークションで落札できたのは幸運と思うほかない。

 彼女の香水は攻撃的で、エネルギーが溢れていた。若いからこそ作れる香りだ。経験が不足していることと、地位が確立していないことがいい方向に作用した攻めた匂いといえる。どちらかというと玄人向けの香水だと思った。

 と、強烈な臭気がした。男は手で鼻と口を覆う。もしや、と思ってその臭いを辿ると御影アリスの屋敷が構えていた。

 まるで犬だな。男は自嘲した。

 静かに近づいて、庭園に身を隠す。ここで見つかったら一巻の終わりだ。身をかがめながら臭いの在りかを探す。近づいている感覚があった。臭いは強く濃くなっていく。

 開け放たれた窓から、漂ってくる。色が見える気がした。慎重に外壁に体を沿うように移動していく。

「うわ、くっさ。ゲホっ……。アリス、臭すぎるよ」

「私が臭いみたいに言わないでよ。これは悠が強すぎるだけなんだから。強すぎてトラップできないわ」

 トラップ――保持すること。化学者の用語だ。それよりも御影アリスの声に間違いなかった。もう片方の声は分からない。彼氏だろうか。いや、もしや噂のパートナーだろうか。

 御影アリスがパートナーを採用したらしい噂は有名な話だった。彼女はパートナーを取りたがらない。それはかつて母親がレシピを盗まれるという事件があったからだ。もっとも、その盗んだ人物というのはパートナーではなく、バロン社の社員である私なのだが。

「僕はいつもと変わってるつもりはないよ! 日常のおならだよ」

「いいえ。今日は特にヤバいわ。悠のおならったら殺人級ね」

 おなら? 今、御影アリスはおならと言ったか。

 男は確かめるべく、わずかに頭を覗かせる。

 衝撃的な光景だった。高校生くらいの男が小さな機械に向けて臀部を向けていた。それに輪をかけて異常だったのは、「がんばれー」などと御影アリスが応援しているところだ。

 おならを応援している? 男は眉間を指で摘まむ。理解ができなかった。そういう性的嗜好なのだろうか。

 はたまた――。

 はっ、と閃くのを感じた。おならを香水に利用しているのでは。

 まさか、と思った。しかし次の瞬間には、あり得なくもないと思えてきた。悪臭を香水に加えるという発想は常人では到達できない。けれど、それこそ御影家が調香師のとして名を馳せた所以だろう。

「酷いよアリス。ゲホっ。ひょっとして神奈川の異臭騒ぎってアリスの香水作りのせいもあるんじゃないの」

「なわけないでしょ。っていうか、アレ、悠だったの!?」

 呑気なものだ。こちらに気づかず痴話げんかなんて。

 男は元来た道を戻ろうとする。

 次の審査は楽しい結果になるに違いない、と自然に笑みがこみ上げる。


 香水の秘密を奪われたことを、二人はまだ知らない――。



 僕たちは研究室で香りの保持方法を話し合っていた。アリスの考えていた方法はどれも不発だった。だからこそ、僕も加わったのだけれど勉強ダメダメの僕に成果なんか出せるわけもなく、議論は行き詰ったかに思えた。

 ひたすら屁を要求される役割に業を煮やした僕はシャーペンを実験机に転がす。

「もうさ、自分のおならでいいじゃん」

「それは無理な話よ」

「どうして」

「私がどれだけ苦労したか分かってる? お母さんが香水作りをやめてから道に漂うものは何でも嗅いだわ。自分の嗅覚を信じて、すれ違う人の残り香、雨の日の土、シュールストレミング、そうそう今思い出した! 忘れもしないおっさんの……」

「いい、いい。聞きたくないよ」

 僕は溜まらず遮った。

「何よ。自分から言い出したんでしょ、教えたげる」

 アリスは僕の腕を強引に耳から引っぺがし、いかに自分が苦労して香りを探し回ったかを語り出した。具体的すぎて逃げたくなる部分もあったけれど、それは昔僕がASMRにハマっていたときのことを思い出させた。

 あのとき、自分は熱中してたな。僕はかつての情熱に溢れていた自分の姿を振り返った。音探しに無我夢中な僕。そう思うと、アリスの熱意は僕が幼い時からずっと続いているのだからスゴすぎる。一つの事柄に対する気持ちを篝火みたいに燃やし続けることはどれだけ大変なことか。僕はアリスの気持ちに敬服するばかりだった。

「そういうことだから、色々あった結果、悠に辿りついたの。他の誰でもなく悠じゃなきゃダメなの」

 それは別の場所、場面で聞きたかったセリフだ。

「そんなに屁に困ってるならいっそ元をたどればいいじゃん」

 僕が言うと、アリスは不思議そうな顔。

 アレ? もしかして本当に分かっていない?

