第28話 コオロギの話⑪

 木と木の隙間をうように歩いていた。歩くことができているのは、健全なたくましさを湛えた木が両脇から僕を支えてくれているからだ。そして、迷わず目的地にまで一直線でいられるのは、オジの携帯電話のGPS機能のおかげだ。この携帯電話はオジの尻ポケットから拝借した。ちょっと借りますねー、と許可を求めたので、無断ではない。オジは、恨めしそうに僕を見上げるばかりで承諾の意志は示してくれなかったけれど。

 でも最初に僕の両手を磔にしたのはオジだったわけで、引き抜いたナイフを使いそっくりそのままやり返したところで恨まれるのは心外である。とはいっても、今更オジにどう思われようが何とも思わないが。……そう、なんとも。

 依然としてふらつく足取りではあるけれど、道に迷ってあてどなく彷徨うわけでもないし、ましてや一流の殺し屋と命の取り合いをするわけでもないので、足を動かすモチベーションは保たれている。なるべく早くヘイワと合流したったのでのんびりはできないが、ゆっくり慎重に歩くのが今の最速だと割り切り、一歩ずつ柔らかい土に足をめり込ませていった。オジを出発して間もなく二十分間が過ぎる頃だが、目的地までは目前だった。「おい、コオロギか?」と声を掛けられたのは、ヘイワたちの姿を肉眼で確認し、木の影からそちらを伺っていた時だった。

 声は、静かに叫ぶ、といったもので、僕の位置からは少し離れたところから発せられ、そして、だみ声だった。ユウサクだ。彼の姿を探すと、この位置からはほぼ真下と言って良さそうな五メートルほどの高低差がある急斜面の木の影から、顔だけを出して僕に手招きをしていた。「ユウさん!」と、僕も静かに叫んだ。足音は水分を多く含んだ地面が吸収してくれるので、滑落にだけ気を付けてユウサクに駆け寄った。

 こんな所で何をしている? というニュアンスの言葉を、図ったようなタイミングで互いに交換した。「ヘイワさんたちが捕まっちゃったんです。それを助けようと思って」と僕が先に答える。ユウサクは「野暮用を済ませて村に来たらよ、ドンパチが始まってて焦ったわ」と言って周囲をぐるりと見回した。その臆病な様子は少々芝居がかって見える。つまり、飄々ひょうひょうとした普段通りのユウサクだ。

「というか何だお前のその格好。公園で泥んこ遊びでもしてたのか」

「そうなんです。偶然会ったお友達と思いの外盛り上がっちゃって。……ってユウさん、食い付くのそこ? ヘイワさんが捕まっちゃったんだってば」

「ああ、そりゃ冗談だろ。笑える笑える」

 ユウサクが僕を信じないのも無理はなかった。僕だって同じことを言われたら一笑に付すことだろう。でも今は実際に十三人のスーツの男たちに囲まれ同じ数の銃口を向けられている。笑える状況ではなかった。迂回うかいして先程まで僕がいた場所にユウサクを誘導し、該当の光景を見てもらってようやく彼は「捕まってるな」と納得した。

「どうするんだ? 十人以上いそうだけど」

「それを考えていたんです。実は僕、泥んこ遊びでくったくたで……」と困り顔をユウサクに見せ、再びヘイワへ視線を移す。「せめてあの半分くらいだったら何とかなると思うんだけどなぁ……」と溜息を吐いた。

 確認ができているだけで至高会の人間は十五人。十三人が行儀よく円になり、その円の中央にいる五人の人間に銃口を向けていた。中央の五人は、ヘイワとクロカワと、あとは名前を知らない同僚三人。全員ひざまずいて両手を腰の方に回している。自由を奪われているとみて間違いないだろう。その一団から少し離れた場所に、僕と同業と見てよさそうな男が一人、キャンプなどで見かける折り畳みチェアに腰かけて携帯ゲーム機で遊んでいる。その男を同業だと推測するのは、服装を根拠としていた。他の人間が一様にスーツであるのに対し、そいつだけが黒一色の戦闘服を着ている。こんな状況下でゲームに興じているイカれ具合も、何となく自分と同じ匂いだと感じた。そしてもう一人は知った顔だ。カミナガは、トランシーバーに向かってずっと忙しそうにしていた。オジの現状を把握しているかどうかは判然としない。

