第10話 御影さんのためなら僕は二十四時間出し続けられます
液体窒素の煙が実験机の上を滑るように流れていく。御影さんがピペットで慎重に雫を吸い上げた。雫の向かう先はビーカーだ。そこにはあらかじめ香料のベースが入れてあった。
「いくわよ」
言って、ビーカーのなかに僕のおならが垂らされた。一滴が落ちてその部分が一瞬だけ膨らみ、波紋を広げる。
僕のおならがどうやって液体になったかは知らない。聞いても御影さんは企業秘密ということで教えてくれなかった。それどころか、ベースの部分を調香しているところすら見せてくれなくて、僕のおならが垂らされる最後のフェーズしか公開するつもりはないらしい。
御影さんはゆっくりとビーカーを混ぜる。ガラス棒が接触する硬い音がカチカチ鳴っている。ここで強く混ぜると気泡ができて、それこそ水の泡。だから、優しく混ぜる必要がある、というのは御影さんの談。
僕は御影さんの繊細な手つきを眺めていた。御影さんは赤子を見るような優しい目で、これからできるであろう香水の未来に思いを馳せているのだろうか。今にも子守唄を歌いだしそうな母性的愛情を湛えた微笑みだった。
「さて」
御影さんはガラス棒をペーパータオルの上に置くと、手元の器具置き場に手を伸ばす。僕はてっきり匂い紙という短冊状の紙を取るのかと思ったけれど、御影さんの手のひらには黒い小箱。表面に王冠の印が印刷されている。
御影さんは箱を開けると、なかから一本の羽を取り出した。
「それは?」
「匂い紙の代わり。大事な場面でしか使わないけど、これで香りを膨らませるの」
御影さんは羽にスポイトで雫を垂らす。羽に液体が染みていく。そして、その羽を柔らかい動作でふんわりと振る。
くんくん。僕は香りを嗅いだ。
賑やかな香りというのが第一印象だった。花とか蜜が幾層にも重なっていて、でもそれがだんだんと遠のいていって、一つの純粋な香りだけが残される。
孤高の香りだと思った。
香りで人を想像することなんてあるのだろうか。僕は身勝手にも、調香師の御影さんをよそに、香水を擬人化していたのだった。
「大成功ですね! こんないい匂い嗅いだことない。スゴいです……御影さんは天才です」
僕は恍惚の時を過ごした。あとはラストノート。最後の香りを待つのみとなった。僕は香りが揮発するのを名残り惜しむとともに、今か今かと最後の香りを待ち望んでいた。果たして、どのように僕のおならが臭いから香りへと姿を変えているのだろう。僕の期待感は否応なしに膨らんでいった。
しかし、待っていたのは予想だにしないとんでもない香りだった。
始め、僕は何かが焦げているのかと思った。研究室だから火気があるのは不思議じゃない。でもそれは間違いで、手元のビーカーが犯人だった。
見えない気体がビーカーから立ち昇ってくる。それは肉の腐敗臭であったり、硫黄の臭いであったり、生ごみの臭いであったり、この世の悪臭を寄せ集めて凝縮した地獄の臭いであった。
僕はのけ反った。それは確実に生存本能がもたらす反射だった。避ける術なんかなかった。おならの臭いは花や蜜の香りと入れ替わる形で顕現。蔦のようにだんだんと絡み合い、ついには一体化し始めた。いい臭いと悪臭が幾層にも重なる濃厚な香り。温かいというより生ぬるい不快感がたちまち研究室を埋め尽くす。
――おならの武装蜂起。冗談じゃなくそれが実際に起きていた。
死ぬっ……。臭いで死んでしまう!!
