舞姫
ヒタム王太子が櫓に戻って来たのは、昼餉もとうに過ぎた頃だった。先ほどの腰布一枚の姿ではなく、白い上衣と下穿き。濡れていた髪もすでにきれいに整えられている。
「……おかえりなさいませ」
「うむ……」
「優勝、おめでとうございます」
「ああ……」
不愛想なのも、ろくに口を利かないのも、慣れたとは言え寂しいものだ。先ほどのまぶしい笑顔も、到底自分に見せてくれる気はないのだろう。
「プティ様、ここからの眺めは如何でございましたか?」
ヒタムの従者が気を使って話を振ってきた。
「大変眺めがようございます。王太子殿下の雄姿も、しかとこの目で見届けられましたゆえ……」
「それはようございました。殿下も、プティ様に見られていると思えばこそのご活躍でございましたでしょう」
「ふん、おべんちゃらはそのくらいにしておけ」
ヒタムが半笑いで従者を遮る。
「夕暮れにまたここに来る。日没時に、櫓の上からそなたと私が皆の前に姿を見せ、そなたが私の婚約者であることを知らしめるためにな。それでよかろう」
「心得ましてございます」
「では、また来るぞ」
言うだけ言うと、またさっさと出て行った。
プティは黙って平伏してヒタムを見送る。からからに乾いているはずの心が、何故かひりひりとする。
――あの庭園に行きたい。
心はそう訴えている。
夜の風、木々のざわめき、きらめく星々と月明り。そして、悪戯っ子の子猿と美しい乙女。あの出会いが、乾いた心を潤してくれたのだ。だからこそ、会えない時間が余計に切ない。一度知った喜びは、もう忘れられないのだ。
「待たせたな、許嫁殿。居眠りなどしておらぬか?」
軽口をたたきながら、ヒタムが戻って来た。どうやら少しだけ飲んできたらしく、機嫌が良さそうだ。
ヒタムの命令により、茶菓や果物、そして酒と酒肴も運ばれた。ディアと、ヒタムの従者が席を整え、酌をする。
「間もなく、最後の余興が行われる。母なる海に帰る太陽を見送るため、舞姫が踊るのだ。ところでそなた、舞や楽器の心得は?」
「……
「そうか。ちなみにここにいる従者のクディアは
「で、殿下、それはあまりにも畏れ多いことにございまするぞ」
従者は馬面の朴訥そうな、人の好さそうな男だ。冗談とはいえ、王太子に褒められてか、くすぐったそうな顔をしている。
三日月形の板に弦を張った竪琴・月琴。大きな円形の枠に獣の革を張った打楽器・日鼓。小さな鈴をいくつも連ねた
「さて、そろそろ始まるな」
ヒタムが櫓から浜辺を見下ろす。すでに日は傾き、あたりが燃えるような色を示し始めた。浜辺には楽器の奏者たちが並んでいる。それもかなりの人数だ。見たところ、月琴だけでも七、八人はいるらしい。
「ほう、歌い手も並んだな。見ろ、あれが舞姫だ」
薄物の布を被った女性が出てきた瞬間、プティは息が止まりそうになった。布のせいで顔かたちまでは分からない。しかし、ふわふわと柔らかそうな金茶の髪と、香ばしそうな褐色の肌は見覚えがある。華奢な体つきもだ。
――まさか……!
「あれあれ、あの女人はバジャク族の? かような娘をあのような場に出すとは、陛下もどういう料簡であらしゃいますか」
ヴェラットが嘆かわしいと言わんばかりの口調で呟いたのを、ヒタムは見逃さなかった。
「口を慎め、ヴェラットよ。父上は慈悲あるお方だ。あの娘は舞の才がある。ゆえに広いお心でお認めくださったのだ。才のある者は、それがバジャク族だろうと誰であろうとお認めくださる。お前はそんな父上の御心を侮辱するつもりか?」
淡々と、しかしこの上なく冷ややかな口調には、さすがのヴェラットも青ざめたようだ。その場にがばっと平伏する。
「……ご、ご無礼を申し上げました。平にご容赦を……」
「まぁよい。今日はめでたい祭りの日よ。見逃してやろう。さぁ、始まるぞ。プティ、ここに座れ」
ヒタムの機嫌の良さが幸いしたらしい。ヴェラットが安どのため息を漏らすのを横目に、プティは命じられるまま、ヒタムの隣に腰を下ろした。
「今日の舞姫は、確かにヴェラットが言う通り、バジャク族の娘だ。だが、舞のうまさと、気立ての良さもあってな。まだ若いし、刑に処すのも気の毒ということで、命だけは許してやったのだ」
「……さようでございましたか。陛下の慈悲深さゆえでございますね」
「まぁそうだ。で、今日の舞を父上と母上に披露して、その出来が良ければ改めて宮中に召し抱えることとなっておる」
「そ、それはまことでございますか!」
「な、何だプティ。落ち着け。まぁよい、ほら、舞が始まるぞ」
とん、たたん、とたたん、とん、とん、たたん
たん、とたたん、とん、とん、とたたん
日鼓が軽やかな音色をたたき出した。
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