「お前、武器とか持ってるのか?」

「あ、はい、お友達から拳銃二丁。これです」

「うわっ! なんだお前その手、怪我してんのか?」

「しー……、静かに。ただでさえミカンが腐ったような声してるんですから」

「腐ったミカンの声ってどんな声だよ。聞いたことあるフレーズだけど。……まあいいや。ほれ、一つ寄越せ。いや、二つ寄越せ」

「え何で、ずるい。僕だって拳銃構えて、動くな! って言いたい」

「馬鹿垂れ。お前、そんな手でどうやって引き金引くんだよ。俺が持ってた方がマシだ」

「そんなこと言って……ユウさん、拳銃とか使える人なんですか?」

「馬鹿垂れ。握ったこともねえよそんなの。良いからほれ、行くぞ」

 え……行くってどこへ? と質す間もなくそそくさとユウサクはヘイワたちが拘束されている方向へ歩いて行った。「ちょ……、ちょっとちょっと」とユウサクの肩を捕まえることができたのは、それまで隠れみのにしていた茂みから全身をさらけ出してしまってからで、彼の無策を責めても時は既に遅しだった。トランシーバーに口を当てていたカミナガと目が合ってしまう。

 しかしユウサクは決して無策というわけではなかった。そこから、予想すらしていなかった現実が僕の理解よりも早く展開していく。


 まず、カミナガに意識を向けて無防備になっていた方向から不意に束縛を受けた。ユウサクは肩に置いていた僕の親指をつかみ、僕の裏に回り込んで親指を捻り上げた。開いた方の手に持つ先程渡した拳銃で僕の背中を突き、「悪いな」と前進を強要してくる。

 恥ずかしいことに、裏切り? と驚いたのは強要されて十歩ほど進んでからだった。それまでは、俺を盾にする作戦ってまたまたぁ……、などと状況的にあり得ないユウサクの決死のジョークかと思っていて、十歩進んでからカミナガが発した「おう、カエル。来てたのか?」の発言に「お疲れ様です。こいつ、そこに隠れてたんで」とだみ声が返事をするのを聞いてようやく驚けた次第だった。

「カエル? ……はは、ピッタリの名前」

「余計なことしゃべるな。大人しくしてろ」

「はいはい、もうさ……抵抗する気も起きないよ」と身体中の力が抜けるのは、また裏切りって……本当嫌だ。という絶望的に寂しい気持ちが理由であり、仮にこの場を切り抜けて生き永らえても、この先ずっと今みたいな気持ちにおびえながら生きるのは途方もなくしんどいな、という当然の弱音が理由だった。

「あっはっはっは! これはこれはマルタ君、ごきげんよう!」と言ってつかつかと近付いてきたカミナガは、僕の前に立つなり右頬を平手で打ってきた。首が左へ弾かれる。「オジさんが心配してたぞ、お人形さんをどっかに落としてきちゃった、つって」と、乾いた音を響かせて右へ首が飛ぶ。「どこに隠れてた? あぁ……、お前もこのクソど田舎にこそこそ逃げて隠れてたクチか。ごめんなぁ、見付けちゃったわ」と三度平手を受ける。オジの部下かと思っていたカミナガは、その暴力が単なる暴力で、殺し屋としての部下でないことはすぐに分かった。やけにゆっくりに見えるカミナガの手の動きに合わせ首をずらせば、平手の衝撃など簡単に緩和かんわできるところだが、避ける気も失せている僕は、されるがままに相手の嗜虐心を満足させていた。

「カミナガさん、素敵な趣味は後でゆっくり楽しんで下さいや。それより状況はどうなんです? オジさんの姿が見えませんが」

「舐めた口きくじゃねえかカエルよ。オジさんに気に入られてるからって調子ん乗ってんじゃねえぞ。良いか、こんな辺鄙な集落にこんだけ兵隊集めて首尾が悪いはずねえだろ。誰も仕留められなかったタシロもあんなにあっけなく捕まえたぞ。分かったら黙って見てろ」

「嫌だなぁ、そんな怒んないで下さいよ。……それで、オジさんはどこで? ちょっとお耳に入れておきたいことがあるんですけどね」

「知らねえよ。どっか行ったきり連絡がつかねえ。まあ、オジさんのことだから大方どっかで程良い獲物でもつかまえて俺よりも素敵な趣味に熱中してるんだろ」

 ユウサクがオジの名前を出している違和感をどう受け止めて良いのか分からずカミナガとの会話を聞いていると、ちょっとしたいたずら心が生まれた。最後に一矢報いておきたい、と思ったのかもしれない。「あの……」と、恐る恐る二人に呼び掛ける。

