♪ わくわく四苦八苦 ♪
第7話 移ろう香りを響かせて
「評論家が来るぅ!??」
僕は素っ頓狂な声を上げた。
「ええ」
御影さんは実験机の前に立って、『香りのレシピ、社外秘、勝手に見たら埋める編』と書かれた大学ノートを捲っている。余裕があるのか。まるで他人事のような態度に感じられた。
「いつ、いつですか」
「二週間後」
「二、二週間後? もうすぐじゃないですか」
「そうよ。だから考えることがたくさんあるの。まずは抽出法をどうするかね。さーて、どうしようかしら。圧力をかけるにしても限界があるし、冷却は業者に依頼をかけないと」
御影さんはぶつぶつと言葉を落としていく。でもそれは僕に拾ってほしいということではなくて、考えの手段として言葉を話しているだけだった。
ボールペンをくるくると回している。ええと、とか、うーんとか言いながら。意外な子供っぽさがあるその動作を僕は眺めていた。
御影さんは御影さんの世界に没入していた。
「難しいんですね」
はっ、と御影さんが顔を上げる。僕の存在をすっかり忘れていたようだ。
「ああ、ごめんなさい。普通、香水の原料にするのは液体か固体なの。でも、あなたのは気体。見えないものをどう捉えるか」
「袋に詰めるんじゃダメなんですか」
「簡単に言わないでよ。それをどう瓶に閉じ込めるの。不安定だから開けた瞬間に逃げてしまうわ」
尖った声で言う。
「不安定だったら僕のおならにこだわらなくても」
「不安定という欠点を補って余るくらい結城くんのおならは貴重なの。何回も言わせないで」
御影さんは被せるように言った。
「当面の課題は抽出法を策定すること。それが決まったら、急いで君から抽出しなきゃならない」
「レシピは考えてるんですか」
「当然。じゃなかったら結城くんに声をかけなかったわ。もう少しにおいが仕上がるまで寝かせてた」
「そんないいものみたいに言わないでください」
僕は言った。
新型コロナウイルスによって僕たちはまた翻弄されていた。当初の予定では通常授業のはずだったのだが、政府の二転三転の方針転換により、登校時間をずらし挙げ句の果てに時短になることで一応の解決を見せた。
余った時間は外出などもってのほか。……だったけれど、そんなの十代の僕たちには無関係。だって、この若い時間に黙って自宅待機なんてしてられるかって感じ。
そういうわけで、僕は御影さんの屋敷にいた。野郎どもといるより、多少変わっていても美少女といる方が心安らぐものだ。
ただ、評論家のことは聞いていない。突然、言われたのだ。御影さん曰く、香りのコンテストというものがあって、その予選が二週間後にあるらしい。一回目、二回目は予選で、三回目が決勝。その本選のなかから最優秀賞が選ばれ、Perfume of the yearの称号を得られるのだ。
称号を得るとコマーシャルで頻繁に流され、即品切れになるなど影響力は強い。僕も名前だけは知っていた。ただし、称号はお金で買い取っているものだと認識していたけれど。
世の中には様々なコンテストがあるものだと、僕は少し物知りになった気分だった。でも、すぐに自分の役目を思い出して憂鬱になった。
僕は屁こき虫になるのだ。
「今のところ考えているのは、植物性の香料であるスズラン、バラを基調にして構成する。君のイメージであるラベンダーも加えて、複雑だけどシンプル、弱さのなかに強い香りが鳴るようにデザインするの」
「専門的じゃなくて、もう少しかみ砕いてほしいです」
御影さんは面倒くさそうな表情をしながらも、コンテストに提出する香りについての説明を始めた。
僕の臭いをどう活かすつもりなのか。興味がなかったといえば嘘になる。
御影さんは小瓶を手に取る。
「トップは庭先に干した清潔な洗濯物の香りから始める」
「ふむふむ。いいですね」
「ミドルに季節の変わり目から取り出したような移ろう香りを響かせて」
「ふむふむ」
「フィニッシュは君のおなら」
