第9話 アリス ♪ スペシャル

「むひえぇーーーーす。も、もうはへえあへん」

 御影さんの右手が再び顔面に接近する。

「まだ余白があるじゃない」

「むむむひれすっへ!!」

 顔を左右に激しく振る。御影さんは塞がっていない方の手で固定してくる。

「弱音を吐かない。これは前菜なんだから」

「えんはい!???」

 御影さんはフランスパンを僕の口に差し込む。胃袋にできたわずかな隙間も許す気はないみたいだ。

 御影さんは必死だった。これほどの動機はどこからやってくるのか。僕は疑問だった。けれど、僕も必死。すでに胃は少食とか関係なく限界突破してしまっている。僕は歯を食いしばり、入れさすまいと拒絶する。僕の胃袋のなかから『こんにちは』しそうなのに、これ以上迎え入れたら身が持たない。

「抵抗すると、こうよ!!」

「ひゃいいぃい」

 急に腹の辺りがむず痒くなり僕は奇声を発した。見ると、御影さんが僕の脇腹を擽っていた。その隙に、御影さんはフランスパンを押し込む。

「んぐぅぅぅう」

 僕の頬は腫れたみたいに膨らんでしまう。

 御影さんは手をはたいて、「いっちょ上がり」と言ってのけた。

 僕は目を細めて、泣きそうになりながら、咀嚼を始める。


 遡ること一時間前。発端はこうだ。御影さんの料理はとても美味しくて、僕は満足して食事を終えることができた。料理はまだ残っていたけれど、それは全量食べることを期待しているわけではなく、もてなしの気持ちと御影さんは説明してくれた。僕の胃袋の大きさのことも伝えてあった。すっかり安心しきっていた。と、そこで脈絡なく例によっておならが出そうになった。ここまでが平常運転。

 僕は恥を忍んで御影さんに伝えた。そうすると約束していたからだ。御影さんはうきうきで僕の近くにやって来た。しゃがむ御影さんは心なしか鼻息が荒い。緊張の僕。女の子の前で放屁する恥ずかしさったらないね。

 ふっ、とため息のように遠慮がちに出たそれは、僕の鼻にもすぐに届いた。――臭い。

 それで御影さんは満足するかと思いきや、何やら渋い顔をしている。

 もしや、めっちゃ臭かったか? 

 僕は赤面ながら、御影さんの反応を待った。

「ノー」

 御影さんは体の前で大きなバッテンを作るだけでなく、わざわざ声にも出して言った。それは御影さんの求める品質に達していないという意味だった。

 僕はもう一度座らされた。背後に御影さんが立つ無言の圧力。食事を続けろ、と命令されているのだ。楽しい食事が一転し。苦行へと一直線にデスマーチ。

「うーん。肉と食物繊維のバランスかしら」

 御影さんはおなかがパンパンになった僕を尻目に、そんなことを言った。言うならもっと早く言ってほしかった。だったら闇雲に食べさせるんじゃなく献立をもっと計算してよ。

 僕は不服な感情を隠そうともしなかった。

「早く食べなさい。そして出すの。このままだと毎日続けることになるわよ」

「毎日? それは無謀ですって。おなかとおしりが持ちません」

「無謀っていうのは、無謀って思うから無謀なだけなの」

「ブラック企業みたいなこと言わないでください」

 かつて一度でもおならの質を問われたことがあっただろうか。一度でもおならの量を求められたことがあっただろうか。一度でもこんなに真剣に放屁しようとしたことがあっただろうか!

 僕はとことん絞られた。普段は意識しないでも出て困ってしまうのに、肝心なときに出ない僕のおなら。どうした、出てこいよ? と問いかけても返答なんかなく。フランスパンを食した僕を見て、首をかしげる御影さん。それなら、と御影さんは僕を介護するみたいにスプーンを口に運んでくる。液体ならまだ入るでしょ?

 朦朧とする意識の中、やっとの思いで僕は放屁した。

 が。

「ノー」

「そんな……」

 自己採点より低い点数のテストが返ってきたときみたいな情けない声が漏れた。

「もう今日は限界です」

 僕の渾身のやつれた声に、御影さんはとうとうスプーンを下ろした。

「分かったわよ。根性ないわね。明日、九時朝ご飯でリベンジね。いい? それまでにちゃんと整えてちょうだいね」

「はい……」

 僕は力なく返事した。

「客間へ案内するわ。自由に使ってもらって構わないけど、いい? くれぐれも、変なことしないでね」

「具体的には」

「分かってて聞いてるなら承知しないわよ」

 御影さんは戸を閉めて、僕は大人しく引き下がるのだった。



 朝日。それは世界を目覚めさせる強力な天体。

 おなら。それは世界を鼻栓させる強力な気体。

 僕の一日は穏やかな日差しから始まった。カーテンを開けていたので自然光で目覚めることができた。目覚まし時計に頼らない優しい目覚めは一日を気持ちいいものにしてくれる。

 ベッドはホテルのものみたいだった。スプリングが上等で、おかげで質の良い睡眠を取ることができた。クッションが八つもあるのは贅沢に感じられた。

 大きく伸びをして、乱れたシーツを直す。

 本当はもっとベッドで微睡んでいたかったけれど、ここは御影さんの家で、御影さんとは約束があった。

 僕はスリッパを履いて、身支度を調えた。

 部屋のなかをうろうろしていて気づいたこと。一人では十分な広さだった。まだまだ物を置けますよと言わんばかりの余った空間に余計な調度品は何もなかった。御影さんは散らかっているのが好きじゃないから、性格が反映されているのだと想像できた。

 階段を降りて、食堂の戸を開け放つ。食欲をそそる匂いがふわっと鼻腔を包む。

「おはよう」

 キッチンからエプロンを着た御影さんに出迎えられた。相変わらず可愛かった。僕はしばらくみとれていた。

「どうしたの」

「べ、別に何でもないです」

 僕は食卓に向かった。

 食卓にはまだ何も並んでいなかった。どういうことか、考えていると御影さんがプレートを持ってやってきた。

 実を言うと、朝早くからどれだけの量を食べさせられるか恐れていたのだけれど、運ばれてきたものは朝食として適当な量であった。

「これは」

「アリススペシャル」

 高校生が自分の名前を冠するセンスに僕はうっかり笑ってしまった。

「いだっっ!」

 御影さんはすぐに見抜き、無言で僕をつねる。

「あのあとよくよく検討してみたの。比率を色々試してみてね。肉五パーセント、さつまいも三十パーセント、キャベツ十五パーセント……」

 僕はその人体錬成みたいな講釈を半分以上聞き流していた。どうせ聞いても覚えられないのだ。要約すると、この比率の料理を食べれば理想的な放屁ができるということであろう。


 そうして、僕は朝食を終えた。

 腹七分目くらいのちょうどよい満足感だった。

 御影さんは放屁の結果にも満足していた。

「さすが、私ね」

 と、自画自賛。

 僕もお腹を押されて苦しむことから解放されて一安心。

 ようやく、香水作りに着手できるのだった。

 

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