第6話 X、extremeエクストリームの

 そこはかなり大きな部屋だった。どれくらいかと言うと、僕の自室が丸まる三つほど収まるくらい。でも、羨ましくないのは棚が一体化した長い机が三台も占領して台無しになっているから。

 白色灯もさることながら、壁も床も白で統一されていた。長机の天板だけが黒だけど、やっぱり温かみなんて感じられない。

 棚には見渡す限り、瓶瓶瓶。所狭しと並べてある。瓶の表面にはラベルが貼ってあって英語で何か書いてある。でも、この距離じゃ見えない。

 屋敷の雰囲気とかけ離れた現代的な内装に僕は驚いた。

「ここは?」

「ラボよ」

 言って、御影さんは部屋の一角に設けられたスペースに向かっていく。建築家が途中で交代したのかと見まがうくらいにそこだけは屋敷のイメージに合致したデザインで、御影さんのリラクゼーションスペースなのだろうと、僕は推測した。

 枯木に似たポールスタンドに白衣が襟の部分だけでかかっている。御影さんはそれを着ると、そそくさとオフィスチェアーに腰掛ける。

 デスクの上にはコーヒーが載っている。それからタバコの吸い殻が灰皿に残っている。

「タバコ吸ってるの」

「吸うわけないじゃない。研究のためよ」

「研究って」

 御影さんはそれには答えず、「まあ座ってよ」と革張りのソファーに手を向ける。

「日はまだ高いから。ゆっくり話しましょう」

 御影さんは不敵な笑みを浮かべるのだった。


 僕は差し出されたコーヒーをこわごわと飲んだ。普通のコーヒー。いや、強いて言うなら上質なやつか? ともかく薬は入っていないようだ。

 手が震えてカチカチとカップがお皿と当たる音がする。御影さんは僕の様子をずっと見ている。不気味だ。

「で、どんなお詫びをされるんですか」

 溜まりかねた僕は言った。そのために僕はここに来たのだから。

「私に協力してほしいの」

「それが、お詫び、ですか? 協力が」

 僕は目が点になった。お詫びと協力じゃ全く言語が異なる。

「ええ。結城くんには素質がある」

「はぁ、素質ですか。芸能人とか」

「スカウトじゃないわよ」

「じゃあ、なんですか」

「それはね……に、お、い」

 指で空を弄る。きっと、言葉を描いているのだろう。

 いや、それが分かったところで――。

「へ?」

 僕はきょとんとした。におい? 

「そう、屁」

「え?」

「だーかーら、とぼけないで。おならよ、おなら。結城くんのおならは最高傑作よ」

 御影さんの言葉に僕は卒倒しかけた。

 こんな美少女が臭いフェチなんて。

 ええ、やだやだ。引くわー。イカれてるよ。しかも、いい匂いじゃなくて悪い臭いじゃん。

 それで僕は思った。何かの間違いだと。御影さんはおかしくなっちゃたんじゃないかって。だって、君にはおならの素質がある! と真顔で言っているのだ。それをおかしいと言わず、何と言おう。

「だから電車で聞いたよね。――しましたよね? って」

 僕は電車のなかの出来事を思い出す。確かに御影さんはそんなこと言っていたように思う。あれは触りましたよね、という意味だと思っていた。まさか、おならしましたよね、とは思うまい。

 ……というか、僕が放屁したって? どちらかというとそっちのことの方が重要だ。記憶はない。もしかしたら無意識か。だとしたら無意識の放屁はたちが悪い。臭いがパンツを貫通したことは対処できたけれど、御影さんが言うことが正しいならば無意識かつ、より強力な臭いへ変化したということだからだ。

「どうして御影さんが僕の、その……」

「おなら」

「を、求めるの?」

「それはね、私が調香師だから」

 答えになってない、とは言わなかった。なぜなら、そこでようやく御影さんから漂ってきたタバコの臭いが説明できたから。御影さんは吸っていないと言っていた。たぶん、研究的なことをしていた過程で着ていたスウェットに付いたのだろう。だから僕は少しだけ合点がいった。それでもなお、おならと調香は結びつかないけれど。

