第11話 へぇ、そーいうのが好きなの。呆れるわ
僕たちは試行錯誤を重ねた。厳密に言うと一番頑張ったのは御影さんオンリーなんだけど、僕もメンバーの一員であるから頑張ったと胸を張ってもいいと思う。
香水が完成したのは評論家が来る一日前だった。
僕は研究室でそわそわしていた。丸椅子に座って体を揺らしながら評論家を待っていた。評価されるのは香水であって、また御影さんの技術である。それでも、材料には材料なりのプライドはあるものだ。もしも芳しくない評価を頂いた際には、僕は御影さんの非難を免れないであろう。
「お待たせ」
御影さんは大事な日ということもあってめかしこんでいた。濃紺のフレアスカート、黒のヒールとタイツは気品を感じさせる。そのままパーティ直行っていう感じ。いつものゴスロリデザインの白衣ではなく、一般受けかつ清楚なイメージにチェンジしたみたいだ。
綺麗だった。万華鏡が見せる景色を変えるように、僕は御影さんの新たな輝きを知った。
僕の間の抜けた顔を見て、
「どうかした?」
「いや、ただ……似合ってるなって思って」
「そう? 私は早く楽な格好になりたいけれど」
と言いつつ、御影さんは満更でもない表情を浮かべる。
御影さんの手には小箱が載せられていた。箱を開けると小さな瓶が一つ。液体が横たわっている。これをかの評論家に渡すのだ。
「高級な百貨店にありそうですね」
僕としては最大級の賛辞だったけれど、御影さんはお気に召さないようで、
「高級な百貨店はどこにでもあるわ。これは世界に一つだけの香りよ」
瓶のデザインは一輪の花を模していた。これから来る評論家は辛口で有名で、加点ではなく減点方式で審査する男ということだった。その口ぶりからあまりいい印象を持っていないことが推察された。
御影さんはつけ入る隙を与えたくないと言った。僕もそれには同意した。そういうわけだから、香水本体以外も大いに工夫を凝らしたのだった。
臭いの変化に対応したり、気体が調和しなかったり、トラブルは続いた。けれどようやく腰を落ち着けられる……と思いきや。
悲しいお知らせがあった。
おならの香水は持続時間が極端に短かったのだ。気体を強制的に液体にしたから揮発までの時間が短い。そのため審査の際に放たれた、一瞬の煌めきに賭けるしかないのだ。瓶のなかに閉じ込められないものを閉じ込めたのだから当然ではあるが。
僕たちはすることがなく、ただ待っていた。御影さんは立っては座り、座っては立ち上がる。顔には出ていないが御影さんも緊張しているようだった。無理もない。この日のためにどれだけの準備をしてきたか。緊張するのはそれだけ真剣だったということなのだ。
僕はスマホ画面で時刻を確認する。すでに何度も確認していて癖みたいになっていた。しかし、約束の時間を過ぎても評論家は現れなかった。どうしたことかと思っていると、御影さんのスマホが震えた。御影さんは電話で一言二言交わすと、表情がみるみる曇っていく。
「協会の人から伝言。評論家が乗った飛行機が遅れてるって」
「えっ。何かあったんですか?」
「ううん。私にもよく分からないんだけど、乗客同士のトラブルらしいわ。マスクの着用を巡っての……困ったわ」
「香水ですか」
「ええ。このままじゃ揮発しちゃう。最高の香りとは言えなくなっちゃうわ」
御影さんは顔をしきりに手で触る。見るからに焦っていた。
「どうしようどうしよう……。時間がない。このまま、出す……。ううん、そんなことはできないわ。アイツのことだから、二流調香師って言われるに決まってる。じゃあ、どうすれば」
独り言を言って、右往左往。と、急停止。その直後、顔を天に上げる。
「待って。これよ! これしかない」
「何か思いついたんですか」
「ええ、とっておきのを、ね」
御影さんは怪しく口角を上げる。僕はその言葉の響きに嫌なものを感じた。御影さんが僕を見てにまにましているのだから、当たっていると思う。
「僕、帰りますね。要は済んだので」
「待ちなさい」
「ひぃ」
「結城くんには協力してほしいことがあるの」
御影さんの目は新しい遊びを思いついた子供みたいに、キラキラと輝いていた。
僕は研究室の一角で四つん這いになっていた。
パンツ一丁で。台の上に載せられて。
なぜこんなことに? その理由は至って簡単。
御影さんは中途半端は許さない。あと二時間程で到着できる予定ということを知ると、御影さんは搾りたてを渡しましょう、と提案してきた。僕の意向などつゆ知らず。新鮮な香りを渡したいという御影さんの意向だった。
けれど、僕にだって譲れない一線はある。前回までは御影さんの作った小型特殊気体捕集装置を利用して、僕はセルフで行っていた。御影さんはいつの間にかそんな機械を用意していたのだ。今回もそういうことならまだよかった。
でも、御影さんはそうさせてくれなかった。
「結城くん、遅いから。私がちゃちゃっとやった方が早いわ」
御影さんは血走った眼で言った。こうなるともう止められない。僕の羞恥心なんて御影さんの優先順位ではずっと下なのである。
「無理です。さすがに恥ずかしいです。御影さんだってヤでしょ。男の子に自分のしてるとこ見られるの」
形だけは抵抗しながらもそれが無意味だと知っていた。いつものように御影式五段活用が示されるのだ。僕も諳んじて言える。やれ、やる、やろう、やるの、やりましょう、やるったらやる……。
「やらないとどうなるか分かるわよね」
威圧感のあるセリフ。そうなると、僕は硬直するしかなく。
軍人よろしく返答をする。
「はっ! 分っかりましたー!!」