「ほんと申し訳ないと思ってるんですけどね、お二人がお探しのオジさん、今頃地面に這いつくばってると思いますよ」

「あ? 何だそれ。どういう意味だ」

「あれ、日本語難しかったですか? だから、……俺があのゴミを処理したっつってんだよ」

 言い終わり、反応を鈍くして顔を紅潮させたカミナガが、トランシーバーを離して握りしめた右拳を僕の鼻目掛けて打ってきた。筋肉の強張りと腕の振りかぶりで、どのタイミングでどう身体をずらせばそれを避けられるか、軽く百通りは思い付いたが、先程同様に何の防御も講じず真正面からそれを受ける。威力はなかなかのもので、後方に飛ばされた。尻もちをつきながら見上げると、下顎を突き出して歯軋はぎしりを鳴らすカミナガが僕の胸倉に向けて両腕を伸ばしてくるところだった。予想よりは強く喉元を絞められ、ぐう、と声が出る。「てめえがオジさんをやった? はっ、笑える!」と、欠片も笑顔が見られない激昂げっこうの表情で、カミナガは唾を飛ばす。

 僕とカミナガの顔の丁度中間地点に、オジの携帯電話を差し込んだ。それを認めたカミナガは胸倉を絞めていた両手で勢いよく僕を倒すと、自分の携帯電話を操作して耳に当てる。数秒後に、僕がつまんでいる携帯電話が低い振動音を響かせる。これが鳴ってるんですよ、というにこやかな笑顔で、つまんでいる携帯電話を指し示してあげた。

 カミナガは、携帯電話をしまった。

「て、てめ……」と、顔は紅潮を進行させて、もはやどす黒く見える。

 そして拳銃を構えてきた。

 指は、引き金に掛かっていた。

 暴力は下手くそだったが、重火器の扱いは僕よりかは一日いちじつちょうがありそうだ。カミナガの構えはそれなりに様になっている。


 一発。破裂音。


 その、銃声には、遠慮がなかった。

 残響が空気に吸収されていく。


 やがて、「ん?」と、とぼけた声がした。

 それはカミナガの声だった。三本指になってしまった自分の右手を眺めている。

 不思議そうな表情を浮かべているのは、それまで握っていた拳銃がいつの間にか消えていたから、だろうか。それとも数十年間苦楽を共にしてきた利き手の形状が著しく変形していることの意味が理解できないからだろうか。

 銃声は、ユウサクの持つ拳銃から鳴った。

 そちらへ首を向けると、想像よりも強かった発砲の反動にしびれたのか、手を労わるようにさすっているユウサクが、顔をしかめて「おお、こりゃ凄えな」と言っていた。

「なんだこれ、なんなんだぁぁっ⁉」

「失敬失敬。拳銃を狙ったんですよ。ほら、西部映画とかみたいに、ぱーん、つって」

「カ……エル……。て、てめええぇぇえっ‼」

「あぁあぁこりゃまずいな、ドバドバ血ぃ出てら。えっと……コオロギ、この銃持ってて」

「え? ……あ、はい」

「あ、ちょっとカミナガさん動くなって、少し服ちぎるだけですから……よっと。ほれ脇開けて。んー…………ああもう! コオロギ、悪いがそっちからこの馬鹿押さえてくれ」

「え? ……あ、はい」

「これを、…………うしっ! 良いだろ」

「ユウさん、何してんの?」

「何って、止血」

 何をしているのか、と自分で質問をしておきながら、それがユウサクのどの行動に対してのものなのか分からなくなっていて、「あ、そう」という間抜けな相づちを打つことしかできなかった。止血をしていることは理解できていたので、少なくとも今のユウサクの回答が的を得たものでないことだけは確かだ。


 携帯電話で誰かと話をしながら小走りで駆け寄って来るヘイワを視界の端に捉えると、頭を鈍器で殴られたみたいな衝撃を伴って、「そういえばクロカワさんたちは?」と思い至る。

 凄い勢いで首を回し、十三人の円の一団を見た。すると、スーツ姿の十三人は一人も立っておらず、代わりに四人が立っていた。クロカワと同僚たちは手首をさすりながら何かを話している。そして再び鈍器で殴られ、携帯ゲーム機で遊んでいた同業者風の男の方へ視線を走らせると、そいつも十三人と同じくその場に仰向けで倒れていた。

 それらの光景を脳が処理するよりも早く、すぐ横にヘイワが到着した。「分かりました。ではシュウさんは一足先に打ち上げ会場に向かって下さい」と電話を切ったヘイワは、僕とユウサクを見て「二人とも、お疲れ様です」と優しく口角を上げた。

 何一つ分かっていなかったけれど、ヘイワの笑顔で、安心して良い、という許可をもらったみたいに全身が弛緩する。この弛緩は、諦観ていかん、ではなく安堵によるものだ。僕の理解は全く追い付かないまま、予想していなかった現実が、展開をひとまず収束させた。

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