 御影さんは大きく両手を広げてラボを見せつける。でも、さっき見たのが驚きのピーク。もはや瞠目することはないけれど、僕は愛想笑いで事なきを得る。

「ははっ、すごいですね。こんなに揃えたんですね」

「でしょ。圧巻の光景と言っていいわよ」

 御影さんは誇り高そうに言う。

「もちろんタダで、とは言わない。その代わり利益の10%をあげる。これが私からの提案イコールお詫び」

 御影さんは言った。

 でも、と思う。

「そもそも協力を取り付けるために僕に冤罪の疑いをかけたんですよね。だったらこれはお詫びとは言わない気が……」

「スケジュールなんだけど」

 無視かよ。

 御影さんは僕を置いてけぼりにして、どんどん話を進めようとする。

「待ってください。状況が読めませんって」 

「待ちません」

「いや、そう言わず。当事者なんですからもっと教えてください。よく分かりませんけど、御影さんは僕の臭いを利用するために接近した。で、あってます?」

「百パーセントの答えね」

「おならが……どう利用されるか分かりませんが、それが香水と繋がる」

「その通り」

「どうして僕なんですか?」

 僕は聞いた。チカンをでっち上げてまで、御影さんがどうして僕なんかに声をかけたか知りたかったのだ。

「結城くんは自分の価値を知らないのね」

「おならの価値ですか」

「ええ。においにはランクがあることをご存じ?」

「いや、分かりません」

 御影さんは長机の一つに向かっていく。瓶を取って、くるくると回す。

「じゃあ説明するわ。騒音がレベル別にうるささの目安を分けているのは知ってる? たとえば20デシベルならほぼ無音、120デシベルなら飛行機のように」

「少しだけなら」

 御影さんは、よかったと頷く。

「それと同じようににおいもレベルで分けられているの。A~Gまでの7段階にね。プラスマイナスが加わった、より細分化された21段階もあるけど本質的には同じこと。そうね……。のどかな景色が広がる田園風景をGにすると、しょうゆがDくらいかしら。これも厳密なものじゃなくて、主観によるところが大きいんだけどね」

「牛の等級みたいですね」

 僕は軽口を叩く。そうでもしないとやっていられない。

「私はね、君のおならを香水に加えたいの」

「は」

 僕は絶句した。言葉が出てこなかった。ん、くらいしか言えなかった。

「香水はトップノートからミドル、ラストと三層に分かれて、それぞれ役目が違う。私はずっとどうすれば最高の香水を作れるか考えていた。スランプに陥っていたの。あるところまではいけるけどその先にたどり着けない。何かが足りない。絶対的に。で、そんなとき結城くんと出会って確信したわ。君のエッセンスがあれば理想の香水ができるって。君のにおいは人々の鼻を虜にするって」

 御影さんは選挙演説みたいに熱弁を振るった。僕はその厄介な情熱にチリチリと炙られるようだった。

「僕の臭いはどれくらいなんですか?」

「Bよ」

「なんだ。そうでもないじゃないですか」

 僕はほっとした。

「でも伸びしろがある」

「どんな」

「X、extremeエクストリームの。それにナチュラルなガスでBは才能と言ってもいいかもしれない」

「嬉しくありません。というか、さっきXなんて言ってなかったですよね。Xってどれくらいなんですか」

「Xは未知の意味も含んだ、最上級。私もまだ会ったことはない。だからAを頂点にした、あくまで想像だけど……」

 僕は唾を飲み込んだ。

「鼻をもって生まれたことを後悔するくらいかしら」

 僕は戦慄した。御影さんの言葉を信じるならば僕の臭いは青天井ということ。このままだと全人類に迷惑をかけることになってしまう。

「結城くんはどんどんレベルが上がってる。他の人はまだ気づいてないようだけど、電車のなかで私だけは感知できた。私、鼻が良いの。ラベンダーで覆われてたけど私の鼻はごまかせないわ」