「うぅ……。こんな体勢にならなくても、普通に立っていてもいいじゃないですか。この間の食事のときみたいに」
「それは余裕があるときのことね。今日はテイスティングとは違うの」
「テイスティング!? おなら嗅ぐことテイスティングって言うのやめてくださいよ」
僕は股の間から御影さんを見る。体勢が体勢だから、こうでもしないと次に何が起こるか身構えることもできないのだ。
「うっさいわね。いいから出しなさい。こっちだって大変なのよ」
「僕の方が大変ですよ。そんな都合良くでませんって」
「なんとかするのよ。もう着いちゃうかもしれないでしょ」
「今やってますって!」
僕と御影さんは言い争う。それもただの言い争いじゃない。四つん這いでの言い争いなのだ。正気の沙汰じゃないと思った。人間から動物に戻った気分だった。おならよ、早く出てくれ――。僕は懇願するけれど、緊張すると余計に出なくなるのは身体の欠陥だと思った。
「ほら、出しなさい」
「あと少しだったのに御影さんが驚かすから」
「ならサインを送ってよ。私が好きで結城くんのおしりの前に立っていると思う?」
「え、そうじゃないんですかぁぁぁぁぁああああああ、痛いぃぃぃ」
御影さんが僕の尻をつねる。
「変なことは言わないことね」
僕の手は汗ばんで、実験台の上を滑りそうになる。
「マズい。これはよくないわ」
御影さんはスマホを見る。時刻を確認しているのだろう。
「こうなったら強硬手段よ」
「何ですか何ですか何ですか、あ、痛っ!!! 何するんですか」
おしりがじんじんと痛い。御影さんは脈絡なく僕の尻をペンペンし出したのだ。
「刺激を与えて、強制的に外へ出すの。それ!」
「逆効果ですよ。きっと、わっ」
「やってみなきゃ分からないじゃない。ほら、この、この」
「んだっ、がっ……、ああぁっ!!!」
御影さんはまさかの連打。
でも、どうしてだか別の気持ちが膨らんできて。意識し出すと止まらなくて。
念のため言っておくと僕にそういう趣味はない。全くないのだけれど、生理現象はどうしようもないのである。
「いや、違うんです。これは、その、えーと、思いだし。思いだしバッキみたいなもので、男は自然になっちゃうです全然関係ないときでも」
「へぇ」
御影さんは豹変する。こんなに声が低かったっけ。
「イヤイヤ言いながら、そーいうのが好きなの。呆れるわ」
見下すように言った。
「だから、そんなこと、ないです」
「じゃあ、その……それは、何。好きなんでしょう。そういうことならもっとやってあげましょうか。――えいっ、えいっ」
「いいです、いいで……あ、痛った。同じ場所ばっかり叩かないで」
「変態変態。ほらほらほら」
「どっちが変態ですか。御影さんも楽しんでるじゃないですか」
僕が反抗すると、御影さんは少しだけ怯んだ。
「そ、そ、そんなことないわ。あるわけないでしょうが」
「じゃなきゃ、ノリノリで叩かないですよね」
「これは必要悪よ」
「意味が違いますって」
「さぁ出しなさい。出さないと大変よ。出せ、出せ、出ろぉ、結城くんの香水」
「あっ、あっ……出そう。僕の香水がこみ上げて!!」
「その調子よ。思いっきり出させてあ、げ、る」
「出ちゃうっ、出ちゃうっ、イッちゃう、イッちゃうよーーーー!!」
急に手を止める御影さん。
しまった。あまりにもノリすぎて変なことを言ってしまった。
見ると、御影さんの冷酷な目。
「あのぉ。御影さん……?」
「ほかのもの出したらタダじゃ置かないわよ」
御影さんはそう冷たく言って、再び僕を叩き始めるのだった。
宇緑貞勇が屋敷に到着したのは予定より二時間も過ぎた頃だった。審査員である以上、調香以外の無用な懸念を持たせたくなかったが、今年は未経験の災禍に見舞われ、ことはそう簡単ではなかった。
これからも不測の事態が起こるかもしれない。ともあれ、まずは謝罪をすべきと思った。
屋敷の重厚な扉を叩いても無反応だった。仕方なしに協会に連絡すると、御影アリスとはしばらく連絡が取れていないらしい。宇緑は怪訝な面持ちで、屋敷を巡る。すると、一カ所だけカーテンが開いているところを見つけた。
もしかしたら、誰かが気づいてくれるかもしれない。宇緑は、失礼を承知で室内を覗き見た。
「その調子よ。思いっきり出させてあ、げ、る」
「出ちゃうっ、出ちゃうっ、イッちゃう、イッちゃうよーーーー!!」
宇緑は驚いて身を隠す。
年頃の男女が愉しんでいるではないか。見てはいけないものを見てしまった気がした。けれど、ここで若者の性事情を非難するつもりはない。それこそ老害と指さされるであろう。
そして思うのだった。もう少し、待つか――。
御影さんは小型気体捕集装置を持ったまま、僕に退出を促した。ここで企業秘密の気体から液体への変化、微調整を終え、また僕を呼び出した。ちょうどスマホにも連絡があったようで、僕たちは急いでエントランスへ向かった。
鍵を開けて、御影さんは出迎える。初老の男性がスーツを着て立っていた。
「遅れて申し訳ない。まさか、こんなことになるとは思わなんだ」
「不測の事態ですから」
御影さんは落ち着き払って言った。
「そちらの方は」
「結城悠。私の――」
「パートナーです」
「パートナーの方でしたか。……ああ、それで」
「どうかしましたか」
「いえいえ、こっちの話で。さあ、お待たせして申し訳ない。早速、審査を始めましょうか」
そして、僕たちは審査に臨む。
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