「もっと分かるように言って」

「だから……元って言ったら一つしかないじゃん」

「なんなのよ。じれったい」

「だからさ、あのぉ……うん――」

「ちょっとあり得ないわ。あり得ない発想」

 アリスは僕からすっと距離を取る。その後に続く言葉を徹底無視。

「同じじゃん。おならと、うん――」

「あぁーーダメダメ。違うわ。全ッ然、違う。悠の、うん……なんて。そこまで来たらもうお終いよ」

 アリスは全然という単語を力強く溜めて言った。

「ちょっとデリカシーなさすぎるわ。さすが悠って感じ」

 腕を組んで、沸騰したみたいになっている。が、それだけじゃ怒っているのか恥じらっているのかよく分からない。僕だっていつもふざけているわけじゃない。これでも真剣みはあるんだ。

「そうやってまたアリスは馬鹿にする!」

「あ」

 何を思ったのか唐突に停止するアリス。

「えっ。今度は何」

「でも待って。それに着目するとはなかなかいい発想ね」

「へ? ……どういうこと?」

 意味が分からなかった。アリスは立ち上がり白衣を翻して鍵のかかった棚に向かう。それから大切そうに瓶を抱えて戻ってくる。

 そっと置かれたガラス瓶を僕は目を細めて観察する。黒い石が窮屈そうに蹲っている。変わった感じはなくて、道端に転がっていたらちょっと大きいなと思うくらいの変哲ない石。

 アリスを見る。僕が何を考えているのか見抜いてくれたようで、アリスは説明を続ける。

「アンバーグリス。またの名を龍涎香ともいう。その価値は金の十倍ともいわれる」

「そんなに!? この石が?」

「ただの石ころじゃないわ。結石。これはマッコウクジラの腸内にできる結石よ。つまり、腸内にあるはずのそれがここにあるということは――」

 分かった。アリスが言わんとしていることが分かりすぎるくらい分かった。

「……糞?」

「ピンポン。正解。おでこに、はなまる書いてあげようか?」

「遠慮するよ」僕は言った。「それにしたってどうしてそんなに高いの? 鯨も動物なんだから糞なんていつでもしてるでしょ」

「普通の糞じゃダメなのよ。動物も鯨じゃないと。長い間腸内に留まっていた結石が、これまた長い間海の塩水に浸かって、発見されるっていう過程がないとダメ。それってとっても珍しいのよ? だからといって強引に捕鯨みたいなかたちで捕ったものは価値が下がるの。嗅いでみたら分かるけど、お世辞でも香りがいいとは言い難いわ」

「……そうなんだ。香りって奥が深いんだね」

 僕は素直に感心して大きな感嘆の声を上げた。

「そう。分かってくれた? だから悠がおならを遡っていった発想はあながち間違っていないの。実際、私の香水の発想はアンバーグリスだからね。それで悠のおならを捕集しようとしたのだから」

 僕は開いた口がふさがらなかった。真面目に返されるとは思わなかったし、アリスはそれでおならの着想を得たのだというから。アンバーグリスよ、余計なことをしてくれたものだ。

 そんなこんなで僕対アリスの口論は一応の決着はついたのであるが、香りの保持方法はてんで浮かばなくて、袋小路。ついにアリスはもう一度一人で考えてみる、と言って僕に退出を促した。

 やっとのことで、僕はアリス邸に来ることができたのに……という気持ちはどうにかコントロールして、僕は帰宅の途についた。

 また、しばらく出禁なんだろうな。

 家に帰った僕は適当に母に言い訳をして、ベッドに大の字になった。疲れたら気にならないだろうと思っていたけれど、やっぱりベッドはアリス邸のものと違い安価な感触で、アレを使ったらどんな人間だって戻れないと思った。

 僕はそれから、香りの教科書を開いた。アリスから借りたものだ。香りと歴史の物語が記してあって、教科書というより読み物の側面が強かった。ページを繰るたびに、古今東西、人々が珠玉の香りを追い求めようとする姿があった。

 夢中で読んだ。読み進められるか不安だったけれど、昔も今も誰かが何かに熱中していく姿は胸を熱くして。どこか、僕がしていたように音を追求する姿と重なるところがあった。そう思うのはおこがましいだろうか。情熱の量には、僕とアリスでは明らかな差があったのだから、アリスに言ったら失笑されてしまうだろうか。

 本は三日かけて読み終わった。気づけば朝になっていた。学校は十時からだから問題なかったけれど、スマホには全然注意を払っていなかった。

 

 だから――。

 アリスの香水『Alice』の審査がとうに終わっていることに気づかなかったんだ。

 だから、アリスからのライン「やられたわ」の一言に僕は学校も忘れて駆けだすことになったんだ。

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