第8話 変な想像してるでしょ

「どうして勝手なことするの!」

「何もしてないよ」

 僕は全力で否定する。でも御影さんはまるで納得していない。僕が余計なことをしていないか疑いの眼差しを向けてくる。

「さては変なもの食べたんじゃないでしょうね。私を困らせようとして」

 御影さんはにじり寄る。僕は顔を背けて無実を訴える。

「そんなことしてないよ。朝食も昼食もいつも通りだって。このご時世だから外食もできないし」

「あーあ。どうしよう……私の香水が水の泡だわ。せっかく抽出法の片がついたのに結城くんのにおいが変わってちゃ元も子もないじゃないの」

 御影さんは額を押さえると、滑らかな黒髪が揺れた。

 僕が何を食べたか、詳細を教えても効果がなくて、むしろ逆効果。指でつんつんと突いてくる。

 どうやら僕は怒られているらしかった。でも、臭いが変化するような原因は思い当たらない。食事はいつもと変わらず。環境も――無理やり原因を捻り出すなら、香水作りの強制イベントが加わったくらいだ。けど、ストレスだって初回よりは感じていない。特段の変化はないとまとめてもいいだろう。

 僕としては臭いが変わっているとは思わなかった。それなのに発生源の僕が言っても、御影さんは断固として認めない。御影さんによるとにおいの強度(気持ち悪い表現だと思う)は上がっていて素晴らしいが、色彩が紫から茶色に変化してしまっているとのことだ。

 色彩って何? 茶色って、生々しいな。

 言いたいことは山ほどあったけど、御影さんの発作的怒りの炎に油を注ぐわけにもいかず。

 ただ、黙っていることにした。

 御影さんは実験机の前にある丸椅子に座ると、

「こうなったら食生活を管理するしかないわね」

 とんでもないことを言った。管理。それは、かの有名なダイエットCM的な厳しさを予想させた。食べた内容を逐一報告するというアレだ。

「結城くん、家は厳しいかしら」

「いえ、門限もないですし、親は放任主義です」

「あっそ、よかったわ」御影さんは目を輝かせ、「じゃあ、明日からウチに泊まりなさい」

 地球が静止したかと思った。

「え、嘘ですよね」

「私、どんな顔してる」

「可愛――」

「二度もやらない」

「すんません」

「……これ以上ないくらいマジな顔してるでしょ」

 御影さんは手のひらをパンと合わせる。

「と、いうことで結城くんは当分ウチに泊まる。それで腸のコンディションが整うまで私がしっかり管理してあげる」

「腸のコンディション……ええっ」

 御影さんは手をわきわきさせて、僕は腰が抜けそうになった。僕は家畜のように管理され御影さんに餌を与えられる姿を想像した。想像のなかの僕はブヒブヒと御影さんの膝元で鳴いている。

 ――餌を恵んでください。ダメよ、おならが出るまでお預け。そんなぁ。

「変な想像してるでしょ」

「何もしてないです」

「鼻血、出てるわよ」

 僕は慌てて鼻を拭った。

「嘘よ」

「人が悪いです」

 御影さんは軽く笑った。

「安心して。悪いようにはしないから。お泊まりは今回だけ」

 御影さんは話し終わると、リラクゼーションスペースに戻ってチェアーにもたれかかる。目の上に毛羽の長いタオルを置いて、

「今日はもう帰っていいわ。明日会いましょう」

 疲れた様子で言った。

「分かりました」 

 僕は肯定の意思表示をした。御影さんはそれに対してうんともすんとも言わなかった。しばらくすると、細い呼吸音が聞こえてきた。もしかしてそのまま寝ているらしかった。

 無防備な人だと思った。僕が変な気を起こしたらどうするつもりなのだろうか。

 起こすのも悪いし、「おじゃましました」の一言をそっと添えて、僕はそのまま帰ることにした。

 夜道は薄暗いなんてレベルじゃなく、暗闇だった。しかし、僕は恐怖より別のことで手一杯だった。

 どうすれば臭いが元に戻るだろう。

 僕は頭を悩ませていた。まったくもって御影さんに尽くす義理はない。でも、なぜだか下心とかその他諸々の理由でやらなきゃいけない気がしたのだ。

 だって、それくらい御影さんは可愛かったから。ツンと上がった目尻と相性ぴったりの勝気な眉。小さいながらもぷっくりと桃色の唇、健康的に程よく白い肌。

 僕は御影さんのためなら少しくらい無理できる。

 どれくらいかって?

 小食だけど、御影さんが望むなら五百グラムの肉にかぶりつき、一キログラムのキャベツを詰め込み、三キロのさつまいもの天ぷらを食す、という心持ちでご飯二膳くらいなら食べられるのだ。

「まずはこれを食べること」

 明くる日、意気揚々と出かけた僕を待ち受けていたのは美味しそうな料理の数々だった。御影さんは和食洋食の不仲など気にも留めず同席させる大胆さ。

 大学芋、トンカツに添えられたキャベツの千切り。共通点は食物繊維だ。カットガラスに注がれた透明な液体からは気泡がぷくぷくと楽しい音を立てている。炭酸水だった。カトラリーの脇に置かれている白色の粉はもしかして。

「食物繊維よ。粉の」

 と、御影さんは説明してくれた。

 食事内容の偏りはどうあれ、御影さんが僕のために料理を用意してくれたことが嬉しかった。僕はやたら長いテーブルに言われるがまま座らされる。途端、腹のなかのミニマムな僕が嬉しい声を上げて、天井の高い室内に反響したかと思って、恥ずかしくなった。

「おなか空いてたみたいでよかった」

「何も食べてきてませんから。これ全部、御影さんが作ったんですか」

「ええ。料理なんて初めてだったから上手くできたか保証はしないけれど」

 御影さんの頬に朱が入る。はにかんだように見えたのは都合のいい思い違いだろうか。

「僕のために、ありがとうございます」

「結城くんのおならのため、だけどね。さあ、冷めないうちに召し上がって。楽しい食事にしましょ」

 御影さんは言った。御影さんが一口食べたのをきっかけに、僕はよく光るナイフとフォークを手に取って、最初の一口を運んでいく。

「おいしい」

 声に出ていた。思ったままを、無意識で呟いていた。

「ホント? よかった。研究も少しは料理に役立つみたいね」

「研究と料理、ですか」

「どっちも少し分量を間違えるだけで失敗しちゃうでしょ。そういう意味で経験が役に立ったかなって」

 理科の実験でも何mLとかはっきり書かれている。御影さんが言っているのはこういうことだろう。

 食事は和やかに進んだ。抱腹絶倒のトークはなかったけれど、静かなのは苦手じゃない。

 めでたしめでたしのはずだった。

 ……のだが。


 僕の期待は『秒』で裏切られることになる。

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