「三つめえぇぇぇ!」
思わず叫んでしまった。落差が激しすぎる。おなら、何度聞いても耳が慣れない。
「わ、いきなり大きな声出さないでしょ。大事な子たちを落とすところだったじゃない」
「だって変なことを言うから」
「変じゃないわ。結城くんのおならは立派な材料よ」
「なんだか複雑な気持ちです。言葉だけだとイメージもできませんし、完成形も見当もつきません」
それもそうね、と御影さんは言って白衣の袖を一度だけ折る。
「試してもらった方が早いわ」
御影さんは『試作品No.45』と書かれたラベルの瓶を取る。スポイトで一滴吸い取って、有無を言わさず僕の手の甲に落とす。
ひんやりと冷たい感触が、した。
御影さんの意図が分かったところで、僕はそれを嗅ごうと鼻に手を近づける。
「待って。アルコールが飛ぶまで少しだけ待つの」
言われた通りに僕は数秒だけ待った。
そうして、僕はゆっくりと呼吸した。
御影さんの言っていたことは的確だった。まず、清涼感が突き抜けた。それは目が覚めるような鮮やかさ。けれど、それは持続しないですぐに次の香りに移る。儚くて優しい香り。優柔不断にも感じる季節の合間。
僕はうっとりした。僕の鼻腔は瞬く間に魅了された。
「ここにおならが加わる」
閉じられていた瞳が、御影さんの言葉のせいで開かれる。
「このままでいいじゃないですか。いい匂いです。僕にはこれ以上要素を加える必要性を感じません」
「これだから、素人は……。こんなんじゃ既製品と同じなの。言っとくけど、審査員はこの世のあらゆる香りを嗅ぎすぎて鼻おかしくなっちゃってるんだから。こんなフツーの香りなんて見向きもされない。馬鹿にされるのがオチよ」
「はぁ……そうなんですね。僕には想像もできない世界です」
本心だった。なんだか踏み入れてはいけない世界に踏み入れてしまった気分。
とはいえ、御影さんの実力には驚嘆した。きっと、辛酸を舐めて香りを探し、そうやって場数を踏んだのだと思う。
それで、僕は気になることを聞いてみた。
「たとえばの話をしていいですか」
「どうぞ」
「僕がこんなイメージの香りが欲しいって言ったら、御影さんは調合できるわけなんですか」
「ある程度は、ね。私もまだ半人前だから。お母さんの――」
言いかけて、御影さんは首を横に振った。
「いいえ、結城くんには関係ないわね。……それはともかくとして、簡単なレシピならできるわよ。もちろん別料金は取るけどね」
御影さんはいたずらっぽく笑った。
けれど、御影さんは自身に表れた翳りに気づいていないみたいだ。
お母さんの、という部分を聞き逃したつもりはなかった。
でも、深入りは無用だと思った。僕と御影さんの現在の関係性ではそんなこと聞けっこないのだ。
とにもかくにも、それで抽出法を議論することになった。
手探りでなかなか結論がでない。聞き手に徹した僕なんかいたっていなくたって変わりないけど、御影さんはなかなか僕を帰そうとしなかった。
そういえばこんなに大きなおうちなのに、人の気配がまるでない。
もしかして、寂しいのかと思ってそれとなく聞いてみると、御影さんは、
「ペット的な気分でいてくれると嬉しいわ」
素直じゃない人だと思った。
夕方に差しかかる頃、外部の機関に委託するという結論に至った。
それで僕はようやく帰り支度ができた。ソファーから立ち上がると、ガスが抜けた。
ずっと座っていたから、お尻が硬くなってしまったのかもしれない。
僕は御影さんに謝る。おならを求めていても、念のため謝罪くらいはしておきたい。
だが、御影さんは小さな鼻を動かすだけで、何も言ってくれない。
「結城くん……」
そう。大問題が起きたのだ。
「結城くん、におい変わってない?」
そう言った御影さんの声は、出会ったときのか弱い音を帯びていた。
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