出立の日

 「ブンガ=ワルナの頭領にしてクァール一族の長、バパット・クァールが娘、プティ・ダリ・クァール殿。そなたを偉大なる国王陛下チョクラット三世陛下のご子息であられる、ヒタム王太子殿下の許嫁として認めることを、ここに知らせたもう」

 王都・クルシ=ワルナからの使者が、勅書を手に朗々と読み上げて婚約を宣言する。プティと両親は膝をついて頭を垂れ、手を合わせた礼で応える。これでプティは王太子との婚約を交わしたこととなった。父親の話から半月もしないうちにこれである。

 目立たないように暮らしていた自分が、国中でもっとも目立つ立場になる。実母が生きていたら何と言うだろう。しかし、プティにできるのはこの婚約を承諾することだけだ。妾腹の娘に拒むことなどどうしてできよう。

 勅使たちは三日後にブンガ=ワルナを発つ。その時、プティも一緒にこの地を離れる。もう二度とここに戻ってくることはないだろう。


 「プティ殿におかれましては、王宮にてお妃教育を受けていただきます。期間は一年間。王宮のしきたりや礼儀作法を学び、王太子妃としてふさわしい女性におなりあそばすよう、ようようお励みくだされ」

 「……かしこまりました」

 「聞けば、プティ殿は文才に優れ、詩作がお得意とか。そのように賢いお方でいらっしゃいますなら、我々も教え甲斐があるというものでしょう」

 「恐れ入ります」

 いつの間にそんなことまで知られていたのか。おおかた父母が自慢話でもしたのだろう。

 「ささ、勅使殿。さぞやお疲れでございましょう。どうぞこちらへ」

 婚約の儀を済ませ、得意満面のバパットが勅使たちを案内する。イブニャは使用人たちに目配せをして、宴席の用意を促した。


 ブンガ=ワルナの港に、王族の紋章を帆に記した船が数隻停泊していた。従者たちが船に荷物を積み込んでいる。あっという間に出発の朝だ。プティは家族を前に、別れの挨拶を交わしていた。

 「ねーねー、おかーさん。あれなぁに? あのひとだぁれ?」

 「クァール様の末のお姫様よ。お嫁入りして、お妃様になるの」

 「わぁ、すてき。おかーさん、あたしもおきさきさまになれるかなぁ」

 「そうね、いい子にしていたらなれるかもしれないねぇ」

 遠巻きに見ている人々の中から、親子の他愛ない会話が聞こえてきた。ブンガ=ワルナの人々が自分に注目しているのが分かる。

 年頃の娘なら、喜びと期待に胸を膨らませていることだろう。だが自分はどうだろう。 怖いとか不安とは違う。でも、嬉しさや楽しみもない。ただ、この先への期待など何一つ持てないのだ。親や周囲の人が決めた婚姻。そしてそれを受け入れる以外の選択肢がない自分。せめて、嫁ぐ相手がやさしい人であれば良いのだが……。

 「どうした、わが娘、プティよ。不安なのか?」

 バパットがプティを見やる。

 「心配ないぞ。王宮での暮らしに不自由はさせぬ。ここに用意したものは当座のものだが、嫁入り道具と花嫁衣裳は、これから用意する。楽しみにしておれ」

 「ありがとうございます」

 バパットは、プティの顔を覗き込むと、小さな声で低く囁いた。

 「くれぐれも、この父の顔に泥を塗るような真似はならぬぞ」

――やはり、それが本心か。

 傍から見れば嫁ぐ娘を案ずる優しい父親にしか見えない。しかし、バパットの目は笑っていなかった。プティは納得する。自分はこの父の手持ちの駒にすぎないのだ、と。

 「……心得てございます」

 「うむ、来年の結婚式まで、大事なく過ごせ」

 次は義母イブニャと、腹違いの兄や姉たちだ。

 「プティ、おめでとう。一年間頑張るのよ」

 「元気で過ごせよ」

 「来年、お式で会いましょうね」

 「楽しみだなぁ。時々は手紙をくれよ、王宮の様子を教えてくれ」

 腹違いの姉や兄たちは屈託ない笑みを浮かべ、妹の婚儀を祝福してくれた。その表情に妬みの色はない。ただ、長兄だけは、少しばかり気の毒そうな顔をしていた。

 やはりそうだ、こんな自分にお鉢が回ってくるというのは、何かよほどの事情があるに違いない。もしかしたら、既に姉たちは事情を知ったうえで、王太子を拒んだのかもしれない。

 「では、プティ殿。こちらへ」

 勅使と従者に促され、プティは船に乗り込んだ。港の人々は歓声を上げてプティを見送る。プティは手を振って応えた。潮風がやさしく頬を撫でる。

 「潮風よ……」

 つい詩を詠みたくなる。思わず口からこぼれた言葉に慌てたものの、幸いなことにプティのつぶやきは誰にも聞こえなかったようだ。

 ――そうだ、詩を詠もう。嬉しい時も、悲しい時も。そして、不安な時こそ。




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