子猿と乙女

 雨季が終わり、寝苦しい夜が続くようになった。プティは何度も寝返りを打ち、瞼を閉じては開く。

 眠れないのは暑さのせい。いや、それだけではあるまい。実家にいた頃とは違い、見知った顔は誰もいない。ディアをはじめ、みな優しく接してくれはするが、それはプティが王太子の許嫁であるがためだ。そして、一番大事な相手である許嫁のヒタム王太子はといえば、他の寵姫に夢中である。

 おとぎ話と現実は違う。素敵な王子様とそのお妃様、そんな話に憧れたのは、遠い昔のこと。乾ききった関係は、どうすれば良いのか。今のプティには皆目見当がつかない。

 目は一層冴えてきた。考えれば考えるほど眠れなくなる。昼間はまだいい。お妃教育に精を出していれば現実から目を背けられる。しかし、夜になれば背けていた現実がひたひたとプティを追い詰める。


 プティは寝間着の上に薄物の上衣をまとい、枕元の燭台を手に寝室から裏庭に出た。月も星も明るく、聞こえるのは虫の声のみ。何とも静謐な空間だ。まるでこの世に、自分ただ一人しかいないような気すらしてくる。

 その時だった。キキッという鳴き声がして、ふと見ると足元に小さい子猿がいた。野生の猿は気が荒い。実家でも何度か使用人が噛まれたと騒ぎになっていたのを思い出した。目を合わせてはいけない、猿は目が合うと攻撃されると思い、噛みついたり引っかいたりするのだ。

 目をそらしたプティに、しかしその子猿は甘えたようなしぐさを見せた。寝間着の裾を引っ張り、キィッと短い鳴き声を上げる。

 「なぁに、どうしたの?」

 思わず微笑み、話しかけた。子猿はするするとプティの体をよじ登った。随分と人馴れしている。プティの右肩にちょこんと座り、短く鳴いた。よく見ると、子猿は首に細い金の鎖を付けている。なるほど、人に飼われているのだろう。

 「あらあら、困った子猿ちゃんね。ご主人様が探しているんじゃない?」

 子猿は甘えたような鳴き声を出した。

 「お前、どこから来たの?」

 この離れは、一応自分の住まいだし、お付きの女官たちが猿を飼っているという話も聞いたことはない。

 と、子猿がプティの言葉を理解したかのように、プティの肩から降りた。そして、ついてこいとでも言わんばかりに、ちょこちょこと歩き出した。

 「えっ、そっち……?」

 庭の奥は樹木が茂っていて、その先は見えないかと思っていた。しかし、子猿はその樹木の隙間を潜り抜ける。燭台の灯りをかざすと、人がかろうじて一人通れるほどの獣道のような小路になっているのが分かった。

 子猿は歩いては立ち止まり、立ち止まっては振り返る。それはまるでプティについて来れるかと問うかのようだ。

 「大丈夫よ、ちゃんとついていくわ」

 真夜中の珍客の招きに応じ、プティは小路を通り抜けた。

 「まぁ……これは……」

 小路を抜けた途端、広い場所にたどり着いた。そこはさびれた小さな庭園だった。もう何年も手入れがされていないらしい。草木も花も好き勝手に生い茂っている。庭園の中央には、小さな水場と、苔むした石造りの東屋。水場の水は湧き水らしく、濁りもせずにきれいな水をたたえている。荒れ果ててはいるが、昔はなかなかのものだったのではなかろうか。

 東屋には人影が見えた。

 子猿はその人影を見るや否や、鳴き声を上げて走っていった。おそらく、この人が飼い主なのだろう。

 「あ、あの……その子、あなたのお猿さん?」

 プティの声に、その人が振り返った。月の光と燭台の灯りに照らされたのは、年若い乙女。プティと同じくらいか、少しばかり年下のようだ。

 腰の辺りまで伸ばした、柔らかそうな金茶色の波打つ髪。この国ではあまり見かけない褐色の肌。瞳の色は薄いとび色。彫りの深い顔立ち。衣の上からでも分かる、飴細工のように華奢な体つき。肌の色が際立つような、乳白色の衣は薄絹だろうか。暗くてよく分からないが、金糸の刺繍が施された、高価そうなものらしい。

 「あ…ありがと、ございます。この子、いなくなって、わたし、捜していた」

 外国訛りのつたない言葉づかい。どこかの客人だろうか。

 子猿は乙女の腕にしがみつき、甘えたような表情を見せた。

 「…良かった。私の庭に来たのだけど、あなたのお猿さんだったのですね」

 「はい、そうです。この子、わたしの、大事な、おともだち。いなくなって、捜した。迷子、見つけてくれてありがと、ございます」

 どことなくおどおどした様子の乙女が気の毒になり、プティはわざとおどけたような口調で子猿に話しかけた。

 「まぁ、ご主人様を困らせるなんて、悪い子猿ちゃんね」

 異国の乙女が、ふふっと笑った。

 「この子、悪い子。困った、お猿さん」

 二人は顔を見合わせて笑った。

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