「御、影さん……!!」
僕は叫んだ。口が開くと臭いが雪崩れ込む。僕は咳き込む。喉が締めつけられるようだった。
御影さん? 御影さんは大丈夫か――。
が、時すでに遅し。御影さんはふらっと倒れかけて、かろうじて実験机で体を支えていた。その拍子に手が当たって、ビーカーが床に落下。床には液体の濡れが広がっていく。
「ゲホッ。こ……おかしい……こんなのおかしいわ。だって結城くんのおならは完璧だったのよ。食事もコントロールして、芳しい香りを醸していた。なのに、出来上がった香水がイマイチだなんて。ハーモニーが……取れてない!!」
御影さんは口に手を当てて話す。動揺してまともに話せない状況だ。人一倍嗅覚の鋭い御影さんにとってはこの香りの洪水は、まさに凶器なのである。
「御影さん、今はそれどころじゃないです。逃げないと」
「でも……」
「分析は後でもできます。いいから、僕に掴まってください」
僕は御影さんに肩を貸した。自力では歩けないようだった。平時なら御影さんは僕を罵倒しただろう。このチカン野郎とかなんとか言って。でもそういう場合じゃない。この期に及んで、お触りの許可はいらないだろう。まずは窓際に御影さんを運ぶ。それから、怒られるなら怒られてやろうと思った。
一歩ずつ、歩いていく。避難訓練を思い出すように、僕はもくもくと立ち昇る臭いから、少しでも逃れようと体勢をかがめる。
急に重さが小さくなった。御影さんは僕を気遣って、体重の掛け方を変えたようだ。そうは言っても必要ないくらい充分軽かったけど。
「ありがと……」
僕の耳に言葉が届いた。どういう風の吹き回しか。あるいは風の囁きか。判然とはしないけれど、それよりも窓にたどり着くのが先決だ。
歩きながら僕は芳香剤と消臭剤を戦わせたらどっちが勝つのかなあ、なんてどうてもいいことを考えていた。僕はヒーロー気取りだった。でもそんなことを言っていられる余裕がなくなっているのも事実で。よろけながらぶつかって、ぶつかっては歩いて、歩いてはよろけて。あと少しで気絶していたと思う。
すんでのところで、僕は窓に手をかけ、一気に開いた。嵌め殺しじゃなくてよかった。たちまち、風が顔を撫でる。僕たちは新鮮な空気を肺に送り込んだ。
そのままじゃ窮屈だったから、僕は隣の窓に映ることにした。窓枠に御影さんを預ける。
僕たちはしばらく窓の外を眺めていた。御影さんのお屋敷の外は立派な庭園だった。あそこで香料の元となる植物を育てているのだろうと僕は推測した。それにしても、どれだけ広いのだろう。どこからどこまでが御影さんの敷地か、全く予想できない。
「試作品は失敗。また一からやり直しね」
御影さんがポツリと言った。さっきよりは回復したようだけれど、哀調を帯びた声だった。
「大丈夫です。いくらでも出しますから。御影さんのためなら僕は二十四時間三百六十五日出し続けられます」
「……間に合うかしら」
らしくない、弱気な発言だった。
「間に合いますって。御影さんの情熱があればそれで充分です」
僕は言った。
「臭いのはおならだけじゃないのね」
「ほっといてください。僕は御影さんのためを思って――」
「でも、頼もしいわ。ありがと、結城くん」
「えっ、今なんて」
御影さんは穏やかな口調で言った。少しでも御影さんの気持ちを楽にできたならよかったのだ。僕は御影さんの表情を窺いたかった。でも、僕たちはお互いにそれぞれの窓枠から半身を乗り出していて、相手の表情を窺うことはできなかった。
「季節を考慮してなかったわ。香水はデリケートなの。温度や湿度によって微妙に変わってしまう。初夏にかけての気温を計算しておくべきだった」
「まさかこんなことになるなんて思いませんでした」
「私だって。これは暴発よ。結城くんのにおいが暴れ出した」
「臭いでなら、僕は御影さんを蹂躙できるんですね」
軽口を叩いた僕に御影さんは、
「……ばか」
静かに言った。
顔色が良くなるのに十分な時間を置いて、僕は研究室に戻った。御影さんは換気扇のスイッチを押して、僕はモップで床を拭いた。作業にはコロナのために買っていたN95マスクが役に立った。特別給付金だった。
研究室は散らかっていた。丸椅子は倒れ、ビーカーは割れていた。戦場だった。
でも、と思う。
御影さんの表情は晴れやかだった。きっと、頭のなかで軌道修正の方法を思い描いているのだろう。僕の臭いをコントロールする方法。上手くベースと調和させる手段……。
御影さんは大変な努力家だった。それに比べて僕は明らかに見劣りする。僕のできることと言ったらただ屁をするだけ。本当は材料以外の役に立ちたい。でも、僕にそんな役目を求められていないことも分かっている。
分不相応だな。
僕は余計なことを考えながら、窓の外の青空を見上げるのだった。
さて、臭いは風に乗って、どこまでも飛んでいく。
まるで鳥のように、山を越え、海を渡り、路地を抜け、人々の鼻の穴に到達する。
――異臭、再び。相次ぐ通報。
――臭いの変化。住民ら不安。
その日の夕刊にはこう記載された。
こうして、異臭問題に新たな一ページが加わった。
香水品評会まで、あと三日――。
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