まなざし
「ときにプティよ、ここでの暮らしには慣れたかえ?」
優雅な手つきで二煎目の茶を淹れながら、マニス妃殿下が尋ねた。女官たちに任せず、自ら茶を淹れるとは、畏れ多くもありがたいことだ。
「お陰様で、みな良くしてくださります。ましてやこのように、妃殿下おん自らお茶を淹れてくださるとは、身に余る次第にござります」
薬草と香辛料をたっぷり効かせた茶は、暑いさなかに飲むと逆に汗が引く。若干の渋みがあるが、茶請けに供された茶菓を口にすると、その渋みも逆に美味しく感じられる。
「炒った木の実と干しナツメを細かく刻み、糖蜜に混ぜて固めたものじゃ。妾の好物での」
「甘くてたいそう美味しゅうござります。
「故郷か……そなた、故郷が恋しくはないかえ?」
「それは……」
「……妾がここに嫁ぐために来た折は、ほんに情けないものじゃった。父母が、兄弟姉妹が、乳母が、とにもかくにも恋しゅうて恋しゅうて、泣き暮らしてばかりでな。そこにいるヴェラットにはきつう叱られたものよのう……」
くすくすと笑いながら、彼女は傍に控えているヴェラットを見やった。
「さようなこともござりましたな。わたくしめも若うござりましたゆえ、妃殿下のお心の内を知る余裕もなく、至らぬことも多々ござりました」
にこりともせずにヴェラットがうなずいた。
「……それでも耐えられたのは、陛下の支えがあってこそ。あのお方でなければ、妾はとうに逃げ出していたことじゃろう」
茶菓を齧りながら、妃殿下は微笑んだ。
「プティよ、妾はそなたが可愛い。妾は子宝に恵まれはしたが、全て息子でな。ついに娘を持たなんだ。ゆえにそなたは娘のように思えるのじゃ。だからこそ、そなたには何不自由なく過ごして欲しい」
「妃殿下……」
「先日のヒタムの無礼な振る舞い、改めて詫びを申すぞ。今日はその詫びも兼ねての茶会だったのじゃ」
「身に余るお言葉、畏れ多いことにございまする」
プティは居住まいを正し、平伏して謝意を述べた。
「そうかしこまるでないぞ…そなたは、いずれは妾たちの身内になる。息子夫婦が仲睦まじく過ごせるように支えるのは、姑としての務めじゃ」
「……ありがとう存じます」
彼女の気遣いはありがたい。しかし、実際のところどこまで知っているのだろうか。息子に寵姫がいること、その寵姫に入れ込むあまり、許嫁をお飾り扱いしていること、この先どうあっても王太子の愛など見込めないこと……。
もし全て知ったうえでの振る舞いなら……そう考えるとこれほどの厚遇にも納得がゆく。
「ところでプティよ、そなたのお妃修業のように、わが息子もいろいろと学んでおってな。少し見に行こうではないか」
「妃殿下、さすがにそれは……」
ヴェラットが制すのを意にも留めず、マニス妃殿下はすっくと立ち上がった。
「ヴェラット、そなたは相も変わらず堅物じゃのう。妾が良いと言うておるのじゃ。さ、プティよ。ついて参れ」
朗らかなマニス妃殿下と、苦虫を噛み潰したような顔のヴェラット。対照的な二人の後を、プティは黙ってついて行った。
渡り廊下をしばらく進むと、その奥にあったのは何も装飾のない、質素な中庭だった。炎天下の下、筋骨たくましい半裸の男たちが、そこかしこで取っ組みあっている。腰布一枚だけをまとい、互いに掴みかかり、組み伏せ、時に投げ飛ばそうと実に勇ましい。彼らは王宮の武官たちだろう、武術の稽古をしているのだ。
壮年の男とがっぷり四つに組んでいたのは、王太子その人だ。
「あれはヒタムの師匠でな。王太子と言えど手加減せずに鍛えてくれておる」
力で押し通そうとするヒタムに対し、男は身を柔らかくかわし、くるりと回る。すると、ヒタムは赤子のようにねじ伏せられ、倒れてしまった。
「ほほほ、あれはまだまだ若い。やたらと力に頼ろうとしておるわ。息子よ、力の抜き方を会得なされよ」
我が子に土の付く様を、マニス妃殿下は面白そうに見ている。やがて、遠巻きに眺めている彼女たちに気づいたらしい男たちは、慌てて居住まいを正し平伏した。
「あぁ、よいよい。ちと息子の様子を見に来ただけじゃ。ヴェラットよ、彼らに稽古を続けよと伝えてくりゃれ」
「かしこまりました」
汗と土にまみれていたヒタムも母親に気づき、黙って頭を下げて挨拶した。そして、彼女のそばにいるプティにも気づいたらしい。しかし、そのまなざしは淡々としたものだ。やはり、自分には興味を持ってもらえないらしい。
ヒタムは再び稽古に取り組もうとした。が、ふと何かに気づいたようだ。彼の視線の先は、王宮の楼閣。窓に誰かがいて、稽古の様子を眺めているらしい。
その窓の人物に向けて見せた笑顔とまなざしは、光り輝くようなものだった。あの表情は、とうていプティには望めないのだろうか。
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