第14話 よし、分かった! もっさりエアーは
一次予選が終わって帰宅が許されてからというもの、僕は抜け殻になっていた。その頃には厳しい食事管理をしなくてもおならの安定供給が可能になっていた。僕はアリスに解放を宣言されたのだ。
普通だったら喜ぶべきことなのだろうが、僕は素直に喜べなかった。それだけアリスと過ごす時間が減ってしまうのである。
アリスとは頻繁に連絡を取っていた。けれど、いざ「会おう」と言い出すと何かと理由をつけてはぐらかされた。以前よりは表に出ることはなかったが、アリスは時折受験前の中学生みたいに刺々しくかつ荒々しかった。僕のおならを保持する方法を編み出そうと苦戦していることが容易に察せられた。
触らぬ神に祟りなしとはこのことだ。僕は自宅で悶々とした日々を過ごした。意味なく部屋をうろついたり、散歩に出かけてみたりした。気を紛らわせようとしても不安定な気持ちはなかなか解決しなかった。僕の脳にはアリスがずっと居座っていた。
そんなある日、「香水の名前を決めるから来て」とアリスから連絡があった。いくつかの候補のなかから僕の意見を聞いてみたいとのことだった。
僕は舞い上がっていた。久方ぶりのアリス邸。研究室へ行くと、アリスは黄色いレポート用紙を見せてきた。『ゴッドブレス』『ハルカドリーム』『神性』と並んでいる。これが香水の名前候補なのだろうか。
僕はアリスに説明を求めた。
「ゴッドブレスってどういう理由で考えたの」
「神様の吐息かしら。あの香りをたとえてみたの」
「ハルカドリームって僕の名前じゃん」
「ええ。あなたが成分だから」
「神性って何」
「聖なるもの。でも意味っていうより、バロン社の神話シリーズにぶつけたかったの。対決姿勢を分からせられるでしょ」
アリスは言った。一応の理由付けはあったけれどアリス自身もこれでいいのか迷っているように見えた。僕の意見としても正直ピンとこなかった。そんな表情を読み取って、
「再考が必要かしらね」
アリスは折りたたんでゴミ箱に捨てる。
「他のメーカーはどうしてるの?」
僕は聞いた。
「花とか愛とか夢とか聞こえのいい言葉を使ったり、あるいはデザイナーの名前をそのまま付けたり、まあいろいろ」
「よし、分かった! もっさりエアーは」
「今の話聞いてた? 悠ってネーミングセンスないって言われない?」
アリスは糸みたいな目をして僕を見る。
アリスだって大概だろう、と思ったけれど僕は口に出さない。
「適当じゃダメ? 試作品の番号をそのまま活かすとか。案外、買う方は名前なんて気にしてないかもよ」
「数字は某ブランドが同じことやってる。だから真似はできないわ。それと、名前は大事よ。悠の名前がおなら亭はるか丸だったら嫌でしょ」
それを言われたら僕は黙るしかない。反論は無理だった。
しかし、僕にはまだ言いたいことがある。
さっき、アリスはこう言った。デザイナーの名前をそのまま香水につけることがある。だったら、なぜアリスはしないのか。アリスほどの腕ならば名前を冠してもいいと思うのに。僕は知ってる。アリスには経験も実績も積み上がりつつあることを。僕は間近で見てきたし、ネットにも書いてあった。
「ひょっとして自信ないの?」
「なななわけないでしょ。この私よ! 御影アリスよ。専門誌に載る腕前の私がそんな弱気でどうするわけ」
アリスはマンガめいた狼狽えを見せる。分かりやすい。
「図星なんだ」
「うっ……」
アリスは口ごもり、力なく丸椅子に崩れ落ちる。
「だって、だって……自分の名前よ? 一生歴史に残るかもしれないのよ」
「うん。アリスにも謙虚なところがあって安心したよ」
「他人事だと思って」アリスは肩を落とす。「どうしよう」
アリスは重圧を感じているようだった。理想の香水を作ろうともがいて苦しんでいるのだ。だから僕にとっては名前なんて些末なことと思ってしまっても、ここまで決定に時間がかかってしまう。他にやるべきことがあるのに。
僕は背中を押すべきだと思った。
「僕はアリスって名前、いいと思うけどな。アリスの努力はこのラボを見れば充分分かる。努力してきたんだって。その努力が報われるときなんじゃないかな」
僕が視線を実験机の小瓶たちに誘導すると、アリスもつられて見る。
「悠ってたまにはまともなこと言うのね」
「違うよ。僕はアリスを元気づけたくて」
アリスは僕の口の前に手のひらを突きつける。
「いい。分かった」
「でも……。あの香水はアリスの本気なんだろ。だったら」
「ううん、そうじゃなくて。香水の名前はアリスにする。英語で」
「ホント?」
「ええ。悠もそう言ってくれてることだしね」
アリスは言った。
僕は最初アリスという人間は自由奔放なタイプかと思っていた。けれど、アリスは意外にも繊細な女の子だった。
出会ったときはどうなることかと思った。アリスは暴力的だしとんでもないことになったと思った。でも今はアリスがいない日常は考えられない。オークションが終わって、僕は落札額の40%をもらった。でも、そんな大金をもらっても僕の使い道はなかった。それより、バロン社に対する憎しみを知って、僕はアリスを治したいと思ったんだ。純粋に香水を追求するならまだしも、憎しみが動機になるのはいい結果になったためしがない。
僕はアリスを支える人間になりたかった。
「名前も決まったことだし……。さ、やるわよ!」
アリスは弾かれたように立ち上がる。
「やるって、何を」
「決まってるじゃない。保持の方法。いくつか思いついたからやってみるわよ」
そう言ったアリスは元気に白衣を翻らせた。
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