♪ 残り香と移り香 ♪

第13話 どんな臭いも還元すれば化学物質なのよ。出元は重要じゃない。

 調香師が理想の香りを語るのは簡単だ。ただ、聴衆に向けて綺麗な言葉を並べ立てて話せばいい。しかし、御影アリスは成し遂げた。齢十四にしてすでに完成されている――香水専門誌「白樺」


 御影さんはご満悦な表情で、僕に専門誌を見せてきた。僕はそれを流し見る。評価されるであろうことは予想できた。だから、僕としてはそれほどの驚きはなかった。それよりも驚いたことは年齢だ。十四だって? 僕の二個下じゃないか。

 そのことを聞くと、

「何言ってんだか。結城くんが勝手に誤解してたんでしょ」

 と言う始末。

「だって制服が」

「私のとこ中高一貫校だから似てるのよ。中学と高校の制服が」

「まさか」

 僕は額に手を当てた。そんなこと知らなかった。するとなんということだろう。僕はこの可愛いけど失礼な年下にため口を聞かれていることになる。結城くんだの、コンドームオナニー野郎だの言われっぱなしだったことも昨日のように思い出される。

 それと同時に、御影さんは知っていて黙っていたことになる。

「そういうことなら呼び方を変えないと」

「奇遇ね。私もそう思っていたところ。じゃあ、どうする?」

 御影さんは専門誌を筒状に丸めて持つ。

 僕は考えた。苗字の呼び捨ては親しさのかけらもなくて嫌だった。すると選択肢は一つしかない。恥ずかしいけど。

「アリス」

「は? 香水の話よ」

 御影さんは目を見開く。

「そっち!?」

「そっちでしょ。――でも、まあ、そうね……。アリスって呼んでもらっても構わないわ。私も悠って呼ぶから」

 御影さんは小声で笑った。

 僕はアリス、御影さんは悠と呼ぶ。名前問題はそういうことで決着がついた。僕としては距離が近くなった気がして嬉しかった。

 香水の名前は後回しということになった。僕たちはパソコンのモニターを見ていた。もっと優先すべきことがあったのだ。画面には数字が表示されている。概要欄には『御影アリスの新作香水、プロトタイプ』と記されている。

「さあ、どうなるか見物ね」

 オークションスタートだ。

 かけられているのは僕たちの香水。このご時世だからオークションもネット越しで行う。これなら密を避けられる。

 zoomで参加者の顔を見る。いかにもな金持ちが連なっている。本当は顔を映す必要はないけれど、アリスは顔を見たいとのことで、こういう設定になっている。

 数字がカウントアップしていく。僕は頭のなかの電卓を叩いた。時給換算でどれくらいになるだろう?

 アリスは宇緑さんの評価を得た後、すぐに一般の評価を求めた。評論家と一般人とで評価は乖離するものだからだ。映画や音楽で似たような現象が起きるから、僕も理解できた。

 とはいえ、バロン社と違ってデパートなどへの販売ルートは持っていない。アリスのお母さんのやっていたように受注生産をするには心細い。今までも希望の香りを調香することはあったけれど、この香水はオリジナルでなんたって完全新作なのだ。というわけで、生産量の問題もあって先行試用できる権利を売るオークション方式がいいと結論に至った。先着一名のみの早い者勝ちである。

 僕は物言わず数字を見ていた。御影さんは落ち着いていたが、僕は浮き足立つ気分だった。香水一つでここまでのお金が動くことが信じられなかった。たかが香りされど香りということなのだろうか。まばたき一つの間に一万円が足されていく。それもこれもあの専門誌の評価のおかげ。僕は宇緑さんの絶大な影響力に驚いた。

 同時に、アリスと客のチャットをドン引きして見ていた。だって取引されているのは何を隠そう僕の屁なのだ。

 吊り上がっていく僕の屁。アリスに罪悪感はないか問うと、「どんな臭いも還元すれば化学物質なのよ。出元は重要じゃない。重要なのは香り、ただ一点」だそうだ。   

 僕は分かったか、分かってないかのような絶妙な顔をして、「へぇ~」と空気の抜けたような声を出す。


 香水はほどなく落札された。落札者は男性だった。どういう想いで落札したのだろう。僕は心情が知りたかった。好事家なのだろうか。事情はどうあれ、せっかくだから使ってほしかった。たとえおならであっても、ここには僕たちの努力の結晶が抽出されているのだ。

