第12話 君は唯一無二だ。お母さんも誇らしいだろう

 

 応接間は初めて目にする部屋だった。

 でも、お屋敷の大きさから考えて、そういう部屋があるのは妥当と思えた。だから、今後何部屋出てきても驚きはしない。ひょっとしたら拷問部屋だってありそうだ。――冗談だけど。

 僕と御影さんはこんなに大きいの必要ってくらいのソファーに座り、評論家の宇緑さんと向かい合った。

 宇緑さんは眼鏡を拭いて、もう一度掛ける。

 この人が評論家か――。僕は至極当たり前の感想を抱いた。

 ダンディーなおじさまという風貌だった。僕は電車にいるサラリーマンと何が異なるか観察した。まるで別のタイプのスーツを着ているように見える。とにかくよく似合っているのだ。微妙に光沢があってくたびれた感じがしない。

 ネクタイピンがギラリと光り、それと同調するように革靴も控えめに光る。でも華美かというとそうではなく、品があって礼儀正しさを感じた。

 厳しい、と思った。宇緑さんには隙がないのだ。服装から類推するに審査も甘くはないだろう。

 それを証明するように御影さんも膝の上に手なんか置いちゃってる。借りてきた猫感は僕の前では絶対見せない態度だ。

「どうぞ、ご査収ください」

 御影さんがテーブルに小箱を置き、それを宇緑さんが受け取る。

「確かに」

 こうするのは昔の名残だそうだ。人の手を介さないのは体温が香水に移るのを防ぐためと御影さんに教えてもらった。もっとも、現代の技術レベルならそれを防ぐのは容易なのだが、そういう慣習を大事にするのがこの業界。

 宇緑さんは箱を開けると、小瓶を取り出した。糸のように細い目が少しだけ開いて鋭い光が宿る。傾けて液体が動く。色を見ているのだろうか、僕には分からないけれど、思うことは一つ。つまり、じれったい。

 充分に外観を堪能すると今度は黒塗りの鞄の留め金を外す。なかからは自前の調香羽。小瓶から香水を、慎重に羽に垂らす。

 数秒待ってから、特徴的な鷲鼻を近づけていく。

 運命の時。御影さんの喉が動いた。

「これは……」

 宇緑さんが厚みのある声で言う。

「よく練られている。感心したよ」

 御影さんは、ふっと肩の力が抜けたようになる。

「ありがたいお言葉です」

「一年前からかなりの進歩といえる。驚いたな……。僕のレポートは読んだかい」

「はい。先生にご指摘いただいた点は私も自覚していたところなので。今一度自分の香水への向き合い方を見直すいい機会になりました」

 宇緑さんは目を閉じながら、頷く。満足そうな表情だ。

 話しぶりからして、二人は知り合いのようだった。あまり親しくない親戚とのやり取りを見させられているみたいだった。調香師と評論家の関係は僕の想像よりずっと長く続いていたのだろう。

「そうか。役に立ったようでなにより。それにしても大胆な香りだね。挑戦的だ。どこかアメリカのガレージと荒涼さを想起させるところもいい」

「ありがとうございます」

「香素は何を?」

「植物系を中心に、あとは――」

 そこで御影さんの語尾が消えた。続く言葉はたぶん、アレだ。でも言えっこないだろう。香りの専門家に、おならを使ってますとは。

 しかし、ここで助け船。宇緑さんは御影さんが考えているのを見て、

「ああ、失敬。元調香師の性で良からぬことを聞いてしまった。調香師にとってレシピは命より大切なものだ。それを聞いてしまうなんて僕は悪い男だ」

 宇緑さんは取り繕い、自分の持ち物をしまい始めた。

「そろそろ帰るよ」

「もうですか」

 御影さんはどこか名残惜しそうに言う。

「ああ。もう充分香りは楽しめたよ。飛行機の時間があるからね。時間が押してて大変だ」

「お見送りをします」

「ありがとう。お願いするよ」

 宇緑さんは言った。

 僕たちはエントランスに向かった。僕は二人の後ろ姿を離れたところで眺めていた。

 じゃあ、と言って帰ろうとした宇緑さんは去り際もう一度振り返った。

「結果は後日、紙面で。だが、身構えなくても大丈夫だろう。君の香りは唯一無二だ。お母さんもさぞ誇らしいと思ってるよ」

「はい……ありがとうございます」

 御影さんの返事には間があった。

「それと、君は――」

 僕に対しての呼びかけだった。

「結城です」

「結城くんは彼女のパートナーだったね。一年前、君はいなかった。君と出会って香りが変わったのかな。僕はこれを良い変化だと思ってる。くれぐれも、支えてやってくれよ」

 意味深だった。そう言い残して宇緑さんは扉の向こう側へと消えていった。

 扉が閉まったことを期に、僕は御影さんに話しかけた。ようやくおしゃべりが許される空気になった。

「御影さん、よかったじゃないですか! 宇緑さんって辛口なんですよね。その人に褒められたってことは受賞間違いなしですよ」

 僕は前のめりに言った。喜んでもいい場面だった。でも、どういうわけか御影さんは嬉しそうには見えなかった。

「御影さん……? 嬉しくないんですか」

「嬉しいわ」

 そっけない返事をして、足早に研究室に戻っていく。

「じゃあ、もっと喜んでもいいと思います。控えめすぎますよ」

 僕は慌ててついていった。

「私だって本心では飛び跳ねたいくらいだわ。でも……でもね。これで良くも悪くも注目されるようになった。宇緑さんが評価するなんて尋常なことじゃないの。きっと、あそこは黙っていないでしょうね」

