第2話 ちょっと原因が分からないと、一市民としては怖いですねー

 高校入学の初日。極度のあがり症だった僕は、これからともに一年を過ごすクラスメイトに「この教室、なんか臭くない?」と耳打ちされたのだ。嗅いでみると微かに感じる異臭。僕にはラベンダーがあるのに、どうして!? 僕はおおいに混乱した。

 幸い先生がやって来たことで生徒の関心はそちらに向いた。発生源はバレなかったが、どうやらおならの臭いはストレスで悪化するらしいことが分かった。

 いよいよ僕は悩んだ。陽気な僕は鳴りを潜め、ネガティブでセンシティブな僕が表出してきた。

 早食いが原因なのだろうか。

 もしかしたらもっと重大な病気の前兆なんじゃないだろうか。

 だって調べても原因が分からないのだし。

 ……これってそういうことだよね?

 僕は学校を休みがちになった。担任は親を通して連絡を寄越した。僕を心配したようだった。生徒がいない時間を見計らって場を設けてくれた。

 担任と二人きり。僕は緊張していた。担任はそれを察するように世間話をした。臭いの元はバレていなかったはず。ただ、先生は終始鼻翼をひくひくさせていたのが気になった。

「いじめられてるのか」

 担任は言った。

「違います」

 僕は即答した。

 担任の認識に驚いた。――いじめなんて。

 もちろんそんなことはなかった。クラスの子はみんないい奴だ。だからいじめなんて絶対にあり得ない。でも、おならで休んでると知られるのはもっと嫌だった。それでその先、どれだけ問われても休んだ理由を話すのだけは拒んだ。

 すると後日。ある動画が友人から送られてきた。開くなり怒声が響いた。担任だ。担任がクラスメイトを叱り飛ばしているではないか。なんと担任は僕が真実を話さないのを、根深いいじめ問題が眠っていると誤解してしまったようだ。


 僕は倒れそうになった。

 登校するよりほかなかった。

 より効果的な下着をつけて授業に臨んだ。僕はストレスを感じるたびに、放屁。指名されて放屁。褒められて放屁。その度に不本意にも教室が鮮やかなラベンダーのかほりに包まれてしまい、三人くらいを保健室送りにした。いつか、隣のクラスの陽キャ男子が「このクラスいい匂いだな」と揶揄してきたけれど、それも早い段階でなくなった。「おはようございます。さようなら。ありがとうございます」まるで矯正施設に送られたようだった。

 臭いの話はしてはいけない――。クラスには箝口令が敷かれていた。社会主義国家ばりの引き締めだった。思い返せば担任が生徒に対して特別な配慮を求めていたのかもしれない。裏で両親が働いていたことだって考えられる。いじめの被害者も加害者も存在しないのに、みんな僕に優しかった。漠然とだが、バレているような気がした。

 さて。

 その甲斐あってか、ひと月二つ月と経って環境に慣れてくると、おならの回数と臭いはだいぶ低下した。完治まではいかないが、僕はそこそこ満足していた。


 そんなときだった。神奈川県の異臭報道が飛び込んできたのは。


 ゴムの焼け焦げたような臭い、硫黄のような臭いともいわれる謎の臭気が発生しているという報道はお茶の間と、お茶の間に座っている僕を賑わせた。次いで、南は三浦半島から北上しているらしいという続報も入ってきた。

 臭いの発生に周期はない。報道は断続的だった。僕はそれをとくに興味もなく見ていたのだが、あることに気づいてしまった。

 消臭パンツというものはその機能に反して、割と高額であったためもちろん家では着用していない。着用するのは学校のある日くらいだ。が、異臭問題がある日は決まって僕が休んでいた日。つまり家にいた日だったのだ。家だから人の目もない。消臭パンツという枷が外れた僕はぷっぷぷっぷお尻に言わせていた。

 それが、どうしたことだろう。異臭問題と連動しているかもしれないという可能性に思い至り、当然のように僕は慄いた。連日、報道はエスカレーションしていく。救急車で運ばれた人もいると聞いた。インタビューの途中で市民がゲロを吐き、インタビュアーもゲロももらいゲロしそうになったが、どうにか口に手を当ててそれをポケットの中にしまって事なきを得た。そんなテレビも見てしまった。原因を特定しようと議論している専門家の姿を見るたびに、僕は胃がキリキリと痛むのを感じた。

 どうせ、僕が学校に行っている間も昼のワイドショーとかで、頭空っぽなコメンテーターが市民の代表面して「ちょっと原因が分からないと、一市民としては怖いですねー」とか言ってるんだ。それに司会者が「うんうん」と眉根を寄せて頷く。話が広がったところに、面白いでしょ? と言わんばかりに芸人がパンチラインで落とす。でもって、爆笑。

 そいでそいで、そのうちもっともっと大きな問題になる。クジラの死骸か船によるガスの放出か、はたまた地震の予兆か。世論は傾き大規模な調査を求める声が広がって、外にはヘリコプターが飛んで僕を特定せんと、プロペラをはためかせている。ひょっとしたら、放屁だけで自衛隊の不発弾処理が来るなんて展開も考えられる。

 妄想逞しく膨らむのも不安だからだ。眠れぬ夜は一度や二度ではなかった。


 不安は的中した。妄想の後半はともかく前半が事実になった。

 県が、動いたのだ。臭いがあると通報を受け、そこに調査員が急行し、採取。その流れが繰り返された。ビニール袋か何かで強面のおっさんがふぁさふぁさ気体を集めている姿を想像して、僕は少しだけほくそ笑んだ。

 けれどそれもつかの間のこと。臭いの成分がおならだと判明したらどうしよう。僕は気が気じゃなかった。なんたって、僕の屁が県を動かしたのだから。

 僕はさらなる対応を迫られた。ストレスを溜めないように心掛け、消臭パンツを重ね履きした。おかげで下半身だけが競輪選手みたいに膨れ上がって好奇のまなざしは避けられなかった。学校の誰かがマスコミにリークしてしまうかもしれない。僕は疑心暗鬼を生じて内向的に、俯きながら歩くせいで首の皮が弛んでいった。

 だから二〇二〇年四月、世界中の人々がマスクを着け始めたときは咽び泣きそうになった。始めは僕の臭いがとうとう世界の人々に迷惑をかけているのかと思い、気絶しかけた。しかし、どうやらそうではなかった。

 新型コロナウイルス。世界的な感染症の流行のせいで、僕たち人類はマスク着用を余儀なくされたのだった。

 怒りがあった。体育祭、文化祭。コロナのせいであらゆる行事がおじゃんになったのだから。でも、マスクの下では百パーセントの怒りではないことも述べておきたい。

 換言するとこうだ。

 僕のおしりのマスクとみんなの顔のマスクでどうにかこうにかトラブルは回避できたのだった。


 そして今日。

 スキップ、スキップ、ターン。

 久しぶりの登校日。もちろんマスクは欠かさない。

 コロナ禍でも日常を送ろうという動きが出てきたのだ。

 僕はおならで空高く飛び上がりそうなくらい上機嫌だった。……だったのだけれど、急降下。


 まさか、満員電車でが起こるとは思わなかった。


満員電車で、僕は死んだんだ。

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