「おならを香水に加えるなんて信じられません」

「甘さを引き立てるために塩を加えることはあるでしょ。香水にもパンチが必要なの。かつてない匂い、香り。それを表現するために君の匂いは不可欠よ」 

 御影さんは真剣に言った。

 でも、僕はその真剣さを受け止めきれなかった。

「何がおかしいの?」

「何が、って。おなら、ですよ。お、な、ら。いくら御影さんが言っても信じられません。冗談ですよね」

「私、どんな顔してる」

「可愛いです」

「キモっ」

「え」

「顔の作りじゃないわ。冗談じゃないっていう顔してるでしょ。だからね、改めて言うけど、結城くん。お願いします。協力してください」

 御影さんは頭を下げる。

 僕はその頭頂部を見つめて、困っていた。

 はて、どうしたものか。僕は生まれて一度もしたことないけど、腕を組んでみた。

 女の子の頭を下げたままにはしておけない。でも、協力となると僕は御影さんにおならを提供することになる。それはすっごく嫌だ。僕のおならを金儲けの道具にするなんて想像できないし想像したくない。

 そういうわけだから、待ったをかける。

「ええと、御影さん。乗り気なとこ、申し訳ないですけど、協力はできかねます。なんて言うか、無理です。ごめんなさい」

「そう」

 御影さんは意外にも呆気なく引き下がった。

 僕にはやることがあった。強い臭いを抑える方法を一から考えなくてはならない。だから御影さんの娯楽になんか付き合う暇はないのだ。

「……そいじゃ、帰ります」

 僕は出口に向かった。今度は引き留められなかった。

 でも。

「規制地域内の工場・事業場の事業活動に伴って発生する悪臭について必要な規制を行うこと等により生活環境を保全し、国民の健康の保護に資すること」

 御影さんは静かに流れるように早口言葉を言った。

「何ですかそれ」

「これ? 悪臭防止法。君は悪臭防止法で制限される」

「脅しですか」

「そう聞こえる? 私は教えただけよ。私になら助けられるかもって」

 僕は一瞬、躊躇った。

 御影さんの言葉を真実かもしれないと思ったのだ。しかし、結局は御影さんを振り切ることにした。僕を引き留めるためのまやかしの言葉かもしれない。

「20%」

 でも、御影さんは諦めなかった。今度は金銭で釣ろうというわけだ。しかし、たとえ金銭を提示されても僕の意思は堅い。

「30%」

 世の中にはお金で解決できないことだってそりゃあたくさんあるのだ。たとえば僕の臭いを停止させる確実な方法とか。これはお金では解決できないであろう。もしできるなら、とっくに医者と両親の間で話し合いが持たれているはず。

「40%。それと結城くんのお願いを何でも一つ聞いてあげる」

 僕はピタリと静止した。

「なんでも……ですか」

「ええ。なんでも」

 御影さんは含みありげに言った。

 そのとき、僕はある考えがよぎった。

 お願いを何でも一つ聞いてあげる……。つまり、御影さんに何でもできる。それって、色々と卒業できるチャンスじゃないか。

「香水は匿名ですよね」

「匿名って?」

「その……名前を冠することはないという確認です」

「もちろん。お望みなら名前を入れましょうか」

「遠慮します」

 それきり、僕が黙っているのを見て、 

「交渉成立~」

 メロディーをつけて御影さんは言った。

 どこまでも掴めない人だと思った。

 

 かくして僕は不本意にも香水作りに加わることになったのだが……。

 このときはまだ知らない。この先に待ち受けている試練の数々を。

 やがて、稀代の調香師、御影アリスになることを。

 そしてそのパートナー兼サンドバッグ兼希少な材料、結城悠になることも。

 

 僕はまだなーんにも、知らないのである。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る