「あそこって」

「バロン社。世界最大手の香水メーカー。そして、私の――」

 御影さんは言い澱み、

「仇」

 険しい目つきで言った。



 僕たちは研究室の丸椅子に座っていた。御影さんは実験机を指で叩いていて、落ち着かない様子だった。やがて、御影さんは静かに話し始めた。

「お母さんはね、バロン社で働いてたの。まだ有名になる前の小さな会社だったときから。身内が言うのもアレだけど優秀な調香師だった」

 物思いに耽るように御影さんは話した。

「会社に勤めて何年か経って、独立を考えて……。もともと向上心の強い人だったから独立は時間の問題だった」

「独立で会社と揉めたということでしょうか」

「ううん。むしろその逆。独立してからも頻繁に交流はあったらしいわ。前職の人が行き来してるのは私もよく見ていたから。だから、独立してから関係が悪くなることもなくて、その後もバロン社とは良好な関係だったといえる。でも数年してバロン社がセイレーンを出してから状況が変わった」

「セイレーン?」

「神話シリーズ。神話の登場人物を香水化したもの。結城くんはコマーシャルで見たことない?」

「あると思います。あのソシャゲみたいな」

「そう。今でこそシリーズ化されて世間に認知されているけど、その走りはセイレーンだった。バロン社はセイレーンのおかげで世界一の企業になれたのよ」

 そう言った御影さんの口調は強かった。

「分かりません。それがどうしてお母さんと繋がるんですか」

「そのセイレーンはお母さんが独立後に作った香水だったの」

「そんな……」

 僕は言葉を失った。

「そんなのパクリじゃないですか!! どうして訴えなかったんですか」

「言ったわ。でもね、香りのレシピをお母さんが考えたことは認められなかった。もちろん、お母さんの言い分を理解してくれる人もいた。けれど、その人だって全面的とは言えなかった。バロンの設備があったから調香できたとまで言われたらしいわ」

「ヒドすぎる」

「嘆きの香り。お母さんは長い間ずっとその香りにかかりきりだったから、すごくショックを受けてた。自分の香りを誰かに奪われたことと、それを奪ったのがまだ小さな会社だった頃から尽くしてきたバロン社だったことに……。それでもお母さんは気丈にふるまっていたわ。私には隠せていると思ったのでしょうね。でも、ある日の晴れた午後だったわ。私は研究室に、お母さんが使っていた研究室で、お母さんの変わり果てた姿を見てしまったの」

 御影さんは黙り込んだ。僕はその先の言葉を察した。

「御影さん、もういいです……。分かりました。……辛かったですよね」

「ええ。辛かった。まさか、海外に行っちゃうなんて」

「海外に……えっ」

「お母さんはウェットスーツを着てた。一瞬、思考が止まったわ。お母さんはずっとサーフィンがやりたかったみたいなの。私が引き留めてもお母さんは譲らなかった。海外に波が待ってるから、って言って聞かないの。変わり果てた姿だったわ。……ん、何? 何か気になることがあった?」

「いえ……ただ、僕はもっと良くない想像をしていました。変わり果てた姿なんて言うから」

「これが変わり果てた姿じゃないならなんて言うの。調香師からサーファーよ。まるで突然変異じゃない。これ見てよ」

 御影さんはそう言うと、リラクゼーションスペースのデスクから写真を取りだした。写真には砂浜にサーフボードを立てた女性が笑顔で映っている。

 僕は別の意味で言葉を失った。

「お母さんは引退したわけじゃないわ。今もホテル暮らしで、各地の香りの学校で生徒さんに調香の基礎を教えたり、簡単な香りを作って生計を立てている。でもね。オリジナルの香りを作ることからは完全に身を引いた。才能を手放したの。だから、私は復讐したい。バロン社に、香りで。香りの刃を突き立てたいの。仇を香りで報いてやるわ!!」

 御影さんは強く言って立ち上がった。丸椅子が倒れる。

 僕はようやく理解した。御影さんが香りに拘泥する理由に、既製品を忌み嫌うところ。御影さんの背景にはこのような動機が眠っていたのだ。 



 その日以来、御影さんが暗い顔を見せることはなかった。

 僕のおならは捕集され、御影さんは調香する。いつものように日常が過ぎていった。

 でも、僕は忘れない。

 御影さんの目には暗くて鈍い光が宿っていたことを。

 だから、僕は願うのだ。

 叶うなら、僕がその光を変えてみたい、と。

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