第3話

 その部屋は広く、明るかった。


「いいよ……そのまま」


 荒い息遣いが二つ、高い天井に吸い込まれていく。


「くっ。……ちょ、っと、きつい」

「もうちょっと。もうちょっとだから」


 額を流れる汗が目に入り、視界が霞む。

 それでも俺は、目の前の柔らかな体を懸命に握り締め、腰に力を入れ直した。


「OKOK。いいよ~。その表情。すごくいいよ~」

「待って。マジで。きつい。そろそろきつい」

「あとちょっとって言ってるでしょ。ほら動かないで」

「いやおかしいって! この体勢は無理あるって!」

「え~。そうかなぁ」


 抱き枕とタオルケットで作り上げた等身大の案山子人形(ツナくん)相手に、カマキリの捕食シーンみたいなポーズを取り続ける俺を、鼻息を荒くしたお嬢様が超速でスケッチしている。

 全身の筋肉が引き攣り、骨が軋むのを感じる。

 ぽたぽたと垂れ落ちる俺の汗が、タオルケットに吸い込まれていく。


「よしっ。こんなところかしらね。まだ書き足りないけど、もういいわよ」

「だっっはぁ」

 待ち望んだその一声に倒れ込んだ俺を、ツナくんが優しく受け止めてくれた。

 ありがとう相棒。今日もごめんな。


「ねえ待って。今ツナくんに頬ずりした?」

「汗拭いたんだよ!」

「アリだわ。それアリだわ。一戦終わって倒れ込んだ俺様をワンコが優しく抱きしめるのアリだわ。リバじゃないわよね? リバじゃないのに一瞬だけ境界が曖昧になるのだわ。ねえ三崎クン。ちょっと今の流れもう一回やってみてくれるかしら」

「無理無理無理。休憩休憩休憩」


 勘のいい方なら察しがついているかもしれないが、橘は漫画家である。

 書いているのはR18のBL漫画。しっかり商業で活躍している、モノホンの作家だ。

 俺は彼女のアシスタント兼モデル役として、時折こうして彼女のアトリエに通っているのである。それこそ今日は、ここのところの大学の講義が忙しく、仕事のほうが溜まっていたのだそうだ。


「あら、随分汗だくね。シャワー浴びてきていいわよ?」

「一応聞くけど、お前今日使った?」

「ええ。徹夜明けに。なぁに? 残り香でも嗅ぎたいの?」

「散らばったスクリーントーン先に掃除したいんだよ……」

 詰まった排水溝から悪神の触手のように伸びる髪の毛にスクリーントーンが絡みつき足元に這い寄る様は、なかなかにホラーだ。

「あらそう。じゃあよろしく」

「へいへい」



 俺はこの女と、互いの弱みを握り合っている。

 三ヵ月前のある日、偶然を知られてしまった俺は、それと同時に知った、橘がどエロいBL漫画を描いているという情報を盾に取り状況をイーブンに持って行った。

 そして、互いの弱点からくる悩みを互いに協力して補うという目論見というか、苦肉の策によって、対外的には恋人関係を装うこととなったのだ。


 橘は、周りにBL描きであることを徹底して秘密にしているためアシスタントを頼める相手もおらず、かといって正式に雇うほど手持ちがあるわけでもない。

『別にお友達がいないわけじゃないのよ? こういうこと頼める相手がいないだけで。お友達がいないわけじゃないの』

『分かった。分かったから』


 そして、俺はというと――。


『絵を教えてほしい?』

『ああ』


 、俺は長年続けていた水泳をやめ、大学では美術サークルに入った。だが悲しいかな、俺に絵の才能なんてものはない。

 そして大学の美術サークルなんていうのは元々絵を描くことが好きな連中が集まって好き勝手活動する場であって、素人に一から絵の描き方を教えるようなトコロではない。

 ジャンルはどうあれ、一応はプロの漫画家に人物デッサンのイロハを教えてもらえるのだとすれば、アシスタント業務も悪くない条件だった。


「それにしても、三崎クン。頼んでおいてなんだけど、こんなに頻繁に私のトコロ来て大丈夫なの?」

「なにが?」


 ものはついでとバスルームの掃除までした後でシャワーを浴び終えた俺が、課題として出されたデッサン人形のクロッキーをこなしていると、橘がそんな問いかけをしてきた。

「いやホラ、高橋さん」

「あいつが何だよ」

「何だじゃないでしょ? 私、たまたま学内であなたと一緒にいたとき、ものすごい形相で睨まれたのよ?」

「俺に言われても」

「じゃあ誰に言えばいいのよ。ねえ、もういいんじゃない? あの子には打ち明けちゃっても」

「……」


 今ごろネット上で知り合った腐女子仲間とのオフ会に出席してるはずの高橋の姿を思い起こす。

「ていうか、そのオフ会大丈夫なの? 最近『女の子だけの集まりだから~』とか言って人呼んで、結局途中から男のところに連れてく、みたいな危ないの、増えてるっていうじゃない」

「……いや、大丈夫だろ」

「もう少し大事にしてあげなさいよ。あんなにあなたのこと思ってくれてるんだから」


 俺のことを思う、の意味が違うだろうが。


『ねえ三崎。この小説のシチュ、あんたと〇〇くんにぴったりだと思うんだけど、どう?』

『三崎。今日誕生日でしょ? はい、これあげるね。ワセリン』

『三崎、三崎。やばい。やばいってこれ。ほら見て、男のエロ下着。今度の水泳部の合宿これ持ってきなよ。△△くんもイチコロだって』


 こんなことを六年以上言われ続けてるんだぞ。

 向こうにまともな恋愛観が備わってるはずがない。

 それに俺だって、高橋のことをそういう目で見たくはないんだ。


 けれど、俺のこの気持ちを理解してくれる人は、今のところいない。

 同性の水樹先輩も、異性の橘も、俺と高橋がくっつくべきだと思ってる。


 違うんだ。

 そうじゃないんだ。

 俺にとって、あいつは……。


 その時。

 俺のスマホがメッセージアプリの着信を伝えた。


《高橋》


 スワイプして現れた文字は、この上なく簡潔だった。



『たすけて』

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