祈り
牛車はゆるゆると進み、やがて祭事の会場へ到着した。迎えの者が声を張り上げ、王太子の許嫁が到着したことを知らせる。
「プティ・ダリ・クァール殿のお越しでございます」
ディアに手を引かれて牛車を降りると、そこは広い海辺だった。周りには着飾った多くの人々が並び、拍手でプティを出迎えた。自分が注目されていることに驚き、とまどい、改めておのれの立場を思い知らされる。
「プティ・ダリ・クァール殿、皆の者に礼を」
一足先に来ていたらしいヴェラットが、ついと前に進み出てプティを促す。そうだ、ここでは王太子の許嫁として振る舞わなくてはならぬ。プティは大きく息を吸うと、覚悟を決めた。ヴェラットに何度も練習させられたように、居並ぶ人々に手を合わせ、軽く腰を屈める。目は伏せ気味にして、特定の誰かと目を合わせないようにする。間違って、許嫁以外の男性と視線を交わすようなことがあれば、大きな問題になるからだ。
作法通りの礼を済ませると、迎えの女官が大きな日傘を差し出した。プティはその日傘の下に立ち、女官に目礼をする。
「では、参りましょうぞ」
ヴェラットの指示で、プティは促されるがまま来賓席へと向かう。
広い砂浜には、木と竹で組んだ大きな櫓がいくつも建てられている。中央にある一番立派で大きいのが、国王夫妻のためのもの。周囲を見下ろせるよう高く造られてある。左隣にあるのは臣下のためのもの。そして右隣が王太子とプティのためのものである。この櫓が、来賓席になるらしい。
「失礼いたします」
そう声をかけて中に入ると、王太子付きの武官と女官が出迎えてくれた。
「ようこそお越しくださいました。殿下は間もなくいらっしゃいますゆえ、ささ、こちらへ……」
中は美しく織られた壁掛けや敷物、鮮やかな色の花などが飾られている。櫓からは遠くまで見渡せるようになっており、海からの風が心地よい。浜辺に集まる人々や祭壇などがよく見える。
ほどなく、ヒタムが入ってきた。プティは平伏し、礼をする。
「プティ・ダリ・クァール、参上つかまつりました」
「……うむ」
ヒタムはどっかと床の敷き布に胡坐をかいて座った。今日も不愛想だ。
「本日はよろしくお願い申し上げます」
ヒタムはじろりとプティをねめつけると、やおら立ち上がり、お付きの者たちに声をかけた。
「……さて、祭事が始まるぞ。お前たちもちゃんとしろ」
「は、はい」
何か話しかけたそうなお付きたちに対し、ヒタムはそう言ってそれ以上の会話を遮った。お付きの者たちは、申し訳なさそうな顔をしてプティに会釈をすると、ヒタムの後を追って出て行った。
結局、櫓にはプティとディア、そしてヴェラットが残る。
「何と、これではいつもと変わりませぬなぁ」
ディアがその場を和ませるように軽口をたたくも、ヴェラットが冷ややかな目でにらみ、再び沈黙が漂う始末だった。
海辺にしつらえた祭壇には、神への捧げものが並べられている。
国王夫妻が祭壇の前に並び、その後ろにヒタムや彼の弟君と思われる王太子たちが並ぶ。さらにその背後には、王族の男子たち。そしてその後ろには臣下たちが並ぶ。祭事の場に出られるのは男のみ。唯一参列を許される女性が、マニス妃殿下ただ一人だ。他の王族の妃や側室は、みな別の櫓の中から様子を伺うのが習わしとなっている。当然、王太子の許嫁というプティも、あの場にいることは許されない。ヴェラットは小さな声で、海の祭りについて事細かに説明をしてくれた。
「……プティ・ダリ・クァール殿もいずれは妃殿下のように、あの場にお立ちにならしゃるお立場にごさります。今からあのお振る舞いをよくご覧あそばして、覚えておかれますように」
「はい……」
妃殿下が祭壇の上から、恭しく酒壺を手に取る。王は海に向かい、祈りの言葉をささげる。
わが母なる海よ
海の底から太陽を産み
海の泡から月を産んだ
われら太陽と月の化身
交わり合って星の子をなした
われらみな全て母なる海の子なり
母の恩に報いんと
ここに祈りを捧げる
願わくば
われらに豊かなる恵みを与え
心穏やかにお過ごしあそばすよう
ここに願い奉るものなり
よく通る声だ。波音や風の音にも負けていない。
「ワルナの神話はご存知でしょう」
ヴェラットが再び低い声で説明をする。
「国を支配するのは太陽。陛下は太陽の化身であらしゃいます。太陽に寄り添うのが月。こちらは妃殿下にあらしゃいまする。そしてそのお子たちが星なのです」
「太陽と、月と、星……」
ワルナの島々も、太陽と月が交わって産んだ子が島になったという伝説がある。われらはみな全て、海の子なのだ。
祈りを終えた王は酒杯を手にし、王妃が酒壺から酒を注ぐ。海に向けて盃を掲げた王は、その酒を飲み干し、海へと深く礼をした。
魚や貝、真珠や珊瑚など、あらゆる恵みを下さる海。しかしながら、時に恐ろしく荒れ、人の命を奪う海。
母なる海。生きるも死ぬも全て彼女次第。だからこそ子らは祈りを捧げ、供物を捧げ、祈るのだ。平和であるようにと。
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