 けれど、心配は無用だった。アリスは『後日、感想をお聞かせください』と滑らかな動作で打ち込み、席を立った。

 僕はアリスが何をするつもりなのか聞くまでもなく分かった。

 僕たちが次にしなければならないこと。それは、香りを持続させることだった。

「今回はまぐれみたいなもの。私たちが作る香水はオーデコロンの短い時間のものじゃないの。香水、パルファンは保持しないと意味がない」

 アリスは自分への決意表明のように言った。

 いいタイミングだと思った。僕はそこでかねてより考えていたことを言おうと決めた。

「あのさ、アリス」

「何?」

 アリスは実験器具を用意しながら、返事をする。

「実はさ……」

 僕は腰の後ろで腕を組む。

「何よ。じれったいわね」

「僕も手伝いたいと思って。おならだけじゃなく、パートナーとして」

 言った。言ってしまった。どういう反応をするだろう。

 するとアリスは本棚に向かう。

「アリス?」

「ん」

 アリスは僕の目を見ずに、本を差し出す。

「何、これ」

「香りの教科書。初学者でも使いやすいと思うわ。パートナーについてはちょうど私も考えていたところなの。か、勘違いしないで。悠がいいってわけじゃないのよ。たまたま悠がいて、タイミングがあったから……」

「アリス……」

 嬉しかった。アリスが僕を材料としてだけでなく、パートナーとして認めてくれたことに。宇緑さんの前で自分がパートナーだと言ったことが現実になったのだ。

「何よ。受け取らないなら戻すわよ」

「いや、嬉しいよ……。ありがとう、アリス」

「ふん。お礼は良いからしっかり勉強してよね」

 口調はいつものアリスだったけれど、その中に仄かな優しさを感じた。

 アリスは白衣を着る。もう一着余った白衣があって、それを僕に渡す。

「私が使ってたやつだけど」

 僕はアリスに渡された白衣を着る。丈が足りないけれど、どうだっていい。僕は女の子に白衣を借りているのだから。その事実を喜ぼうじゃないか。

「せっかくだから簡単な香水を作ってみる?」

 アリスは僕の初々しい反応なんか気にせず、シンプルな小瓶を持ってくる。

「いいの?」

「ええ。悠には協力してもらっているから。それに――あの臭いの暴発のときも助けてくれたでしょう。そのお礼をかねて」

「ありがとう。実は興味があったんだ。でもどうせなら僕のおなら香水を作っているところを見たいけど」

「それはダメ」

「そこをなんとか」

「ダメったらダメ。あれは仕事で一番大事な工程なの。いくら悠でも見せられないわ」

 アリスは何かを隠すように言った。どちらかというと恥じらいのように見えた。といっても僕の推測は当てにならない。前にお母さんのことで言葉を濁したのも、微妙に僕は勘違いしていたから。

 とは言いつつも、気になる……。アリスはどんな秘密を抱えているのだろう。いずれ時が来たら再び聞いてみようと思った。

 香水作りは捗った。アリスは教えるのが上手かった。幸い僕の鼻はよく機能していてアリスを煩わせることはなかった。二次予選が迫っていたのにアリスは優しかった。これまではそんな余暇的な行為は許してくれず、一直線に香水作りに勤しんでいたのだ。

 僕だから、かも。

 帰り道、うぬぼれに近い期待感で僕はガッツポーズをするのだった。



 男はパソコン画面を閉じる。

 御影アリスの香水は予想以上の反響だった。やはり御影アリスは親譲りの才覚を持っている。彼女のせいで我が社の香水は二番手に甘んじた。

 金に糸目をつけないでいい。本部からの命令だった。オークションは無事落札できたが、彼女の屋敷に行ってみようと思った。

 偵察しないことには分からない。分析にかけても成分が判明するだけで、方法は不明だ。その成分だって正確とは限らない。

 あのときのように、匂いの正体を突き止めなければならない。

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